江戸っ子の生まれ損ない金を貯め、なんて言いまして、江戸っ子というものはどうも金に執着がなかったなんてぇますな。今日稼いだ金は今日中に使ってしまう、宵越しの銭は持たないなんてえことを自慢にしていたなんてぇことをよくうかがいますが、本当だったのかどうだったのか、なんていうふうなことをお年寄りに聞いたことがありますが、いやそりゃ間違いなくそういうことをしていたんだよてぇことを聞きました。考えてみると、商人と違って、まあ江戸っ子の代表ってぇますってぇと、御職人でございますから、商人と違って金を蓄えるということをしない。金は腕ン中に入ってえる。ねぇ。だから金が欲しいときには仕事をすりゃあいい。またその時分は、確かに腕の良い御職人になるってぇと、仕事が降るほどあったんだそうですな。ですからそういうことの心配がない。だからなまじ、この、金なんぞ貯めるってえと、そらもう評判が悪い。一所懸命使おうと思ったって、そう人間使えるもんじゃありませんから、残るってぇと皆で考えてたそうですな。
「オレも余っちゃったよ。しようがねぇなぁ。ほんとに、取っとくなんてことはできないよ。江戸っ子の恥だからなぁ。しようがねえ。どっかへ行って、皆でうっちゃっちゃおうじゃねえか」なんてんで表に金を捨てに行ったなんて話があります。拾ったって話があんまり聞かれてないんでね、これもあんまり当てになった話しじゃございませんですが、まあそのぐらいにとにかく、宵越しの銭を持たないというのが、自慢、こういう手合が本当にいくらもいたんだそうでございますな。江戸っ子の生まれ損ない金を貯め、などと云うわけで。
「弱っちゃったなぁ。財布を拾ったら、おめぇ、中に金が三両、書付に印形が入ってやがんだ。書付に『神田小柳町大工吉五郎』としてあるんで、この野郎が落っことしやがったんだ、ドジな野郎じゃねぇか、本当に。この忙しいのにな、名前と町ところが分かってるんだ、届けない訳にゃいかねえやな。よし、じゃ、もう届けに行ってやろう、なぁ。この辺りが確か小柳町なんだがなぁ。ここでちょいと聞いてみるか。おう。御免よう」
「へい、いらっしゃいまし。えぇ、お煙草は何を差し上げましょう?」
「煙草?煙草なんざ要らねえんだよ、おれは。買わないよ」
「あ、煙草をお買いになるんじゃないんですか。あ、そうですか。へぇへぇへぇへぇ」
「なんだ、大層がっかりしてやがるな。ちょいとものを聞きてぇんだよ」
「なんでございましょう?」
「この辺りは小柳町だな?」
「へい、左様でございます」
「大工でもって、吉五郎ってのはいるかい?」
「あぁ、吉っつぁん。へいへい、吉っつぁん、居ますが、何か?」
「知ってんだったら、どこにとぐろを巻いてんだか教えろぃ」
「蛇だね、まるで。家を聞こうってんですか?」
「うるせえな、こん畜生は。今そう言ってるんだから、同じことを言うんじゃないよ。どこなんだか、教えなよ」
「あ、そうですか。吉っつぁんの家はね、ここを真っ直ぐ行きますとね、米屋がありますよ、右側に。そこを入るんです。角から五軒目でね、***障子で、丸に吉の字としてありますからすぐに分かりますよ」
「そうかい。分かってんだったら早く教えろい、こん畜生。間抜け。有難うよ」
「なんだぁ、あの人は」
「あぁ、ここか。なるほどなぁ。***障子がはまってて、ちゃんと丸に吉の字としてあらぁ。貼り替えたんだな。新しくなってやがる。欄間から煙が出てるよ。魚でも焼いてるのかな。どういうことになってんだか、一つ中の様子を見ねえっていうとな。ちょいと、障子に穴空けて覗いてやろうじゃねぇか。どういうことになってんのか。あぁ、居やがった、居やがった。あの野郎が吉五郎ってんだな。財布を落っことすような野郎だからな。間抜けな面してやがらぁ、本当に。何してんだい。あ、ははぁ、鰯の塩焼きでもって一杯酒ぇ飲もうってんだ。酒を喰らってやがんだ。ドジだねえ、本当に。止しな止しな、そんな、お前、しつこいもんで酒なんぞ喰らうんじゃねえよ。もっとあっさりしたもんでやれぃ」
「うるせい、畜生。しつこいもんでやろうが、あっさりしたもんでやろうが、オレの勝手だい。手前の世話にはならねぇ。せっかく貼り替えた障子に穴空けやがって。覗いてなんか言ってやがんな。用があるんだったら、そんなとこで覗いてねぇで、その障子開けてこっちへ入れ」
「あったりまえだぃ。障子開けずに入れるかい。隙間っ風じゃねえや。よいしょ。おう。おめえが大工の吉五郎ってのか?」
「そうよ。手前はなんでえ」
「オレは左官の金太郎ってんでい」
「お前、金太郎?金太郎にしちゃ赤くねえな」
「まだ茹でてねえんだい」
「生で来やがったな、この野郎。なんか用があるのか」
「当たり前だよ。用がなくてこんな小汚いとこに来るかい」
「こん畜生、喧嘩を売りに来やがったな」
「いや、そう、そう、そう、そうじゃねえんだい。お前今日柳原でもって財布落っことしたろう」
「何?」
「柳原で財布落っことしたろってんだよ」
「冷たい水で顔を洗って出直せよ、こん畜生。なぜそんなことをオレに聞くんだい。落っことしたんだよ、オレは。どこに落っことしたか分かったら拾ってくるんだ、間抜け」
「ああ、そうか。そらあおめえの言う通りだ。おめえな、柳原でもって財布落っことしたんだよ。オレが通りかかって拾ってやった。中を見たら金が三両、書付に印形が入ってた。書付見て、おまえだってことが分かったんだい。持ってきた。さあ、おまえに渡すから、いいか、改めて、受け取れ」
「こん畜生、余計なことをしやがって」
「何が?」
「何がじゃねえや、本当に。こっちはおまえ、金を落としてさばさばとして、ああこれでもって厄祓いだなと思って、ありがたいってんで、今オレは飲んでんじゃねえか。わざわざ持ってきやがって本当にしようがねえやつだな。そらおめえ、印形と書付はオレのもんだい。金は要らねえや。よいしょ。手前にやるから、帰りに一杯やれぃ」
「こん畜生。何をしやがんでぃ。オレはなぁ、礼をもらおうと思ってお前のとこに届けに来たんじゃねえんだぞぅ。お前が困るだろうと思うから持ってきてやったんだ、なんで受け取れねえんだい」
「困る?冗談言うない、三両ばかりの金でもって何が困るんだい?いつでもどうにでもなるんだ。手前にくれてやるから持ってけってんだい」
「オレは要らない、そんな金は。そんな金もらうぐらいだったら端から届けないんだ、畜生め。せっかくオレが届けてやったんだからなぜおまえ、受け取れねえんだよ、こん畜生め。お前の金じゃねえか」
「そらあ元はオレの金だった。元はな。だけど、一旦懐から飛び出したんだ。二度と敷居は跨がせない。落っことした金を届けてもらって、ありがとうござんす、なんてんで、こいつを頂いて大事にしまっとくなんてそんなさもしい料簡はオレにはねえんだ。手前が拾ったんだから褒美にくれてやろうってんだい。持ってけ、こん畜生。持ってかねえってえと張り倒すぞ」
「こん畜生、本当に、黙って聞いてりゃいい気になりやがって。面白えなぁ、ええおい。拾った財布を届けてやって張り倒されるなんて、そんな分からねえ話はねえや。張り倒せるもんだったら、張り倒してみろ」
「そうか、お前が誂えるんだったらオレは知らねえや。じゃあ張り倒してやろうじゃねえか。こん畜生」
「この野郎。やりやがったな」
「おうなんだ」
「こん畜生」
「こん畜生」
「おうおう、ちょっと大変だよ。大家さん、すぐに来ておくれよ、大家さん。喧嘩喧嘩、喧嘩、喧嘩だよ。どこだ、どこだじゃねえんだよ、隣に決まってるじゃねえか、吉公のところだよ。今朝っから三回目だよ、大変な騒ぎだよ、これは驚いたよ。隣でもって喧嘩始めるってえとね、棚から何か物が落っこってくるんで押さえてなくちゃならねえ、手が塞がっちゃって仕事ができねえんだ、早く止めてくれ止めてくれよ」
「しようがねえやつだな、全く。おいおい、止しな止しな。またやってるよ、本当だよ。まあ本当にこんなに喧嘩の好きな奴はないよ。またよく相手が来るもんだな、本当に。こいつはどこの奴だか知らねえが、なかなかこれも威勢がいいな。ああ髪の毛掴んで引っ張り合いになったよ。ああこらいけねえや、あんまり良い喧嘩じゃねえ。ああ止しな、止しな。止しなよ。いいから止しなってんだ。勝負をつけることはないよ。五分と五分、分きにしておきな。どうもしようがないね、吉公。お前さん、喧嘩をするのは構わねえけれどもな、もっと広いところに行っておやりよ。長屋でやった日にゃ隣はお前、仕事ができないってんだよ。人に迷惑をかけるような喧嘩はしちゃいけねえや。本当に。お前さんもそうだよ。どこの人だか知らないけれども、この長屋に来てね、喧嘩をされちゃ困るんだ。な?迷惑になるんだから、いいかい、帰っておくれ、帰っておくれ」
「なんだい?ええ?帰れ?」
「そうだよ。こいつは気が短いんだから、お前さんがそこにいるってえとまた喧嘩が始まるから、どうか、引き取っておくれ、帰っておくれってんだよ」
「おい、おまえは何かい?ここの大家かい?」
「そうだよ」
「冗談じゃないぜ、おい。年ばっかり重ねてよ。そんな喧嘩の止めようってのがあるかい」
「いけないか?」
「当たり前だよ。犬猫が喧嘩してんじゃねえんだい。血の通った人間が喧嘩してるんじゃねえか。オレは気が触れて暴れてるんじゃないぞ。喧嘩するようなことがあったから喧嘩になったんじゃないか、こん畜生。なぜ訳を聞かないんだい」
「ああ、そうか。いやいや、それは私が悪かった。一体どうしたんだい?」
「オレはな、この野郎の財布を拾ってやったんだよ。で、オレは届けに来てやったんだ。そしたらね、受け取らないんだよ。受け取るどころの騒ぎじゃない、オレに金をくれるって言うから、そんなものは要らないってんで断ってたら、受け取らないって言うと殴るぞって、いきなりぽかっとオレの頭を張り倒しやがったんだ。だからオレは喧嘩になったんだ」
「ああ、そうかい。それはどうも済まなかったな。おい、吉公、それはお前が良くない。何があったって、そうじゃないか。それは、一旦落っことした金だよ。江戸っ子としちゃ、それは受け取りにくいかもしれないけれども、この方がわざわざ届けて下さったんだ。そういうときには一旦受け取って有難うございますと礼を言って、お所を伺っておいて、後日、日を改めて菓子折りの一つもぶら下げて礼に行くという、これがお前、人の道というヤツよ。それを、届けて下さった方をいきなり張り倒したりなんかして、そんなことをする奴があるか。間抜け」
「何を抜かしやがるんだ、この糞ったれ大家」
「な、何てことを言うんだ」
「何を言いやがるんだ、本当に。大家と言えば親も同様、店子と言えば子も同然ってんだ。オレとお前とは親子の間柄じゃないか。その大家が何だって子の味方をしないで他人の味方をするんだい。冗談じゃないぞ。こちとらな、自慢じゃないけども、三十日に納める店賃だって、皆が延ばしてるところを、オレは二十八日にきちんきちんと届けてるんじゃないか。それなのに、手前のほうは何だい?盆が来ようが正月が来ようが、半紙一枚、海苔一畳持ってきたことがあるかい?」
「いやなことを言いやがるね、こん畜生。あのね、お前さん、どこの何という方?白壁町の左官の金太郎さん。ああ、そう。あのね、聞いての通りだ、こういうヤツだ。私が意見をしたって、こういうことを言ってくる。だから、とてもじゃないけど、今ね、お前さんに頭を下げろったって下げるようなヤツじゃないから。私が後でよく意見をして必ずお前さんにね頭を下げるように、そうさせるから。いいかい。いやいや、それで私の言うことを聞かないようだったら、ちゃんとね、お上へ願って出て、お白州でもって頭を下げさせるから、まあ今日のところは一つ、この年寄りの顔に免じて、私の顔を立てて、一つこのまま引き取っておくれよ。頼みます、お願いしますよ」
「あ、そう。それはね、お前さんのほうでそういう言い方をしてくれるんだったら、こっちだって帰らないことはないんだい。ええ?おう、吉公。覚えておけよ」
「当たり前だい。誰が忘れるもんか。矢でも鉄砲でも持って来い」
「何を言いやがるんだ、でかいことを抜かすな。手前なんぞ、矢や鉄砲が要るか。ゲンコ一つで沢山だ」
「何を」
「何だ」
「まあまあ、いいから帰っておくれ帰っておくれよ」
「婆さん。金公の野郎がなんだかだらしのない恰好をして、こっちにのこのこのこのこ歩いて来るよ。おーい、金公」
「へえ?ああ、大家さん。どうも今日は」
「今日はじゃない、こっちに入れ。何だ、その恰好は。江戸っ子なんてものはな、もっとお前、きちっとしてなくちゃいけない。頭は綺麗に結い上げて、で、襟垢のつかないものを着て、履物だって新しいものを履いてなくちゃいけない。きりっとしてろ、きりっと。ええ、お前こうやって見るってえと、今日はあまり江戸っ子じゃねえな。なんだその頭は。それは***が、こう散らかってるのは威勢が良いけれども、鬢の毛がこう緩んじゃってるってのは、あんまり形の良いもんじゃないぞ。第一、着物はお前、前がはだけちゃって、だらしのない恰好だ、そんな恰好で表を歩くんじゃない。何かあったのかい?」
「喧嘩しちゃったんだい」
「喧嘩?そうか。それは偉い。江戸っ子なんていうのは喧嘩しなくちゃいけない。オレなんざ、若い時分には弁当を持って毎日喧嘩をして歩いたもんだ。どこで喧嘩をしたんだ?」
「小柳町で喧嘩をしちゃったんだい」
「どうして喧嘩になったんだ?」
「大家さん、こういう訳なんだ。実はね、私は、あの、柳原を歩いててね、財布を拾っちゃったんだよ」
「馬鹿野郎。どうしてそんなものを拾うんだい」
「拾うんだいって言ったってさ、拾う気はないけれども拾っちゃったんだい」
「それはお前が良くないんだよ。オレが普段から言ってるだろ。屈み女に反り男と言って、男というものはこう反り身になって歩いてなくちゃいけないんだ。それをお前、こうやって屈んでるから何かものを拾うんだ」
「いや、それは大家さんの前だけれども、オレはね、反り身になって歩いてたんだよ。反り身になって歩いてたんだけどもね、草履に財布が引っかかりやがったんだよ」
「ささくれた古い草履を履いているからそういうことになる。新しいのを履いてりゃそういうことにはならないんだ。本当に。間抜け」
「今そんなことを言ったってしようがないじゃないか。中を見たらね、金が三両に書付に印形が入ってんだよ。書付にね、神田小柳町大工吉五郎としてあるからね、その野郎のところへ、私は今、届けに行ったんだ」
「それは良いことをしたな。当人、喜んだろ?」
「それが喜ばないんだ」
「変わった野郎だな。どうしたんだい?」
「せっかくこっちは落っことして、さばさばして酒を飲んでるところに、何だってこんな、余計なことをしやがるんだって、金をお前にやるってこう言うんだよ」
「もらったのか?」
「冗談言っちゃいけませんよ。そんな金をもらうわけにはいかない。オレはもらわないってそう言ったらね、どうしても貰わないか、貰わないって言うと張り倒すぞってこう言うんだ。くだらなない、こいつは面白いやと、金を届けてやって張り倒されるなんてことは未だかつて聞いたことがないってんだ。ね、おう、張り倒せるもんだったら張り倒してみろってったら、お誂えだってんでパアっと来やがった」
「殴られたのか?」
「いえ、受けましたよ」
「どこで?」
「頭で」
「殴られたんだよ。だらしがないな」
「それから私もね、こん畜生と思ったからパアっと飛び上がってってね、いきなりね、鰯を三匹踏みつぶしたんだよ」
「イヤな喧嘩だな、どうも」
「組んず解れつやってるというと、向こうの大家ってのが止めに入ったよ。どうしてだってこう言うからね、これこれこう言う訳で喧嘩になったんだってったらね、大家が吉公ってのに小言を言ったんですよ。ちゃんとお所を伺っておいて後日改めて菓子折りの一つも持って礼に行くのが人の道じゃないか。ね、小言を言ったらね、吉公ってのがその大家にね、切った啖呵を聞いて、私は惚れ惚れとしちゃった」
「バカだね、お前は。手前のことを殴った奴だろ。そんな奴の言ったことでもって惚れ惚れとする?どんな啖呵を切ったんだ、言ってみろ」
「何を抜かしやがんだい、この糞ったれ大家」
「それはお前、綺麗な啖呵じゃないな。その後は?」
「大家と言えば親も同様、店子と言えば子も同然。親子の間柄じゃないか、その親が何だって子の味方をしないで他人の味方をしやがるんだ。こっちは自慢じゃないけれどもな、三十日に納める店賃を皆が延ばしているところを二十八日にはきちんきちんと持ってってるんだ。それを手前のほうはなんだい、盆が来ようが正月が来ようが、半紙一枚、海苔一畳持ってきたことはないじゃないかってこう言ってたからね。なるほどな、どこの大家も同じだと思ってさ」
「で、どうしたんだ?」
「でね、その向こうの大家さんの言うのには、必ず、意見をして謝らせる。私の意見でもって言うことを聞かないようだったら、お上へ願って出て、必ずお白州でもって謝らせるから、今日のところは一つ、私の顔を立てて、年寄りの顔に免じて帰ってくれって言われたんで、私は引き下がって来ちゃったんだ」
「馬鹿野郎。それはお前向こうの大家の顔は立ったかもしれないけれども、オレの顔はどうしてくれるんだ」
「そこまで考えちゃいなかったね。また、大家さんの顔は立てにくいよ、丸いから」
「何を言いやがるんだい。そういう奴は癖になる。向こうが訴えるのを待っていることはない。こっちから願って出ろ。オレが願書を書いてやるから」なんてんで、大家さんが願書を認めまして、南町奉行大岡越前守様のところに願って出た。双方から願ったもんですからすぐに差紙がつきまして、お呼び出しということになる。当日一同が揃うっていうと、お呼び込みでもって、ぞろぞろぞろぞろと、お白州へ入って参ります。鎖のついた大きな戸がガラガラガラガラ、ぴしぃっと閉まるこの音を聞いただけでもって、皆ぞーっとしたもんだそうですな。正面一段高いところには、宮津方公用人、縁の下には蹲の同心。***の十手を持って控えております。
「これこれこれ、控えろ控えろ控えろ」
「ヒキガエル?」
「控えろってんだよ。胡座をかいて控えてる奴があるかい。座るんだよ」
「座る?オレは嫌いなんだよ、座るのは。今まで生まれてから今日まで、何度かしかないんだ、座ったことは。しようがないな、分かったよ、座るよ。足が痺れてかなわないんだよ。本当に、嫌だねえ。えばってんね、あいつは、また。役人だからって。しみったれてるね、あのお役人は」
「何が?」
「そうじゃないか。見れえな。羽織の裾が切れるといけないと思ってね、端折ってやがんだ」
「馬鹿野郎。あれは巻羽織というんだよ。ああいう恰好をしてるんだよ」
「あ、そうかい」
「しーーーーーーー」
「大家さん、お白州で誰か赤ん坊に小便させてるよ」
「馬鹿野郎。お奉行様がお出ましになるんだよ。頭を下げろ頭を下げろ」
「頭を?あ、そう。はい、分かったよ」
「神田小柳町、大工職吉五郎。同じく白壁町左官職金太郎。付き添いの者一同、揃いおるか」
「一同、揃いましてございます」
「吉五郎、表を上げ。表を上げ」
「おい何を下を向いてるんだ、早く顔を上げないか」
「何だ、顔かい?表を上げるっていうから何だと思っちゃった。だけど、さっき下げろってそう言ったじゃないか。上げたり下げたり厄介だね。これ、頭だからいいけれども、米だったら相場が狂っちゃう」
「下らないことを言ってないで、早く上げなよ」
「分かったよ」
「その方、***、柳原において財布を取り落とし、これなる金太郎が親切にも届け遣わしたところ、それを受け取らず、乱暴にも金太郎を打ち打擲に及んだという願書の趣であるが、それに相違ないか」
「申し訳ございません、そうなんでございます。私はね、その財布を落っこさなきゃ良かったんですがね、落っことしちゃったんで。でも、こっちはね、久方ぶりに金を落っことしたってんで、さばさばしてね、あ、これはもう厄を落としたのと同じだってんで、嬉しくなってね、鰯の塩焼きで一杯やってたんですよ。そしたらね、この野郎がねお節介にも届けに来やがったんだ。それからね、印形と書付は、こっちは貰っとくが、金は要らない、手前にやるってったらね、こん畜生がまた生意気にね、要らないなんて抜かしやがるんですよ。受け取れ、要らない、受け取れ、要らないってんで押し問答をしていてね、その挙句にこっちがね、もし受け取れないってえと張り倒すぞってそう言ったらね、張り倒せるもんだったら張り倒してみろって、こう言うんですよ。向こうが折角そう言ってるものを張り倒さないってえと、物に角が立つと思ってポカリとやったんでございます」
「ほう。面白きことを申す奴。左様か。これ、金太郎、面を上げ。その方、その折、なぜ、貰い置かなかった?」
「親方。大将」
「おい、何だよ」
「良い、良いんだよ」
「冗談言っちゃいけませんよ」
「これこれこれこれ、待て」
「天下の裁断に冗談ということがあるか」
「真剣かい本気かい?それだったら言わしてもらおうじゃありませんか。冗談言っちゃいけませんよ、ほんと。だってそうでしょ、こういうものを拾ったら。地震板へ届けろとか、どこそこへ持ってけとか、教えてこそ、上、役人なんじゃござんせんか。往来で持って金を拾ってどこへも届けないで使っちゃうっていうと縛るのがお前さん方の商売じゃございませんか。それをこうして言われたんじゃ、こっちはどうしていいか分からなくなっちまう。憚りながら私はね、そんな三両ばかりの金を猫ばばするような、そんなさもしい料簡を持ってるんだったら、とうの昔にね、こっちはね、立派な親方になってるんだい。こっちは生涯親方なんぞにはなりたくない。人間というものは、出世するようなそんな災難に会いたくないと思いやこそ、私は朝晩身体抜いてよ」
「泣いておる。左様か。両名とも、しからばこの三両の金子、要らぬと申すか。越前、預かりおくが、どうか」
「ええ、そうしておくんなさい。その金があるから喧嘩になるんだい」
「よし、ではどうじゃ。その方たちの正直に愛で、越前が二両金ずつ褒美として使わすが、この義はどうじゃ」
「町役人、両人に成り代わって申し上げます。こういう正直者が出ましたのは、町内の誉でございます。有り難く頂戴を致します」
「さようか。ほれ。二両金ずつ遣わせ。おう、そうじゃ。受けくれたか。これからは仲良く致せよ。この度の調べ、三方一両損と申す。分からんければ、越前、申し聞かせよう。吉五郎、これなる金太郎がその方の所に届けし時、その金子、受け取らば三両ある。金太郎もまたその折貰いおかば三両ある。越前も預かり置かば三両ある。これに越前一両足して二両金ずつ遣わした。これ即ち、三方一両損と申す。相分かったか」
「有難きお調べにございます」
「分かったならば、一同の者、立て」
「ああ、待て。調べに時を移した。両人とも空腹を覚えたであろう。***を取らすぞ」
「へい。あ、どうもありがとうございます。おい。なんか、おまんまをご馳走になれるんだってよ」
「有り難いなあ、ほんとに」
「ああ、出てきた出てきた、お膳が。見なよ、おい。鯛だよ、鯛」
「こんなのはお前、岬の本場じゃないか。こういうものを食おうじゃねえかよ、おれたちは。おい。おまえ、この間、鰯の塩焼きでやってたろ?止しなよな、借金したってお前、こういうものを食ってもらいたいやな。ありがとうございます。いただきます」
「よし、じゃ、早速頂こうじゃないか、な。お、どうだよ、おい。魚が生きがいいから、***がいいよ、おい。これはうめえや、うん。これはうまいな、うん。どんどんやったほうがいいな。今度はね、また腹が減ったらよ、二人でもって喧嘩をしようじゃないか」
「両人の者、いかに空腹だと申し、あまり食すでないぞ。腹も身のうちじゃ」
「ええ心配ご無用、大岡は食わない、たったの越前」