こんにちは、やまけんです。
今日は、「モノを書いている人はこうなんじゃない?」というテーマで書いていきたいと思います。
今回は、自分自身の書く想いを詳らかにすることで、それが実は普遍へとつながることがあるのではないかという淡い期待を持って書いていきたいと思います。
まず、なぜ僕が書くのか。
「書きたい」「表したい」という意思がどこからともなくやってくるからです。
「自分がこれまでに勉強してきたことをシェアしたいから書く」というのは、一見正しそうですが、それよりも先に意思が降り注いでいる気がします。
そして、後付けの理由として、「これまでに勉強してるしシェアしたいんだな」と自分を納得させているのかもしれません。
ですが、人によっては、勉強したことを誰にもシェアしたくないという人もいるでしょう。
書き手には「書くための理屈」が先にあるのではなく、「書きたい」「表したい」という意思が先行してあるような気がするのです。
しかも、この意思は、コントロール不能な気がしています。
意思は何か大きなものを志向している。だが、書き手である僕にはその全貌が見えていない。
私は、この意思が何かとても大切なものを自分を通して表現させようとしている、書かせようとしていると感じるのです。
ですが、意思には壮大な計画があるということを、直感的に感じはしつつも、その全貌を掴むことは一切できず、
書いても書いても、そこに一切到達できぬ物足りなさ、実力不足を感じます。
意思の全貌を掴めていないが故に、伝えたいものが明確でないにも関わらず、なぜかいつも伝えきれない想いを感じるのです。
昨日書いた、「安全・快適・便利」に安易に飛びつかずに、何が失われるか考えようという疑問の提起も、私個人というより、意思から発せられているような気がしてなりません。。(ちなみに村上春樹氏も、書く時には潜在意識の奥底から材料を拾ってくるという表現をしていますが、もしかするとそれに近いのかもしれません)
私の最大関心事はいつも2つです。
1)どうすれば意思の計画の全貌を把握できるのか。
2)どうすれば意思の表現したいものを、表現できるのか。
この二つに関心を払いながら、表現をし続けることで、少しずつではありますが、意志の全体計画に近づきつつあるような実感があるのです。
ハッキリ言って、伝える手段は、文章でなくとも構わないのです。
それが音楽であろうが、絵画であろうが、映画であろうが、なんだって構わない。
ただ、たまたま今の自分にとって、適切だと感じる手段が書くことであるに過ぎません。
そういう意味で私は、絵画にも、音楽にも、映画の制作にも多大なる興味を持っています。
音楽だけは、才能的にどうにもならないかもしれないと感じていますが。。(音楽は言語よりも本質に近い、神の言語のように素晴らしいものだと感じています)
どうでしょうか。ものを書きたいという方、何かを表現したいという方は、同じような抗えない「意思」を感じてはいないでしょうか?
他の方がどう感じているのか、とても興味関心があります。
それでは、今回は以上とさせていただきます。
お読みいただき、ありがとうございます。
やまけん