〈第一話 静雨譚〉


 雨は、降り続いていた。
 それは濡れない雨。
 雲の縫い目から零れ落ちるような細い粒子は、掌に受けても水滴にはならず、ただ微かに肌をくすぐって消えていく。
 この雨が降り始めてから、季節は変わらなくなった。冬は遠のき、夏も来ない。街は、同じ温度と光の中で緩やかに時間を繰り返している。

 世界の人口は半分になった。
 消えたのか、去ったのか、それともどこかへ移されたのか──誰も知らない。ただ、ある日を境に人々の数がきっぱりと減り、その事実を誰も驚かなかった。

 青年は、アスファルトに沈む街の輪郭を歩いていた。
 窓を閉めた商店。開いたまま止まった時計店。錆びた公園の鉄棒。
 世界は静かだが、空虚ではなかった。雨がこの世界を均質な膜で覆い、何かを保ち続けているように見えた。


 ある午後、青年は足を止めた。
 そこにはかつて図書館だった建物があった。煉瓦の外壁は灰色に褪せ、入り口の自動扉は通電を失って口を閉ざしている。
 中に足を踏み入れると、雨音は遠のき、代わりに紙と木の乾いた匂いが鼻腔をくすぐった。
 書棚の列は崩れかけ、散らばった本の背表紙は色を失っている。それでも、彼の視線はある一冊の詩集に吸い寄せられた。

 それは布張りの表紙を持つ薄い本だった。ページを開くと、文字はやけに鮮明で、紙の白は時間を拒むように冴えていた。
 一篇の詩に、青年は立ち止まった。


 ひとの影が消える日
 空は雨を思い出す
 道は残された足跡を抱きしめ
 時計は知らぬふりをして時を忘れる


 読み終えた瞬間、背後で微かな気配が動いた。

 振り返ると、一人の男が立っていた。
 長い外套に銀色の細い杖を持ち、瞳は淡い琥珀色をしている。
 その姿は、光の中に古い肖像画を切り抜いたかのようで、輪郭がどこか現実から浮いて見えた。

「その詩を、選んだ理由を聞いても?」

 その男の声は低く、遠くから響くようだった。

 青年は答えられなかった。理由などなかった。ただ、この詩が彼を待っていたような気がしたのだ。
 その男は微笑み、視線を詩集から青年へ移した。

「あなたは、まだこちら側にいる……」

 意味を測りかねる言葉を残し、その男は踵を返して去っていった。
 残された青年の手の中で、詩集のページがかすかに震えていた。


 外へ出ると、雨は相変わらず降っていた。
 街灯の下、粒子のような雨は光を透かして宙に漂い、アスファルトに落ちても何の痕跡も残さない。
 青年は詩の一節を胸の奥で繰り返した。

 ──時計は知らぬふりをして時を忘れる。

 その日から、青年はあの男のことを幾度も思い出すことになる。
 しかし、名前も、所在も、何一つ分からなかった。

 ただ、心のどこかでわかっていた。
 ──あの男は、これから何度も自分の前に現れる、と。



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〈第二話 時の庭〉

 あの日から、青年はあの男の影を探していた。
 灰色の街を歩き、閉ざされた公園を抜け、駅舎跡や市場跡を巡ったが、再び会うことはできなかった。
 ただ、時折、誰もいないはずの路地に、長い外套の裾が角を曲がるのを見かけることがあった。追っても、そこには何もなかった。


 その日の午後、青年は街の外れに来ていた。
 地図にも記憶にも存在しないはずの道が現れ、足は自然とそこへ向かっていた。
 道は白い霧に包まれ、やがて石造りの門が見えた。錆びた格子の向こうには、広大な庭園が広がっていた。

 門を押し開けると、雨音が消えた。
 そこは「時」が停まっていた。
 花壇の百合は開きかけたまま動かず、噴水の水は宙に細い弧を描いたまま、しぶき一粒すら落ちない。
 空は白く、光も影もない。

 庭の中央、白い石のベンチに、あの男が座っていた。

「やはり、来ましたね」

 男は視線を上げず、掌で小さな懐中時計を弄んでいた。

「ここは?」と青年が問う。

「時の庭です」

 男は答えた。

「止まった時間が、花や水や空気と一緒に保存される場所。ここに入れる者は限られています」

 青年は周囲を見回した。
 葉の揺れも、風の通りもない。自分の呼吸の音だけが、異様に響く。

「どうして僕がここに?」

 男はゆっくりと顔を上げた。
 その瞳は琥珀色で、深く覗き込むと、何世紀もの光景が層を成して揺れているようだった。

「あなたには、“その日”を迎える権利がある」

 男は懐中時計を青年に差し出した。
 古びた銀の蓋には見知らぬ紋章が刻まれ、針はある日付の一点を指して止まっている。

「その日まで、あなたは時計を持っていなさい。日付が来たら、選ばなければなりません」

「何を?」

「残るか、渡るか」

 それ以上、男は説明しなかった。


 庭を出ると、雨音が戻ってきた。
 振り返ると、門の向こうはただの空き地になっていた。
 手の中の懐中時計は冷たく、針は微動だにしない。

 青年は思った。
 ──あの男は一体何者なのか。
 その答えは、時計の指す日にしか明らかにならないような気がした。


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〈第三話 影の駅〉

 青年は懐中時計を持ち歩くようになってから、奇妙な既視感に襲われることが増えた。
 まだ訪れたことのない路地を歩いていても、なぜか次に曲がる角や、現れる建物が予めわかってしまうのだ。

 その日もそうだった。
 気がつくと、足はかつて通勤のために使っていた駅へ向かっていた。
 だが駅舎はすでに廃墟で、改札も券売機も錆び付いていた。
 ホームには古い時刻表が残っていたが、数字は雨に滲んで読めない。

 ふと、列車の到着を告げるベルが鳴った。
 だがホームの線路は黒い水溜まりのように沈黙している。
 ベルはどこか遠く、靄を通して響くようだった。

 青年は歩き出した。
 靄の向こうに、もうひとつのホームが見えた。そこには何人かの人影があり、みな無言で並んでいる。
 その顔は、奇妙なほど無表情だった。

 ──こちら側の人間ではない。
 直感がそう告げた。

 「渡る列車を待っているんです」

 声がして振り向くと、あの男が立っていた。
 長い外套は雨に濡れても質感を変えず、琥珀色の瞳は相変わらず時間の奥を映している。

「渡る?」と青年が問う。

「そう。こちらからあちらへ。あるいは、あちらからこちらへ」

 男は淡々と答えた。

「ただし、一度乗れば、もう帰ってこられません」

 ホームの向こうで靄が動き、列車らしき影が現れた。
 窓から漏れる光は柔らかく、そこに立つ人影の輪郭を曖昧にしている。

 青年は自分の手元に視線を落とした。
 懐中時計の針は止まったままだ。
 男はそれを見て、わずかに微笑んだ。

「まだ時ではない。けれど、覚えておきなさい──この駅は影の駅。時と時の間にだけ現れる」

 次の瞬間、ベルの音も靄も消え、青年はただの廃駅に立っていた。
 ホームには誰もいない。
 ただ、線路の向こうに一輪の白い花が咲いていた。

 雨粒が花びらに触れ、しかし濡らすことなく、小さな光を宿していた。


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〈第四話 雨の誕生〉

 ある夜、青年は眠りの縁で音を聞いた。
 それは雨の音ではなかった。もっと静かで、粒子が空気を渡っていくような──砂時計の砂が落ちるような響き。


 目を開けると、部屋の窓が開いていた。
 窓枠の向こう、濃い靄の中に男が立っていた。

「君は、あの日を覚えているか」

 男の声は雨の中でもはっきりと届く。

「あの日……?」青年は問い返す。

「最初の雨が降った日だ」

 その言葉で、心の奥底がわずかに疼いた。
 忘れていた景色の輪郭が、黒白の印画紙のようにじわりと浮かび上がる。


 ──世界が音を失った午後。

 空は真昼なのに夜明け前の色をしていた。
 街路の影が長く伸び、人々は立ち止まり、同じ方向を見上げていた。

 そして、ひとしずく目が落ちた。
 頬に触れた瞬間、なぜか胸が静まり、熱が引いていくのを感じた。

 その後のことは、どうしても思い出せない。


「君も、あの日を選んだ者のひとりだ」

 男は言った。

「選ばれたのではない。選んだのだ。気づかぬままに」

「……選ばなかった者は、今どこに?」

 男は瞳を細めた。

「──この空の雨の届かぬ場所だ。そこでは今も競い、急ぎ、奪い合っている」

 青年は沈黙した。
 窓の外の雨は、仄かに光を帯びながら降り続いている。
 ふと、男が上着の内側から古びた名刺を取り出し、机の上に置いた。

 そこには洒落た書体で名前が記されていた。

 Comte de Saint-Germain
 (サンジェルマン伯爵)

 青年が顔を上げた時、男の姿はもうなかった。
 ただ雨だけが、窓辺にかかる白いカーテンを揺らしていた。

 
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〈第五話 渡りの橋〉

 雨は昼と夜の区別なく降り続いていた。
 青年は、あの名刺をポケットに忍ばせたまま、いつもより長く歩いていた。
 行き先はなかったが、足は迷わず西のはずれへ向かっていた。


 街が終わるあたり、ひとつの廃駅がある。
 線路は朽ちているのに、そこだけ空気が澄み、雨粒がゆっくりと落ちているように見えた。

 駅舎の中に入ると、木製の長椅子や切符窓口がそのまま残っていた。
 壁には古い時刻表が貼られており、その日付は雨が始まる前日で止まっていた。

 ふと、ホームの端に奇妙なものがあった。
 光を帯びた薄い霧が、一本の橋の形をして架かっている。
 橋の向こうには、輪郭の揺らぐ町並みが見える。

 そこで声がした。

「向こうへ行くこともできる。だが、戻れぬ」

 振り返ると、例の男がいた。
 サンジェルマン伯爵──そう、青年はもう名前を知っている。

「そこは、雨の降らぬ側だ。忙しく、熱く、絶えず何かを失い続ける場所」
「……なぜ、見せるんです?」
「選び直すことも、人には許されている」

 青年は橋を見つめた。
 向こうの町は色彩を持っていた。遠くで誰かが笑い、走り、叫んでいる。
 しかしその光景は、なぜか懐かしくもあり、同時に疲労を思わせた。

 しばらくの沈黙のあと、青年は小さく首を横に振った。

 伯爵は口元に微かな笑みを浮かべた。

「よろしい。雨は君を忘れぬ」

 気がつくと橋も霧も消え、ただ廃駅と降り続く静かな雨だけが残っていた。
 青年は改札を抜け、ゆっくりと街へ戻った。
 胸の奥で、何かがまたひとつ形を変えていくのを感じながら。

 
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〈第六話 霧の暁〉

 その日、雨は夜明け前に止んでいた。
 目を覚ました青年は、屋根を打つ音の欠落に違和感を覚え、布団から起き上がった。
 窓の外には、深い霧が街を呑み込み、輪郭という輪郭を溶かしていた。


 通りに出ると、誰もいない。
 電線は薄い白に包まれ、建物の影は墨をぼかしたように滲んでいる。
 耳を澄ませば、自分の呼吸と足音だけが漂っていた。

 あの雨がやむと必ず現れる霧。
 だが今日は、霧があまりに濃く、そして静かすぎた。


 広場に着くと、そこに彼がいた。
 黒い外套の男──サンジェルマン伯爵。

「早いな」
「眠れなかっただけです」

 伯爵は霧を見上げ、低く呟く。

「今日は……少し長く続く」

 青年はその言葉に何かを感じ取った。
 長く続く霧。それは、境界が薄まる時間が長くなるということ。
 向こうとこちらの距離が、いつもより近づくということ。

「何が起きるんですか」
「まだ起きてはいない。ただ……君の忘れているものが、姿を現すかもしれん」

 その時、霧の奥から、鈍い足音が近づいてきた。
 見慣れない人影。背筋をまっすぐに伸ばし、速足で歩く姿。
 青年の胸が、なぜか痛む。
 その人は、かつて競い、追い、失い続ける世界に生きていた匂いをまとっていた。

 霧がその輪郭をぼやかし、そしてまた少しずつ濃くなる。

 伯爵が一歩前に出る。

「今日は、選びを間違えるな」

 その言葉は、霧の中でゆっくりと溶け、青年の耳に重く残った。


ーーーーー

〈第七話 境界の声〉

 霧の中に立つ人影は、青年の目に確かに既視感をもたらしていた。
 その歩き方、視線の向け方、微かに口元に刻まれた癖。
 けれど、どうしても名前が思い出せない。

 霧は音を吸い込み、二人の距離は不自然なほど遅く縮まっていった。
 まるで互いの輪郭を確かめながら近づくように。

 やがて、その人物が口を開いた。

「やっと見つけた」

 低く、しかし熱を帯びた声。
 青年の胸奥で、何かがきしむ。
 それは喜びでも悲しみでもなく、ずっと眠っていた歯車が再び動き出すような感覚だった。

「君は……僕を知っている?」
「知っている。君は──」

 その言葉の続きは、突然濃くなった霧に飲まれた。

 視界が真っ白に塗り潰され、青年は呼吸を浅くした。
 耳元で、別の声がした。
 それはあの紳士──伯爵の声だった。

「名前に縛られるな。形に縛られるな。忘れていたものは、いつも輪郭よりも前にある」

 青年は立ち尽くす。
 霧の奥で、さっきの人影が遠ざかっていくのがわかる。
 その背を追おうと一歩踏み出した瞬間、肩を掴まれた。

 伯爵がそこにいた。
 その瞳は、霧の中でただ一つ、揺らぎなく輝いている。

「追えば、君は向こう側に渡ることになる。ここに留まれば、君は探し続けることになる。どちらも間違いではない」

 青年は答えられなかった。
 霧の向こうから、確かに自分を呼ぶ声がする。

 霧は少しずつ薄れ、遠ざかる人影は完全に見えなくなった。
 ただ、胸の奥に残る震えだけが、確かにそれが存在していた証だった。

「……僕は」

 言いかけて、青年は言葉を飲み込んだ。

 伯爵は微かに笑い、懐中時計を取り出して開く。

「まだ時間はある。君が決める日まで、雨は君を忘れない」


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〈最終話 雨の向こう〉

 その日も、静かな雨は降り続いていた。
 微細な光を宿した水滴は、灰色の街を淡く霞ませている。
 足音は濡れない路面に淡く響き、消えていった。

 伯爵は青年の隣に立ち、同じ速度で歩いていた。

「君が探していたものは、向こう側にある」

 伯爵の言葉は、ためらいを含みながらも確信に満ちていた。

「行けば、もう戻れないのか……」
「戻るという言葉は、あの雨にはない」

 先に霧が立ち込め、かすかに声が聞こえる。
 それは確かに、青年の胸の奥で長く眠っていた響きだった。
 忘れていた笑い声、柔らかな手の感触、過ぎ去ったはずの懐かしさと温もり。そして、名づけられない痛みが胸を満たす。

 足は自然に霧の中へ向かっていた。
 伯爵は何も止めず、ただ懐中時計を青年の掌に置いた。

 霧の境界を越えた瞬間、雨は消えた。
 光のある広場、懐かしい顔々、失われたと思っていた日々がそこにあった。
 青年は一歩、また一歩と進み、振り返らなかった。

 背後で、伯爵の声が微かに届く。

「時は、君を選んだ」

 懐中時計の針が動き出す音が聞こえた。
 その音は、再び会うことのない世界への別れの拍子だった。

 そして雨は、向こうの街で今日も降り続いていた。


— 完 —