インスタの方に急ぎ載せた文章をこちらでも。
また何か書くかも知れませんが。

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私は卒業論文以来、現在まで小林一三の演劇観を中心とした日本近代演劇を専門分野としている。
現在宝塚歌劇で起こっていることについて、部外者の人間が憶測でその内部の事情について語るのは避けたい。あまりにもセンシティブ過ぎる問題を前に語ることはできない。

だが、なんらか歴史的な観点からならば、何かを記すことは可能なのだろうか。

雑誌『歌劇』という、宝塚歌劇団の機関誌がある。大正7年(1918)創刊。これは今でこそファン向けの雑誌で、ファン以外の人が手に取ることはほとんどないが、宝塚草創期においてはそれ以上の役割や意義を持つ雑誌だった。当時の文化人や知識人も寄稿し、またファンによる反対意見なども積極的に掲載してきた。日本近代における「芸術」や「文化」の在り方について、それこそ宝塚の舞台のみならずバレエ、オペラ、文学、美術といった様々なジャンルの話題を掲載していたのである。
この『歌劇』に宝塚歌劇団創設者の小林も毎号にわたり寄稿している。彼が目指した演劇の理想論を語る場でもあり、毎公演の劇評は彼が亡くなるまで必ず歌劇誌上に載せている。そこでは、「退屈でつまらない、なんとかならないのか」といった辛口の意見も多くあった。

また、小林は、劇団内で何らか問題が起こった場合や、それをファンに指摘された場合など、身内にも関わらず小林自ら、運営や演出スタッフに対してクリティカルな批判を『歌劇』上で公開にして投げ掛けることもしばしばだった。
小林自身が一番身内に対して厳しかったのではないだろうか。

と同時に彼は劇団の生徒皆をとても大切に思い可愛がっていた。生徒からは「お父さん」と慕われていたという。

小林は宝塚歌劇を娘のように愛していたという。だからこそ、宝塚や生徒を守るためにこそ、なにか問題が起これば、全うな道を歩めるよう、常に模索しながら最善を目指し、ときに厳しく的確な軌道修正を行っていたのではないだろうか。

小林は阪急電鉄、宝塚歌劇だけでなく東宝の創設者でもあるが(東宝とは東京宝塚劇場の略である)、小林は日本に新しい固有の演劇を創ることに並々ならぬ情熱を注いでいた。当時、興業界では比べ物にならないほど大きな勢力だった松竹にも真っ向から勝負を挑む。白井と小林はライバルとしてこの日本の演劇界を発展させてきた。しかも彼らは民間である。日本という国家が文化芸術の発展に積極的に寄与することはほとんどなかった。民間の手によって、戦前戦後とこれだけの文化を築き上げているのだから驚きである。

そこまでの情熱を注げたのは、小林が根っからの演劇好きであったからである。若い頃は、川上音二郎のもとで弟子になりたいなどと思ったこともあるそうだ。文学青年でもあった。新聞小説を書いたり、はたまた宝塚草創期には自ら台本脚本も書いている。三井銀行に入るなどより、元々はそうした世界が好きな人間なのだ。
理想の演劇を通して日本の文化を創っていく、というその情熱こそ、宝塚や東宝を維持し、大きく育てることができた最大の要因ではないだろうか。

創業者が存命の間というのは、もちろんその想いの下に事業は行われるだろう。亡くなったあとも、その人の情熱に直接触れた人間が組織に残っているかも知れない。だが時間が経てば、形式は残ったとしても、肝心の情熱や意思がその外側に置き去りにされることもあるかもしれないのは当然である。継承し続けるのは簡単ではない。むしろ110年もひとつの民間演劇組織が存続し続けていることの方こそ、異例だろう。

今の歌劇団の在り方に対して、小林ならどう言うのだろうかと、ときどき考える。

小林のいない阪急や宝塚が、彼の精神をそのまま継承してほしいものだなぁ、と常々考えてきたが、やはり今はそうではないところにいるということなのだろうか。

だが、私は小林が創った宝塚がなくなってほしいなどと思うことは到底できない。そうした言葉を目にするのは悲しい。だからこの投稿を書こうと思ったというのもある。誰が読むとも知らないが。
ひたすらに、よい方向に向かうことを願うばかりです。


今年は小林一三生誕150年。日比谷シャンテで展示がありました。