小さな花が咲いている。
小さな命が生まれてる。
人はみな大自然に囲まれ多くの人々に支えられて生きている。
...なのになぜ争いが生まれるのだろうか?
この世は階層のピラミッド型社会である。
全員が努力したとしても全員が社長にはなれないし、全員が東大に入れたりしない。
この世でのポストの数は限られているからである。
上位の位置につけばお金や地位や名誉やその他のものがすべて手に入れられるように見える。
すべてがある生活はとても幸せに見える。なんだってできそうに思える。
だからみんな努力してそれらを手に入れようとする。
良い大学や良い職業に就こうと必死で努力する。
しかしそうであってもお金で買えない手に入れられないものもある。
健康、本当に心通いあう家族や友達、自分の心安らぐ場所や時間。
そういう本当に価値あるものに気づかず、いや気が付いていても
当たり前に思って、この世的な価値観で生きていると心が段々すさんでくる。
何とかお金を稼ごうと考えるとその稼ぐ手段や方法を考えない。
とにかくお金さえ入ればよいことになり、いくら儲かったとか自分の利益優先の考え方になりやすい。
お金は人を幸せにして、人に感謝されてもらうものでなければならないと思う。
そのお金は人を幸せにして得たお金なのか考えてほしい。
人を幸せにして得たお金はその人をせにする。しかし人を不幸にしていることがあるとどんなに儲けていても自分や家族に将来にその付けが回ってくることになる。
どんなに巨万の富を得ていようとも、
例えばギャンブル、例えば高利貸し、例えば酒屋、・・・・
ギャンブルで儲けたお金には人の欲望や執着の思いが付いているし、高利貸しは高い利息によって人を苦しめている。
また酒屋は中には酒におぼれて仕事や家族を失ったり、病気になったり、事故を起こす人も作り出していたりするばあいがある。
そういった自分が意図していなくても苦しめた人の思いがやがて自分や家族や子孫に帰ってくることがあるといわれている。因縁を受けるのである。
実際に酒屋をやっていた家が離婚し一家離散になった例を聞いた。質屋が代々続かないということも聞いたことがある。
酒屋であれば買う人が幸せになるような売り方をするべきなのだが儲ければよいという考えでは結局自分の身や家族の将来を危うくすることになる。
ではどうやればそれらの因縁を消せるかというと、それらで儲けたお金を人を幸せにすることに使えばよいのである。
全額ではない、もちろん自分や家族が生活するのに必要な分は使えばよいが余った分は人の幸せのために使うのが良い。
もちろん商売するときにもその相手の気持ちになり、あいてが幸せになるように考え祈りながら商売すべきで儲けるために手段を択ばないやり方はやがて高い代償を払うことになる。
しかし実はそうやって過去のマイナスの因縁を消しているのであるが。
人はこの世でいろいろな経験をする。幸せの経験もあるが
失敗や不幸も経験したりする。
それらには必ず理由がある。
この世に偶然はないという。
偶然のように見えても実は過去に何らかの気が付かない原因を作っていることが多いい。
私の父があるときバイクに乗っていて22歳の若者の車にはねられてけがをして入院した。若者の不注意だった。
お詫びに着た若者を両親は若い未来ある人だからと言って咎めず温かい言葉で励ましたときにこの若者はこういった。
「自分の父が自分が小学生の時にやはり22,3歳の若者にはねられてけがをして自分はとてもその若者を憎んだと」
この若者は自分の愛する父をはねた若者の気持ちがわからなくただ憎んでいたら
結局自分も同じことになってその時の若者の気持ちを体験させられることになったのだと思う。この若者はそれを学ばされたのだと思った。
かつて人を理解せず憎んだことの学びをさせられたのだ。
そのことによってこの若者は成長したのだと思えた。
多くは自分が人に与えたしあわせも苦しみも別の形で帰ってきていたりする。
積善の家に余計ありということわざはそれを現している。
良いことをした者には良いことが返ってくるし、よくない、人を苦しめた行為をすると
また苦しみが返ってくる。いつかはわからないが。
私たちはいつでもどんな時も人の気持ちを理解し、人を幸せにしてゆく行動をしてゆかなければならないと思う。
みかえりをもとめずに・・・・
他人と思うかもしれないが明日は自分のことになるかもしれないのだ。
どんなに見えていても人は本来素晴らしい内に神なる性質を備えているのである。
出会うすべての人を理解してその人の幸せを祈り愛せる人間になりたいと思う。
