私も母も旅がすきです
なのに、母と二人だけで旅したことは数えるほどしかありません
たぶん、最初の二人旅は、心臓手術の翌年の9月です
その当時、担当していたクラスで文化祭の出し物で「ヒロシマ」をテーマにした創作劇をやることに
なっていました
発表の日が近くなって、ふと、「そういえば、一度もヒロシマ行ったことない」と思い、朝一番の新幹線に乗って行ってみようと思いました
たまたま、連休の一日目でした
早起きした母に
「今から、ヒロシマいってくる」と伝えたら
「一緒に行く」といい
急遽2人旅になりました
ヒロシマで
原爆ドーム、原爆資料館を見学しました
資料館の入り口付近にあった
ろう人形の展示を見ていると
母が涙を流しているのに気付きました
人形は、皮膚がはがれ落ち、垂れ下がっている子供でした
「本当にこうだったのよ」
「広島から逃げてくる人たち、こうだったのよ」
「あの日、学校に行っていてなくなった人もたくさんいるのよ」
「お父さんがね、広島方面に行っていて、帰ってこなくて心配したの」
と矢継ぎ早に当時のことを語り始めました
母一家は、広島の大竹という所に住んでいました
被爆は免れましたが
多くの被爆した方が避難してくるのを目にしたようです
広島でお好み焼きを食べた後、
大竹の町にいってみることにしました
何もない町でした
母が住んでいたことの面影は全く残っていませんでした
駅前の公衆電話で
まだ健在だった祖母に電話をいれました
母が女子高生のように祖母と電話で話していたのを新鮮な気持ちで眺めていました
日帰りのつもりでしたが
あまりにも懐かしがる母と一緒に宮島に宿をとり一泊し
翌日は岩国まで足を伸ばし、錦帯橋にいってきました
あの日、母は何を思い、何を感じたのは今は聞くことはできません
でも、母の涙は「ヒロシマの悲劇は繰りかえすまい」という涙だったと想像できます
8月6日 8時15分
70年目の今日
ヒロシマの式典をテレビで見ながら
母の少女時代のことを考えていました
母が望んだ平和な世の中が作ることができますように…

にほんブログ村
なのに、母と二人だけで旅したことは数えるほどしかありません
たぶん、最初の二人旅は、心臓手術の翌年の9月です
その当時、担当していたクラスで文化祭の出し物で「ヒロシマ」をテーマにした創作劇をやることに
なっていました
発表の日が近くなって、ふと、「そういえば、一度もヒロシマ行ったことない」と思い、朝一番の新幹線に乗って行ってみようと思いました
たまたま、連休の一日目でした
早起きした母に
「今から、ヒロシマいってくる」と伝えたら
「一緒に行く」といい
急遽2人旅になりました
ヒロシマで
原爆ドーム、原爆資料館を見学しました
資料館の入り口付近にあった
ろう人形の展示を見ていると
母が涙を流しているのに気付きました
人形は、皮膚がはがれ落ち、垂れ下がっている子供でした
「本当にこうだったのよ」
「広島から逃げてくる人たち、こうだったのよ」
「あの日、学校に行っていてなくなった人もたくさんいるのよ」
「お父さんがね、広島方面に行っていて、帰ってこなくて心配したの」
と矢継ぎ早に当時のことを語り始めました
母一家は、広島の大竹という所に住んでいました
被爆は免れましたが
多くの被爆した方が避難してくるのを目にしたようです
広島でお好み焼きを食べた後、
大竹の町にいってみることにしました
何もない町でした
母が住んでいたことの面影は全く残っていませんでした
駅前の公衆電話で
まだ健在だった祖母に電話をいれました
母が女子高生のように祖母と電話で話していたのを新鮮な気持ちで眺めていました
日帰りのつもりでしたが
あまりにも懐かしがる母と一緒に宮島に宿をとり一泊し
翌日は岩国まで足を伸ばし、錦帯橋にいってきました
あの日、母は何を思い、何を感じたのは今は聞くことはできません
でも、母の涙は「ヒロシマの悲劇は繰りかえすまい」という涙だったと想像できます
8月6日 8時15分
70年目の今日
ヒロシマの式典をテレビで見ながら
母の少女時代のことを考えていました
母が望んだ平和な世の中が作ることができますように…
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