母さん、貴女は元気だろうか…。



 まだ、若かった貴女が、何とか俺を育ててくれた。幸せな時は、俺を抱きしめながら、夢のような話をたくさんしてくれた。ずっと欲しかったおもちゃを買ってくれる約束。コマーシャルで流れてた、おまけ付きのお子様セットをレストランに食べに行く約束。…俺は貴女の膝の上で、約束が果たされる日を心待ちにしていた。


 貴女に連れられていったレストランには、知らない男の人が待っていた。不自然な口紅をつけた貴女と、その男の人の顔を交互に見比べながら、心に孤独と寂しさが広がっていった。それでも俺は、無邪気な子供を装い、おまけのおもちゃを必死にいじり続けた。



 数日が過ぎて、貴女は不機嫌な声で家に帰ってきた。俺は、寝そべってテレビを見ていた。貴女は、寝そべっているただそれだけのことに、烈火のごとく怒った。まるで狂ったかのように、何度も何度も俺の頬を平手で叩いた。俺は何が何だかわからなかった。ただ、貴女の手は止まることを忘れているようだった。



「ごめんなさい!ごめんなさい!」



 俺は謝り続けていた。その「ごめんなさい」は、途中から嗚咽になった。貴女が手を休めるまで、俺は涙を流して謝り続けた。


 しばらくして、憑き物が落ちたように、貴女は崩れ落ちた。そして、声をあげて泣き出した。その姿を見て、俺は不安で…、とても不安で…。自分が泣くことすら忘れた。俺は急いで洗面所からタオルを取ってきて、貴女に渡した。俺は冷静になるしか方法がなかった。ジーンと熱く火照った頬に手を当てた。口の中が生臭い、…血が流れてる。その時、自分の口が切れていることに気付いた。泣きじゃくる貴女を見つめながら、俺の口の中に痛みが広がっていた。



 貴女はまだ若すぎたから、恋人もなしで俺と二人の人生に向き合っていく勇気はなかったんだろう。一番強烈な、あの出来事以来、何度も同じようなことがあった。そのたびに俺は言いようのない漠然とした不安に襲われた。




 俺が高校を卒業すると、貴女はすぐに再婚した。そして、それ以来、貴女と俺は別々に生活している。今では、数年に一度会えば良い方だ。独りで生きることには、すっかり慣れた。ただ、俺には貴女からいつも聞きたかった言葉がある。…何度も聞こうと思った。そして聞けなかった、大切な言葉が…。









 俺には彼女がいる。いつも俺の部屋にやってくる。そして、俺の身の回りのことを、頼みもしないのにやっている。今も、台所でメシを作っている。俺は、そんな彼女の後ろ姿を、さっきからずっと、ただぼんやりと眺めている。


 …好き、ではない。彼女のことは別になんとも思っていない。今まで何度もそう思った。思っただけで口に出さなかったのは、特に別れる理由もないからだ。

 行きつけの飲み屋で知り合った彼女。酔った勢いで、キスをした。思ったより、気持ちのいいキスだった。この女、遊んでるんだろうな。すぐにそうわかるようなキスだった。でも、そんなことはどうでもよかった。ただ、そんな出会い方をした彼女が、こんなに俺に真剣になるなんて、考えもしなかった。


 また、へたくそなメシなんだろうな。ちゃんとメシ作ったことあんのかよ。俺は、ガキの頃から自分でメシ作って食ってんだ、何度も聞かせただろ。まったく、鈍いやつだ。



 一人で幸せにひたっている彼女を見ていると、だんだん腹が立ってきた。



 お前、自分のエゴで俺にメシつくってんだろ。自己陶酔なんだろ。気付けよ、偽善者!



 心の中で悪態をつく。そしてその思いが、どんどん広がっていく。



「チャーハンできたよ」



 嬉しそうにチャーハンをテーブルに並べる彼女。俺がしぶしぶ席につくと、媚びたような歪んだ笑顔で俺を見ている。心には俺の苛立ちがさらに加速している。



「いただきまーす」



 彼女の声につられて、俺はチャーハンをスプーンですくい、口にふくんだ。



 まずい。猛烈な吐き気がした。



「ペッ」



 今、口にふくんだばかりのチャーハンを、思わず吐き出した。



「ひどーい」



 彼女が、甘えたような声で俺に言った。その瞬間、さっきから溜まっていた怒りが爆発した。



 俺はチャーハンの皿を床に叩きつけた。大きな音がした。彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出すのが見えた。その情景がスローモーションを見るみたいに、妙にゆっくりと動いていた。だが、怒りは別のところから湧き上がってくる。俺は、その気持ちを抑えるやり方がわからなかった。



「帰れよ!お前は鈍いんだよ!ウゼーよ!」



 彼女は、ただ泣いていた。










     …To Be Continued.







ペタしてね









 つい、さっきまで二人で抱き合っていたというのに、メールひとつで彼は飛び出していった。

 いくら泣いても、嘆いても、何も変わらない。いつだって自分に言い聞かせてきた。
 彼は、きっといつものように、すぐに追い返されて、ここに戻ってくる。なのに、私はそんな彼に、悪態のひとつすらつけやしない。怯える瞳で、彼の動きを追いかけるだけ
 私は、彼女の代わりだ。彼は、私を使って彼女を感じようとしている。彼が私を抱くときの視線は、私よりもっと遠くを見ている。私の身体を通り抜けて、その先にいる彼女を見つめている。私はどうして彼女に生まれて来なかったんだろう。きっと、神様なんていないのだろう。生まれ変わるなんてこともないのだろう。私が彼女と代われる日なんて、未来永劫やっては来ない。

 私は、このまま磨り減っていくの?

 私は大学に通うかたわら、学習塾でアルバイトをしていた。彼は、その塾で働くベテランのアルバイトだった。大学を卒業しても定職に就かずに、塾のアルバイトを8年も続けているフリーターだ。彼が就職をしない理由は、「旅に出るため」だった。バイト代がたまると、仕事を何週間も休んで旅に出た。バイクで日本中、世界中を駆け回った。
 旅から戻る彼は、とても魅力的だ。肌は日に焼け、精悍にシェイプされた身体のシルエットは野生動物のようだ。そして、好奇心に満ち溢れる瞳の輝き。他の男たちが、みな一様に頭でっかちでひ弱な男に見えてしまう。
 半年前、旅から戻ったばかりの彼と、お酒を飲む機会があった。同じ塾の人たちの飲み会だった。私は、気持ちが高ぶっていた。その上、慣れないお酒で、少し大胆になれた。

「…送ってくれませんか?」

 その晩から、私と彼は特別な関係になった。友達の一線は越えた。でも、恋人と呼べるほどの距離にはなれない。
 彼は私のくちびるに、くちびるを重ねて問いかけた。

「俺、好きな人がいるんだ。それでもいい?」

 ひどい人だと思った。でも私は、

「うん」

 と、答えていた。同じ職場で働き時間を共有できるのは、私の方だから、私に分がある。瞬時にそう思った。

 でも、次のデートで私は打ちのめされる。

 塾の仕事が終わったあと、私は彼の行きつけのバーに連れられた。路地裏の雑居ビル、外階段が地下に続いていて、その先にドアがあった。彼はドアを開けると、あっ、と声をあげた。

「もう、帰ってたんだ!」

 彼に親しげに声をかけたその人が、彼女だった。彼女は大人の表情で、彼に手を振る。彼は、私など始めからいなかったかのように、彼女の隣に座ると、私を会社の同僚とだけ伝えて、彼女に旅の話を熱心に語り始めていた。
 文字を読むのがやっとの間接照明の下で、二人は、肩を寄せ合い、指を絡めあい、そして、人目も気にせずキスをしていた。

 私のグラスを持つ手が震えていた。生まれて初めて、悲しみで身体が震えた。グラスの中で、カラカラと氷が音をたてた。

「先に帰ってて、いいよ」

 店の中で、彼と交わした会話はこれだけだった。

 3時間ほどたって、彼からのメールが届いた。

『行ってもいい?』

 私は、彼を拒めない。

 彼にとっての彼女は、大切な人だった。彼女は自由奔放な人で、常識の枠に収まる人ではなかった。彼女は誰にも縛られない、忘れられない恋人以外には。彼女に襲いかかる不安や孤独は、彼女の周囲の何人かの男たちで癒されていた。彼は、その中の一人でしかなかった。まるで、彼と私の関係みたいだ。彼女、彼、私。不思議な連鎖だ。
 たとえどんな状況であっても、彼女のもとへ駆けていく彼。その彼を、癒せるのは私しかいない。私は彼に傅く。たとえどんな状況であっても、彼を受け入れる

 行ってしまった彼を座ったまま見送った私は、明日のバイトの準備を始めた。何かに没頭してしまえば、彼と会えない時間なんてすぐに過ぎる。
 テキストを広げて、準備を始めようとしたとき、薄いページの紙で、指を切ってしまった。すると、たいして痛くもないのに、血がにじんできた。指先の小さな亀裂から溢れる赤い雫を見ていたら、涙がこぼれた。

 彼の心にも、チクッて痛みが走るのかな?

 もしも、私が消えたら

 彼の前では泣かない私が、一人ですすり泣く。彼を何度も自由にさせて、そして私は抜け殻になって彼を待つ。
 明け方になって、彼が戻ってきた。悲しみが瞳に流れていた。私は黙って彼を引き寄せた。彼は震えながら私の隣にもぐりこんだ。傷ついた彼を抱きしめながら、私はもっと深く傷ついていた。彼は、自分だけが傷ついたみたいに、私の身体を乱暴に扱っていた。彼女にぶつけられない苛立ちを、私にぶつけた。
 私は、乱暴にされればされるほど、救われたような気になった。心が、空っぽになる。痛い
 激しく、身勝手に動き続ける彼に私は囁いた。

「もっと、虐めて…」

 彼は、悲しそうに私をじっと見ていた。


           …Fin.



ペタしてね



 僕たちは、まばゆい光の中にいた。
 君は僕を見つめると、そっと瞳を閉じて、次の邂逅を待つ。
 僕は、君の身体をしっかりと抱きしめたまま、離れないように力を加えた。
 僕たちの宇宙は重力を失って、上下左右の感覚がなくなる。
 僕らはいっそう深く結びつく。二度とはなれないように、強く、強く…。
 ふと、君の瞳がひらくと、君は笑みを浮かべた。
 もう、ずっと一緒ね…。
 君のささやきとともに、急速に上昇していた僕らの放物線は、
 ゆっくりと頂点に到達しようとしていた…。



 僕は、君と出会うまでの数年間、ともに暮らす彼女がいた。僕と彼女は、何年も絵を描いて暮らしていた。高校を出て、少しだけ絵の学校に行ったが、彼女は世間に迎合することを好まず、学校にはすぐに行かなくなった。
 それからというもの、僕と彼女は、勝手気ままに絵を描いてはコンテストに出展していた。いつか、世の中が自分たちの「芸術」を認めることを信じて、最低限の暮らしの中で、僕と彼女は、まるで戦場で闘う兵士ように暮らしていた。
 彼女はよく、世間に牙をむけた。感性の鈍った凡庸な人々には、自分の芸術は理解できないんだと、そして、理解など必要ないと、世間を罵倒し続けた。
 それが彼女の強がりであったとしても、その厭世観が彼女の原動力だった。そして僕も、どこかで彼女の言葉に同調していた。

 永遠に続くかと思った、僕と彼女の闘いの日々は、あっけなく終わった。
 僕の描いた絵が、入賞した。

 僕らの暮らしは、急速に変化していった。
 彼女の戦いの剣先は、僕に変わっていた。

 僕の絵は貨幣に変わり、彼女の絵は「芸術」のままだった。僕は職業画家となったが、彼女は「兵士」のままだった。僕らは時間も意識も、すれ違うようになっていった。

 疲れ果てた僕の前に現れたのが、君だった。



 …放物線は頂点を過ぎ、余韻を残しながら、落ちていく。
 次第に加速しながら、無限の底をめがけて落ちていく。
 君は僕の身体にしがみついたまま、終わらない浮遊感に耐えた。
 僕は君の身体が離れないように、よりいっそう力を込めて君を支えている。
 ゆっくりと僕の背中を、君の指が撫でる。肩の丘陵を越えて、首まで。
 ゆっくりと、確かめるように、なぞる。
 僕の指は反対に、君の背中から下のほうへ降りていく。
 ふたつの丘陵の間を抜けて、その奥まで。
 ゆっくりと潜る…。


 芸術という理念を掲げて戦う兵士のような彼女とは対照的に、君は、なんのてらいもなく、身の回りにある物を褒めていた。「ステキ」…彼女には絶対に言えない言葉だった。今にして思えば、素敵だと思ったことを「ステキ」ということなんて、普通であたりまえのことだが、牙を剥くことが「感性」だと思っていたあの頃の僕に、君の言葉は新鮮だった。

 君は、僕の心を捕らえて、放さなかった。

 彼女と暮らしたアパートは、僕と彼女の住居であり、アトリエだった。絵を描くために、そこに戻ると、失望しきった「芸術家」がぶつけようのない苛立ちを全て、僕にぶつけてきた。数年間、ともに闘ってきた僕は、彼女の戦友であり続けようとした。彼女の苛立ちは、全部僕が引き受けようと思った。彼女の精神のバランスを、ぎりぎりのところで保っていられるのは、僕という存在ではないかと思った。僕は、そのアンバランスを君の存在で補った。
 普段は、君のところへ行く。君は言い知れぬ不安をかき消すように、幾度となく僕を求めた。明日、二人の関係は終わってしまう、そんな顔で僕を見た。君の大きな瞳は、いつも不安で濡れていた。僕は君のそんな不安を、まるで関係ない、と笑い飛ばしていた。だけど、絵を描くときだけ、彼女のもとに帰る。彼女は、苛立ちを全て僕にぶつける。僕を罵倒し続ける。そんな日々が続いた。
その間に、僕の絵は、僕の手元を離れてどんどん歩いていってしまった。僕が描きたいと思うのではなく、世間に求められるまま、意思のない絵を描き続けた。

 そんな僕を、君は「ステキ」といって賞賛し、彼女は「偽善者」といって罵倒した。

 どんなに僕を罵倒し、荒れ狂い、部屋をかき乱していても、僕の描いた絵には、傷ひとつつけなかった。彼女は、気位の高い芸術家だった。

 ある日、彼女は部屋を出た。

 何も変わっていない部屋から、彼女の姿と、画材だけがなくなっていた。

 彼女が僕に残したメッセージは、真っ二つに折られた僕の絵筆だけだった。

 僕は、彼女を追わなかった。それでも、折れた筆を見て、彼女の指先に血がにじんでいるのではないかと、心配した。だけど彼女は、僕を必要としなくなったんだ。僕らは、次の一歩を踏み出しただけなんだ。僕は、自分に言い聞かせた。


 …君は、二度目の頂点を求める。僕も、極小値を越えて上昇のカーブにさしかかってきた。
 怠惰な快感の泉から、飛び出すように激しく、君の身体が跳ねる。
 飛魚のような君の身体が、僕の胸を飛び出て行かないように、
 僕は君の手をとると、指を絡めた。
 君の柔らかな感触が、僕の熱い思いを受け止める。
 汗が、吐息が、激しさを増す。
 君の中で、僕の激情は休むことを忘れて暴れ続ける。
 君は、苦痛に耐えるような表情と声で、更なる深みを求めている。
 君の口もとから、泣くような刹那の音がもれる。
 水の底へ沈むような体感と、宇宙の果てまで飛びそうな意識。
 急激な上昇。僕らの放物線が、二度目の頂点を越えた…。
 


          …Fin.



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