上半期の最終日、6月20日にある守護霊様が訪ねて来て下さった。
人生成功のヒントを与えて下さるというのだ。
結構な話だがびっくりした。
それはその守護霊様が『前世の私』だと名乗ったからだ。
まずはそのことに妙な気持ちだった。
・・・私が私の守護霊で私の守護をしている。(前世の私だけれど)
うーん・・ま、そういうこともあるか。
その経緯についても聞いているがそれはとりあえず置いておいて、考え込んだのはその守護霊様の(つまり私の)前世の一生について。
その守護霊様は前世人間だったとき商いをしていた。
自分のためはもちろん家族や子孫繁栄のためにと必死で働いたそうだ。
しかし成功目前まで何度も辿り着いたがあと一歩のところでいつも叶わず、そうこうするうちに人生は終着点。
生涯を終える直前声を聞いたと。
「間に合わなくてごめんなさい。でももう間近まで来ている。これがあれば来世では成功できるかもしれない。」
「これ」というのが何かは伏せておく。
今私が考えているのはそこではないのだ。
またこの「声」が何かというのも追求しない。(多分守護霊様か守護神様辺りだろう)
必死で生きてきたけどイマイチ冴えない人生。成功(どころか!)願いにはいつでも手が届かない。
これは今の私そのもの。
この守護霊様の(つまり私の)前世はもっと頑張り度が凄かったようだけれど、この『結局何をやってもダメだった人生』というのは何となくよくわかる。
いかにも私らしい。
でも思うのだ。
必死で生きても結局願いに手が届かないで人生を終えた。それも決して否定できるものではないよね、と。
それでもかけがえのない人生、尊い一生だ・・・(前世の)自分のことだから言うんじゃないが。
これで「声」が言う通り次の人生(つまり今)で夢見た成功をモノにできるならまだいい。
だけど何となく次の人生に持ち越すというのは心もとない気がするのだ。
前世の自分と今の自分は完全に同じじゃない。
同じだけれど同じじゃない。
どこか「他人に自分の夢を預けている感」をほんのり感じるから。
私、この守護霊様の期待通りにいくかな?
とちょっと自信のない私。
でも守護霊様は単に守ってくれてヒントを与えてくれるだけではない。
私の人生を成功へ導くためにどうやら必死の努力をして下さった(『自分』に下さったはないけれど)らしい。
なのでやっぱりすごく感謝している。
一昨日から仕事の合間にチラチラこのことを考えていた。
主に「有難いし頑張らねば」ということなのだが、自分の前世だけに感慨深くて一体どんな人生だったんだろうな、と。
そして思ったのは、とうとう願いに手が届かないで人生を終えるのもそれはそれで一つの人生のカタチとしてアリだけれど、死ぬ間際に「間に合わなくてごめんなさい」と「声」に言われるようなことなら頑張る気が失せても仕方ないかも、ということだ。
この守護霊様はスゴイな。
まだ頑張る気が失せないで頑張り続けている。
でも・・・それなら頑張らない(頑張れない)人生がダメとは言い切れないんじゃないだろうか。
頑張っても尊い人生、頑張らなくても(といっても結局悩みは尽きないのだから)尊い人生、そこに言うほどの差はあるのだろうか。
本当はどっちもアリなのかもね?
それで自分が満足できるかできないか。
問題はそこなのかもしれない。
つまり性分の問題だ。
でも人間って大した存在だ。
人一人守るために複数の守護霊様や守護神様、その他にも様々な守護存在が個々人についてくれている。
それでこの人間を何とか幸せにしようと頑張ってくれているのだから(それが仕事とはいえ)有難いことだ。
だから私はまあ、もうちょっと頑張ろうか。