癒しや引き寄せという、土の時代の夢から覚めて、風の時代になった。
・・・それで?
戦後、敗戦国としての欧米化で、それまで日本の社会に千年もしくはそれ以上在った、調和・循環・共生のリズムは、わずか数十年で急速に見失われました。
日本人の体質と異なる豊かな食生活は、複雑で多くの種類の病気とつきあう事にもなりました。
社会、経済、教育は高度にシステム化され、便利さと引き換えに、関係性の変化が起き、余白は「ムダ」と呼ばれ、失われていきました。
そんな現代の日本で、スピリチュアルセッションや、各種リーディングはどんな存在なのか・・・
社会は一見複雑でも、構造はシンプルです。
安心と安全を満たすものが、循環しているかどうか。
命の危機を救う仕事、暮らしの不安に対処する仕事、食を支える仕事、娯楽を提供する仕事。
生存の基盤を満たす職業は、明確な役割があります。
対して、スピリチュアルは、体感は曖昧で、証明もされない。
個人の覚醒や変化、豊かさが強調され、それを学んでも行き場を失うことがある。
現代の生活の中に、なくても生きていける。
ただ、日本の文化にとって、スピリチュアルは在るものです。
否定しても消えない。
歴史が消えないのと同じように。
けれど、物質至上主義も同様に在る。どちらかに偏れば循環は滞ります。
今の世の中の問題は物質側に傾き過ぎているから、起きていることもある。
それには、目に見えない世界の成長が必要だと思います。
心、想念、言霊、信仰、霊、魂。
これらは、目に見えないけれど、在るという日本の文化の領域です。
元々、精神文化特化タイプだった。
それらを、特別になるためでも、誰かを救うためでもなく、次に渡せる状態に調える。
これまでスピリチュアルを学び、提供してきた人が行き詰まったのは、癒したその先が、日本の文化が断たれた社会であるために、循環の回路がなかったからかもしれません。
傷は癒した、インナーチャイルドとも向き合っている、自己受容もした。
だけど、その先がない。
循環先がないから宙に浮く。発信に走る。肩書を増やす。ビジネス化する。承認を求める。
それらの言動は、未熟さではなく、受け皿を失った社会構造の問題です。
それほどに、日本文化が見失われてきたのです。
その結果、これまでのスピリチュアルは、癒す・引き寄せるという個人完結型が中心になっていました。
これからは、生活、関係性、神経系のめぐりを調える視点へと、進んでいく。
前へ前へだけでなく、足元を見つめながら。
それは、もう社会に必要になっている。
少し早く必要を感じたから、私たちは学んできました。
癒しは必要でした。でも、癒しだけでは循環は戻らなかった。
【癒しからメンテナンスへ】
これまでは、欠乏、欠落から生まれた癒し。
癒すとは、痛みをやわらげる、過去をケアする、こわれたものを直す事。
調えるとは、本来の位置に戻す事、今を観察する事、過不足を整える事。
めぐりに合わせて、時間・日常・環境・身体・感情を整えていく事。
水瓶の水が、湯にも氷にも雨にもなるように、形が変わっても水は水であるように、私は私。本質はそのままで自由に在り方を変えていく。
【願う・コントロールする から 受けて流す、へ】
引き寄せは、取りにいく動きです。
外から取ってくる 欲しいものを集める 意図して現実を動かす
循環は回り出す状態。
既にある流れが、自然に回り出す 頑張らなくても動く
出るものが出て、入るものが入り、滞らない。
集めなくても回り始める状態が健全さであり、流れを止めない事が豊かさになる。
そして共生は、目指すもの・目標ではありません。調和とめぐりの結果として起きるものが、共生です。
自然と役割が分かれ、立場が固定されず、無理がない。
仲よくする事でも、チームを作る事でもない。個があるまま、干渉せずに同時存在出来る状態。先述した八百万の神々のように。
これからのセッションは、個人完結型や感情処理だけでなく、安心と安全が満たされ、自身のリズム(めぐり)を思い出すことを見つめていく場をつくる。
セラピストは、これまでどおり情報を差し出し、ヒーリングで整え、その時間を共に過ごす存在。
西洋のツールであっても、逆輸入の歴史があっても、日本の文化体系の在り方を軸にすると、自己受容のその先へ、私達の土台に響く変化が起きてくるかもしれません。
いのちがやすらぎ、エネルギーが回復する場所。
そのような場が、もう創られる時期に来ている。
想いが響き合う方々が、それぞれのタイミングで手を取り合うときに、生まれてくると思います。

