息子は小学3年生です。
わたしは、
息子が小学生になってから
「ママさん」
...という方々との交流がほぼなく
顔見知りの「ママさん」というのは、
保育園時代の「ママさん」だけです。
先日、
スイミングに息子を送りましたら
保育園時代のママさん2人が
立ち話をされていました。
軽く挨拶をして
そのまま帰ろうとしていたら
手招きをされたので......
ガーーーンっ!と落ち込みながら
顔を出しました。
ママさんA
「ダイヤくんは宿題自分で
ちゃんとやる?」
P「やってるんじゃないかな。
よくわからない。」
ママさんB
「ダイヤくんはちゃんとやる子だよ」
P「........。」
ママA
「ぴ〜ちゃん、丸つけ、ちゃんとやってる?」
P「丸つけしてって
言われたらやるよ」
ママA
「ぴ〜ちゃん家は、音読も連絡帳のハンコも
ダイヤくんがやるんだって。」
ママB「そうなの?」
P「え〜まぁ.....」
会話に入る前から
このような内容になるのはわかっていました。
だから、
大げさにがーーーーーん!って
なったんです。
このあと、
うちは宿題やるまで時間がかかる、とか
宿題で毎日喧嘩してる、とか
YouTubeとゲームとテレビばかり観てるから
将来が心配、とか
視力も心配、とかとか.....。
以前にも書いたことがあるのですけど
わたくし、
ママ業界で話すことが
一切!!ないんです。
わたしのママ業界での
会話スキル、超!!低いんです。
昔は、
お相手のお子様を
いやらしくない程度に褒める方法を
採用していましたけども
(若しくは全力で褒める方法)
今となっては
なにもない。
完膚なきまでにひとつもない。
▼▼▼
おふた方のお子様と息子は
小学校が違うので
お子様の現在をわたしは知らないので
旬である褒めができない。
といっても、
子どもたちは、
今のままで完璧であり
もっともっと拡大してゆくことを
知っているので
わざわざ
わたしが褒めることでも
ないのですけどね。
彼女たちも今現在の息子を
知らないはずなのですが
「ダイヤくんは、いいよ〜昔から
自分でなんでもできるも〜ん。」と
ダイヤくんはいいよ〜、
ダイヤくんは問題ないよ〜、といった
社交辞令での
お褒めをいただくことになる。
社交辞令でしか成り立たない会話は
わたしに必要ないので、
よし、もう帰ろう!と
時間がないことを告げると
「ほら、すぐ逃げる〜〜♪」と
泥沼会話に引き戻そうとなさる。
それでもわたしは、
「酒が俺を呼んでいる」的に
断固として帰ったのですけどね。
結局、
ぴ〜ちゃんは、
子育ての悩みがなくて羨ましい
となって、
それに比べて
わたしは、こんな悩みがあって
あんなことが心配で
子どもにこうなって欲しいのに
そうはならなくて、となる。
ここはあれかな.....
病院の待合室なのかな、
って思いました。
あっちもこっちも痛くて
ここもあそこも病気で
毎日がしんどい。
それに比べてあなたは、
健康でいいわね〜羨ましいわ〜〜
と言われているような感じ。
周りは病気だらけで
自分だけ健康ですいません、みたいな。
なんでわたしは、
ここにいるんだろう、
ママさんたちの話の内容が全くわからないな、
と思ったら
これでした。
次元が違っていた件。
▼▼▼
「同じ場所に居るようで全く別の次元に居る状態」
これは、
どちらかの世界が善くて、どちらかの世界が悪い
といった分別の問題ではなく
ただ場所が違う、という感じ。
上記のリブログ記事の頃よりも
より一層!!
違う惑星に来ちゃった感
が強くなっていました。
言葉の意味もわからなくなっていましたし
心配の内容もマジで
本当によくわかりませんでした。
宿題はやってもやらなくても
わたしはなんとも思わないし、
ゲームは、むしろやって欲しいし
やらなくても別にいい。
YouTubeは、
音をちーちゃくしてくれ!と文句言うし
テレビは平日観ない。
息子の将来は、
どうしたもんか....
マジでなにも心配していない。
このようなことを
彼女たちにガチで発表しても
噛み合わないと思われたので
黙っていましたけども
この場の空間は、確実に
わたしが映した映像です。
わたしの内面にあるけれど
自分で気づけないものを
他人が観せてくれています。
わたしの中に
子どもに関しての心配が
まだあるはずです。
すぐに気づけなくても
「わたしの中にあるのだな」と
認識するだけでいい。
彼女たちは、
わたしにそれを気づかせるために
登場してくれました。
まだまだわたしの中に外すものが
たくさんあるのか....と
ちょっぴりニヤニヤしてしまいました。
なぜなら、
それを外していったら
どんだけ軽くなるんだ!と
興奮が止まらなくなったからです。
これで十分と思うなよ。
まだまだ闇は、ごっそりあるぞ。
宇宙の存在から
そう言われている気分でした。
ーーーーーー
そもそも
なぜ?宿題をやらないとダメなのか。
宿題をやらせない親は
ダメ親だと思われるから
子どもに宿題をやらせるのか。
そこには必ず強迫観念がある。
常識という
「やるのが当たり前」の世界がある。
宿題は、やるのが当たり前の世界。
それが常識でしょっていう世界。
(※学校行くのが当たり前でしょ、
っていう世界)
当たり前だと思っていることを
できない(やらない)子どもを見ると
葛藤が起こりイライラする。
当たり前ができない子どもを責め、
我が子を責める自分をも責める、
という負のループ。
つまり
なにが言いたいのかというと、
子どもの心配をする前に
自分を救おうって話。
観念や常識、価値観が
どれだけ己を傷つけるか。
もうそれらはいらない。
闇出し!!ぽいっ!
やるのが当たり前、
できて当たり前.....を
闇出しして宇宙にぽ〜〜〜い!したら
できてもできなくても構わない、
という
ニュートラル番長の視点になる。
つまり、
レインボー路線に乗っている。
いいことにしかならない。
お母さん、気楽。
子どもも気楽。
お気楽親子になって
笑って暮らしていて
この先、
何か問題が起こるだろうか。
「今」のこの瞬間が全てなのだから。
笑って呑気に暮らしていたら
大変なことになるぞ!!
と脅してくるのならそれは
自我(エゴ)のあがきなので
放っておけばいい。
心配と不安は自我ちゃんのお仕事であるから
「それでも構わない」と
ニュートラル番長降臨させればいい。
子どもを心配するのならば
まずは、自分を救う。
「愛すること」と「心配すること」
これらを
同時にすることはできない、
と何かで読んだことがあります。
心配することは、
もちろん「愛」が源でありますけども
同時にすることができないのであれば
まずは、
自分を救って
自分の中の「愛」を拡大させる。
すると、
子どもを心配することから
子どもを信頼することへ
移行できるのかと思います。
おいおい、また記事が長くなっちまったぜ。
今日は以上です。
ありがとうございました。