俺の目標である超然たる人間というのは酷く人間性が欠けたものであろう。しかし、俺はその人間を感じさせない精神的な強靭さに憧れる。
未だにtwitterのリプライやその反応の無さ、日常生活における人間関係の疎外感を一々気にするきらいがあるけれども俺が思うに真の精神的強さというのはこういったことに「耐える」のではなく「享受する」ことだと思っている。
つまり、疎外感なんかを一種の悪いものとして捉えているから「耐え」なければならないわけで、それを善し悪しもない一つの事実として「受け止める」ことこそが真の強さだと思う。
論語の中に食糧難になっている陳にいたせいで飢えに晒された孔子に弟子が「君子で間違えることはあるのでしょうか」と尋ねた。(半分嫌みだが)「君子でも間違えは犯す。しかし、小人はうろたえるが君子はうろたえないのだよ」という孔子の答えの中に真の精神的強さというものが何たるかが内包されている。挙げればキリがないが仏陀や孔子などがいう中で共通するものはこの動揺しないこと、つまり超然とすることじゃないだろうか?
まだこれに関しては自分の中でも霞を掴むようにはっきりとせず、未だに本質を掴めていないが他人に邪魔されずに真に自由な生き方を志す上で他人が自分に対してどう思っているだとか考えていたのでは精神的な自由は一生掴めないのは確かな気がする。
かといって傍若無人とは違い正道を進みながらも清濁併せ呑み尚且つ自由にやることこそが理想だと心得る。
友人に「俺表裏ない人間だから」とやけに得意そうに言われたので「表裏ない人間なんてものはいないし、いたとしても社会不適合者には間違えないだろう」といってやったら彼は俺に「お前は可哀相な男だな」といった。
多分その言葉に暗示されているのは「お前はいつも人間というのは何かを隠して生きていると考えている心の小さい人間で可哀相だな」といったことだろう。大人ぶりたい友人らしい答えだ。しかし、彼のいう表裏がない人間というものがいるのであればそれは「思ったことを総てに口に出す人間」ではないだろうか?表裏がないというけとの定義が本心と発言の一致なのか、それとも陰口を叩かないという意味なのかは議論の余地があるが彼の言行から考えるに恐らく前者であろう。
俺は思うにそもそも彼の「表裏があること」が悪いことだという前提で話しているのが間違えだとおもう。幼稚園児ですら言いたいことを潜めることはある。そんなことができない人間は社会の中で生きていく資格はないし邪魔者扱いされても文句はいえまい。自分の精神内から発言として世の中に出すときに社会的責任は付随するのだし、どんな人間だろうとも負の感情を持つものであってそんなことすら悪いと思うのはあまりにも狭量に思える。
だから俺からみれば彼は「必要悪も認められない可哀相な男」なのだ。寧ろ「表裏のない自分」に酔っているように思える。
そもそも発言に対しては社会的責任が付随するのに対して感情には付随しないのは、発言は自主性によった理性を通したものに対して感情はほぼ自然発生的なものだし悪口を言われて嫌な感情を持つというのはその人の自主性によるところではないからである。
こういった必要悪というか負の感情をもってしまうという仕方のない部分を許容できることこそ清濁併せ呑む器の大きさであろう。
未だにtwitterのリプライやその反応の無さ、日常生活における人間関係の疎外感を一々気にするきらいがあるけれども俺が思うに真の精神的強さというのはこういったことに「耐える」のではなく「享受する」ことだと思っている。
つまり、疎外感なんかを一種の悪いものとして捉えているから「耐え」なければならないわけで、それを善し悪しもない一つの事実として「受け止める」ことこそが真の強さだと思う。
論語の中に食糧難になっている陳にいたせいで飢えに晒された孔子に弟子が「君子で間違えることはあるのでしょうか」と尋ねた。(半分嫌みだが)「君子でも間違えは犯す。しかし、小人はうろたえるが君子はうろたえないのだよ」という孔子の答えの中に真の精神的強さというものが何たるかが内包されている。挙げればキリがないが仏陀や孔子などがいう中で共通するものはこの動揺しないこと、つまり超然とすることじゃないだろうか?
まだこれに関しては自分の中でも霞を掴むようにはっきりとせず、未だに本質を掴めていないが他人に邪魔されずに真に自由な生き方を志す上で他人が自分に対してどう思っているだとか考えていたのでは精神的な自由は一生掴めないのは確かな気がする。
かといって傍若無人とは違い正道を進みながらも清濁併せ呑み尚且つ自由にやることこそが理想だと心得る。
友人に「俺表裏ない人間だから」とやけに得意そうに言われたので「表裏ない人間なんてものはいないし、いたとしても社会不適合者には間違えないだろう」といってやったら彼は俺に「お前は可哀相な男だな」といった。
多分その言葉に暗示されているのは「お前はいつも人間というのは何かを隠して生きていると考えている心の小さい人間で可哀相だな」といったことだろう。大人ぶりたい友人らしい答えだ。しかし、彼のいう表裏がない人間というものがいるのであればそれは「思ったことを総てに口に出す人間」ではないだろうか?表裏がないというけとの定義が本心と発言の一致なのか、それとも陰口を叩かないという意味なのかは議論の余地があるが彼の言行から考えるに恐らく前者であろう。
俺は思うにそもそも彼の「表裏があること」が悪いことだという前提で話しているのが間違えだとおもう。幼稚園児ですら言いたいことを潜めることはある。そんなことができない人間は社会の中で生きていく資格はないし邪魔者扱いされても文句はいえまい。自分の精神内から発言として世の中に出すときに社会的責任は付随するのだし、どんな人間だろうとも負の感情を持つものであってそんなことすら悪いと思うのはあまりにも狭量に思える。
だから俺からみれば彼は「必要悪も認められない可哀相な男」なのだ。寧ろ「表裏のない自分」に酔っているように思える。
そもそも発言に対しては社会的責任が付随するのに対して感情には付随しないのは、発言は自主性によった理性を通したものに対して感情はほぼ自然発生的なものだし悪口を言われて嫌な感情を持つというのはその人の自主性によるところではないからである。
こういった必要悪というか負の感情をもってしまうという仕方のない部分を許容できることこそ清濁併せ呑む器の大きさであろう。