天下分け目の関ケ原。餅も関ケ原を境に西は丸餅、東は角餅に分かれている
№10からの続き
今須宿から今須峠を越え関ケ原宿へ向かいます。
今須峠を越えると西軍石田三成、東軍徳川家康の幟が目につきます。
ここは、天下分け目の戦いの舞台「関ケ原」です。
関ケ原の説明は後程記述します。
山中という集落に入ります。
「常盤御前の墓」があります。
常盤御前は、16歳で源義朝の愛妾となり、今若丸・乙若丸・牛若丸(源義経)の3児に恵まれました。義朝が平治の乱で敗れ、源氏がちりぢりになると、牛若丸が東国へ走ったと聞いた常盤御前は、乳母の千種とともに牛若丸の後を追いこの地にやってきました。ところが、ここで土賊に襲われ命を落としてしまいます。それを哀れんだ里人がここに葬り塚を築いたのだそうです。その後、母親を殺した土賊6人を、牛若丸が皆殺しにし、母の恨みを晴らしたという内容の絵巻物も残っています。
常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ)で雑仕女の採用にあたり、都の美女1,000人が集められ、その中で1番の美女だったといわれている常盤御前。後に、源義朝の側室となり、平治の乱で敗れた義朝が逃亡中に殺害されると、常盤は未亡人となります。その後、子供たちを連れて逃亡し、大和国に辿り着きます。その後、都に残った母が捕らわれていたことを知り、平清盛の元に出頭します。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供達が殺されるのは仕方がないことだが、殺される姿を見るのは忍びないので、先に自分を殺して欲しいと懇願しました。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は、今若・乙若・牛若を助命し、常盤を愛妾としたそうです。
尚、常盤御前の墓は関ケ原以外にも候補地があります。
常盤御前の墓の近くには、「常盤地蔵」があります。此処山中村で起きた土賊に襲われた常盤御前。
「義経がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈、その折には是非道端から見守ってやりたい」と宿の主人に形見の
品を手渡し息を引き取った。時に常盤43歳。其のあと哀れに思って村人は、無念の悲しみを伝える常盤地蔵を塚近くの
この場所に安置し末永く供養することを誓った。
ここ関ケ原では、慶長の役よりも約1000年前、大きな戦が行われました。昔、教科書で習いました「壬申の乱」です。
ここでは、詳細を略します。天智天皇の死後、天智天皇の長子「大友皇子」を擁する近江朝廷に対し、吉野に籠っていた
皇弟「大海人皇子」(のちの天武天皇)が672年(壬申の年)に起こした反乱です。ここ「不破の道」は、東国と西国を
交通を結ぶ要衝です。吉野を出た大海人皇子は、ここ不破の道を塞ぎ、これにより東海道・東山道の諸国から兵を動員
しました。集めた軍勢を二手に分け、大和と近江の二方面に送り出しました。
黒血川・・・壬申の乱においてここ山中藤下の地で両軍初の衝突が起きています。
7月初め、大友軍は精兵を放って玉倉部邑(現関ケ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く奇襲戦法に出てきました。
然し、大海人軍は、これを撃退、その後不破の道を通って近江へと追撃していったのです。
この激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから「黒血川」の名がつき、その時の凄まじい様子を今に
伝えています。
間の宿「山中」・・・山中は、旗本竹中氏の知行地で高札場がおかれました。
若くして亡くなった軍師「竹中半平太(重治)」は、この旗本竹中家の系列です。
関ケ原宿に入ると、各陣営の跡の看板が多く目に入ります。看板にも西方は、「西」「W」、東方は、「東」「E」と書かれています。
不破の関・・・「不破関資料館」のすぐそば、中山道を挟んだ場所に「不破関跡」はあります。壬申の乱の翌年、天武天皇はこの場所に不破関を設置し、天下の変乱に備えるために通行人たちを取り締まりました。「不破関」は、越前の「愛発関」、伊勢の「鈴鹿関」と並んで日本三関のひとつと呼ばれています。中央には東山道(のちの中山道)が通り、通行人は目的地や携帯品などを書いた証明書を見せて通らなければなりませんでした。関所は、延暦8年に世の中が静まり、その必要性がなくなったため取り壊されたそうです。この不破関を境に関東・関西の呼称が使われるようになったともいわれています。
関ケ原の戦い・・・慶長5年(1600)9月15日関ケ原で石田三成の西軍と徳川家康の東軍とが天下を争った戦い。
諸大名はいずれかに属したから天下分け目の戦いと呼ばれました。西軍小早川秀秋の裏切りによって東軍が大勝し、
その結果家康は天下の実権をに握りました。関ケ原には、現在も諸大名の陣跡が残っています。
首塚・・・関ケ原の戦いの戦死者数千名首級を葬った塚です。東側にもあります。
どうして関ケ原で天下分け目の戦いが行われたのでしょうか?
関ケ原は、古くから中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点にあたり、宿駅が置かれる交通の要衝でした。
関ケ原は岐阜南西端に位置し、伊吹・鈴鹿両山地に挟まれた盆地です。毛利氏が陣を置いたのが雨宮山、家康の陣桃配山、小早川の陣は松尾山など山々に囲まれた所です。
そもそも関ケ原は、「関」を意味し、673年天武天皇の命により設置された「不破の関」です。
西軍は、西国への侵入口の関ケ原で東軍を討ち果たす必要がありました。
逆に東軍が勝利するには、西軍を打ち破り畿内へ進軍しなければなりませんでした。
関ケ原は東と西を分ける地点と認識されていたので東西両軍が戦うには相応しい場所でした。(渡邊大門氏yahoo-newsより抜粋)
また、関ケ原は、東西の食文化の分かれ目でもあります。
例えば、お正月のお雑煮の餅は、関ケ原から西は主に「丸餅」です。東は「角餅(のし餅)。’
うどんの出汁も関西風。関東風、カレーや肉ジャガの肉は、関西は半数以上が牛肉、関東では半数以上が豚肉、鰻の捌き方も関東風、関西風があります。またマクドナルドも関西は「マクド」関東は「マック」・・・・
このようにここ関ケ原が食文化でも天下分け目ですね。※一部例外もあります。
私の中山道ブログ№10で野瀬坂の溝の水が右側は伊勢湾、左は大阪湾に流れると書きましたが、まさに東西の分け目ですね。
先へ進みます。
関ケ原宿は、伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘(きょうあい)の地で軍事上の要衝でした。伊勢街道や北国街道を控え、
問屋場は八軒置かれ、美濃十六宿中、加納宿に次ぐ規模を誇りました。
中山道宿村大概暢によると、宿内家数は269軒、うち本陣1,脇本陣1、旅篭33軒、宿内人口は1389人(男685人、
女704人でした。
桝屋旅館・・・永長元年(1096)創業老舗旅館
関ケ原宿の本陣跡は、現在残っておらず、本陣の庭があった場所に「八幡神社」が建っており、その当時から残っている、古木「スダジイ」が往時を偲ばせてくれます。
現在は、宿の中心に国道が通っており、昔の面影はあまり感じられません。
ガソリンスタンドの裏手に「與市宮(よいちのみや)」があります。関ケ原與市(本名:藤原基清)は平安時代の貴族で、用水の乏しかった関ケ原へ揖斐郡粕川上流から水を引こうと計画します。粕川は関ケ原からいくつかの山を越えた向こうにあり、工事は困難を極めました。権力者であった与市はこの地を通行する者は、何人といえども1日はこの工事に参加しなければ通さないようにし、使役したのです。この努力の結果が現在の関ケ原の基盤となっているといえるでしょう。子孫の方が作った与市宮は今も手入れが行き届き、関ケ原開拓の祖であるといわれる与市への尊敬がうかがえます。
関ケ原宿から先に進みます。
途中、松並木がありましたのでここで休憩します。
中山道の松並木の途中にある「六部地蔵」。ここに祀られている六部とは「六十六部」の略で、法華経の書き写し66部を、日本全国66ヶ国の国々の霊場に1部ずつ奉納して巡る僧のことを指します。その僧が宝暦11年(1761年)頃、この地で亡くなられたのを地元の人々が祠を建て祀ったものだといわれています。この地蔵は「歯痛地蔵尊」とも呼ばれており、「六部地蔵歯痛なおりて 礼参り」と詠まれているように、歯痛を治すことでも知られています。
(つつく)





































