舞台「ようこそ、ミナト先生」

6月4日、無事に初日を迎えられてひとまず安心しています。
無事に完走できますように。


さて。

6月4日公演、初回公演に行ってまいりましたので
いつものごとく感想をつらつら書き記したいと思います。


今回は、まだ始まったばかりで日にちが日にちなので
前半はネタバレなしで、後半はネタバレしつつ(具体的に物語に触れつつ)で書けたらなあ、と現状は思っています。


なので、ネタバレしたくない方は
自分でコントロールして読んでください。



まずはネタバレなしで語れる、
私が今語りたい話をします。




相葉雅紀、12年振りの舞台。

私は、「忘れられない人」の頃はまだ嵐を好きになりたてで右も左もわからず、
そして、「グリーンフィンガーズ」の頃にはしっかり嵐ファンと化しておりましたが、足を運ぶことができませんでした。

「君と見る千の夢」も同様に、現場では見ることができず、私は映像化されたDVDで拝見いたしました。
(ほぼ記憶薄れているので見直しましょうね私)



なので、「12年振りの舞台」というのは、
私にとっては懐かしくもあり"はじめて"でもありました。


、、、という私の話はここまでにして。



私は、宮田先生との空気感だったり作品に触れたりすると、
「宮田先生は本当に相葉くんのことが大好きなんだろうなあ」と思います。


今までは正直、宮田先生は何でこんなに相葉くんのことが好きなんだろう?と思うこともありましたが、
今回「ようこそ、ミナト先生」を観て
【俳優・相葉雅紀を通してでしか描けないこと】がたくさんあるのではないかなあ、と感じました。


これまでの作品を観られていない若輩者が何を言ってるんだ、と言われたらそれまでですし、
自分でも本当その通りだなあと思うのですが、
今回の舞台を通して、なんとなくそんな熱量を感じたような気がします。

勘違いだったらごめんなさい。







語ります。

(この先、ネタバレはないですが、舞台を見た感想を書いています。悪しからず。)




私がこの作品を観て感じたことは、
私たちの生活しているこの日常には、
意味があることがたくさんあって、
意味のないこともたくさんある、ということです。

そして最終的に辿り着いたところは、
「自分にとって意味のないと感じることにも意味があって、
世の中は【意味のあること】しかないのだな」というところです。


少し言い方を変えると、私たちは世の中の一部からしか意味を感じられないから、
何かに対して「意味がない」と思って色々なものを見落としてしまうんですよね。


例えば、目の前にあるものに対して、「これって無意味だなあ」って思うことはあっても、
誰かから見るとそうでもないのかもしれません。

私にとってはゴミでも、
誰かにとっては資源かもしれないということです。



そして、そういうことに気付く時って、
絶対にキッカケがあるんですよね。

それはテレビかもしれないし、ネットかもしれないし、新しい人との出会いかもしれない。

たまたますれ違った人の会話かもしれないし、
たまたま車から目にした広告かもしれない。



私は、「ようこそ、ミナト先生」という舞台には、
そんな"キッカケ"がたくさんあったような気がしています。


ただし、私たち観客はこの作品がキッカケで
「日常の"そういうこと"に気づける」ようになるわけではないんですよね。


ただ、ただ、この作品では、
そういう"キッカケ"がたくさん描かれているんですよね。



そしてこれは、【俳優・相葉雅紀】を通してだからこそ、
大きな意味が生まれるのではないかと感じました。



少し話はそれますが、
個人的に、相葉くんのお芝居ってどこまでも"真っ直ぐ"なように思います。

それはもちろん、【相葉雅紀】という人間性やパブリックイメージの影響もあると思いますが、
相葉くんのお芝居には相葉くんにしか出せない"真っ直ぐさ"があるように思います。


だからこそ、私にとって【普通】に見えます。

相葉くんのお芝居は、真っ直ぐだからこそ【普通】なんですよね。

この【普通】っていうのは、ここでは、
何かに気付けなかったり、誰かを思いやれなかったり、
でも誰かや何かに思いやって気付こうとしてみたり、って
力が入ったり無力になったり、
そんな誰もが隠したり誤魔化したりしそうなことがありのままに存在することを指します。


どれだけ楽しい時間を過ごしていても、
3秒くらいは何かに気を遣ったり、1秒くらいは悩んでいることを思い出したりしますよね。

生きてりゃそれくらいが普通だと思います。


私は、相葉くんのお芝居にはこの【普通さ】があると思っています。


【普通】なお芝居だからこそ、何が良くて何が悪い、みたいな線引きされたものは観客は"受け取らない"んですよね。


うまく言えませんが、
例えば「嘘をつくことは良くない!」って伝えようと思った時、

悪いこと=嘘をつくこと
良いこと=嘘をつかないこと

として描きます。

そういう作品は、
観終わった後に「ああ、嘘って良くないよね」と思うでしょう。
それが伝えたいことだったから、やりたかったこととしては大達成です。


この"伝えたいこと"は作品によって違います。

この場合で言うと作品によっては「嘘をつくことが一概に悪いことだとは言えないよね」と描くこともあるかと思います。


そして、この例えで言うと、
「ようこそ、ミナト先生」という作品は、
「それが嘘だろうが本当だろうが"どっちでもいい人"も世の中にはたくさんいるよね」ということも描く作品だなあ、と思いました。


うまく例えられているのかは自信がないですが、
これってめちゃくちゃ難しくないですか?

この場合、"どっちでもいい人"に「嘘か本当か」なんて意識させてはいけないんですよね。
その人にとっては意味がないから。関係ないから。


私たちは普段生きてて自分に意味がないものは基本的に自分の目に入らないじゃないですか。
それが【普通】じゃないですか。
普段電車に乗っている時に隣の人が何考えてるかなんて私の人生にとっては大抵意味がないから意識はしません、これは【普通】ですよね。


そういうことをもし舞台で描いたら
描いたその時点で「いやめちゃくちゃ隣の人のこと気にしてる!」ってなるじゃないですか。


つまり、私は"描かない"ことでしか描けないことが一定数存在していると思っています。

そして、この「ようこそ、ミナト先生」という作品は、
描かないことでしか描けないものがたくさん存在しているのではないかと感じました。

そんな時、相葉くんのお芝居が持つ【普通さ】って相当武器になるのではないか?とも思いました。


"描かない"と伝えられないけれども、
描かないから伝えられない可能性があります。

でも、相葉くんのお芝居では伝えられちゃうんですよねきっと。
【普通】だから、"描かなくても"。


永遠に日本語弱者なのでうまく日本語化出来ないのですが、この感じ伝わりますかねえ。



話を本題に戻します。

あらすじにもある通り、
「ミナトはとある秘密を抱えていた。」わけです。

物語の軸はこのミナトの秘密にあります。

私はこの舞台では、ミナトの秘密を通して、
「日常感じる"意味のないこと"にも"意味がある"こと」を描いているんだろうなあ、と思いました。

そして、見る人によって何を感じるかは違っていて、
それは違っていないと意味がないんですよね。

だって、人によってどこに意味を感じてどこを見落として生きているかが違うから。



だから、
私はこの先も生きていく中でたくさんのことを見落として意味がないと感じるかもしれません。
でもそのすべてに何らかの意味があるんですよね。

それと同じように私にとっては意味があってもそこに意味を見出さない人もたくさんいるのだ、ということを忘れずに生きたいなと感じました。

ただ、見落とすことは普通で、何かの意味を見出せないことも普通で、
それは人によって違っているから、
それ以上の何かが生まれることはないかもしれません。

でも、その事実を改めてこうして感じられたことで、
きっとほんの少しだけ時間の流れ方が変わるんですよね。

明確に変わるかは分からないし、
別に変わらなくてもそれでいいし。

ただ、そう感じたっていう。それだけ。


私の語彙力じゃこんなふうにしか書けないけれども、
そういうことを柔らかく感じさせる作品ってなかなかないと思うんですよね。


「私はこういうことを伝えたい、見てほしい!」って作品を作っている時点で、
作り手→受け手への矢印は生まれるのが当たり前なんです。
そこの矢印に優しさと柔らかさを持たせるって作り手としてはすごく難しいと思うんですよね。

矢印は無くしてはいけないし、他の作品と同じくらい濃いものでないといけないんですよね。
そうでないと観客を入れてやる意味がないから。
その矢印がない作品は自己満足以外の何物でも無いから。


そして、私の勝手な個人的な解釈ですが、
宮田先生にとって作品を通して伝えたいことの中に、相葉くんのお芝居でないと伝えられないことがあると感じているのではないでしょうか。




ということで、
この先、ネタバレあります。




ここまで長々書いてまだ書くのか!って言う。
私は今上で書いたことを具体的に触れていきたいんですよ。


ので、結果的にこの先が本番です。(長い)




もう一度書きます、この先ネタバレがあります。
具体的な物語の内容に触れています。

避けている方はここまでです。

私のはちゃめちゃな感想文にお付き合いいただきありがとうございました。

























さて。

具体的な内容に触れつつ、
もう少しだけ語らせてください。
(多分少しではない)






とりあえず、、、、、

あの、、、、、、

一瞬だけ馬鹿なただのファンになっていいですか、、、、


相葉雅紀の「ぴ」、、、、、、、、、、

かわいかった、、、、、、、、

というかシンプルにひなっぴーちゃん可愛かった、、、、、
ひなっぴーキーホルダーほしい、、、、、、


ありがとうございました、、、、、、








、、、すいません取り乱しました。

この話は置いといて。





私、今上で書いてきたことの全てを
最後のクライマックスのシーンで感じたんですよね。


最後のシーン、泣いてしまう感動ポイントはいくつかあると思いますが、
個人的には湊の話を聞いた植村が湊の写真に息子の姿を思い浮かべるシーンで泣きました。



湊が何気なく(?)撮った写真に、命が宿った瞬間、と言いますか。


日永町の魅力を伝えるための写真
=日永町には何もないけど素敵なものがたくさんある、今あるものに気づいてもらう写真

と認識していた壁に飾られた写真たちが、
あの最後のシーンで急に"思い出"に変わるんですよね。

植村に感情移入して、ももちろん状況的にはありますが、
きっと誰にとっても"それ"は"思い出"になるんですよね。
素直に自分に置き換えられるというか。

大切な人が亡くなった時、昨日までの同じ景色なはずなのにほんの少し寂しくて、ほんの少し暗くなってしまう。
それはもうどうしようもないんですよね。

でも、ほんの些細なキッカケで、一瞬だけでも明るく見えたりするんですよね。

元々同じ景色だから、それもまた"どうしようもない"んですよね。

日常を生きていて、同じモノを見ているはずなのに、
その時の状況や感情で異なって見えてしまうことがよくあるかと思います。


シーンとしては、湊は自分が聞いたタクミ(植村の息子)の話を話し、
それを聞いて植村は湊の撮った写真に息子の姿を見ます。
もっと言うと、見ている私たちはそのシーンを見て、私だったら上で書いたようなことを感じてしまいます。

それがとっても柔らかいんですよ。

この柔らかさ、伝わりますかね。

なーーーーんて言えばいいんでしょうね。

これは各々が勝手に感じてるだけなんですよね。
言葉や目の前に見えているものを通して、自分の感情がふと動くんですよ。

だから泣いてしまうポイントが人によって少し違うんですよね、多分。
私より数分前から鼻ぐずぐずさせてる方もいらっしゃいましたから。

人はきっと感動と呼びますが、感動させたくてこういうセリフでこういう演出をしてるって感じではないんですよね。
そりゃBGMはかかってるし、(特に写真のシーンは照明も音響もついてた)
クライマックスなのでしっかり演出している他ないんですけれども。

ゴリ押ししてはいない、と言いますか。
作り手→受け手の矢印を観ている間は感じない、と言いますか。

そこの塩梅が私はめちゃくちゃうまいなあと思いました。


こういう状況や感情って、表現するには難しい気がします。

同じモノが時によって異なって見える理由は目に見える言葉にできる理由の時もあるだろうし、そうではない時もあると思うからです。

些細なことで傷付いたり、嬉しくなったり、
それを演劇で描くってなった時に、いや、難しいよ、って。

些細なことって日常では通り過ぎることだと思うから。

通り過ぎない些細なことは、些細なことの中でも大きめなんですよ。
伝わってほしい。
もう私にはこれ以上伝える術がない。


「あ、今日食べるチョコレート昨日より形が綺麗な気がする」と思いながら食べるチョコレート、もしかしたら昨日より美味しく感じるかもしれない。
でも同じ工場で作られてて同じ量で同じ型で作られているから、昨日も今日も明日も同じチョコレートで同じ味なんですよね。
昨日食べたチョコレートはもうないし、今日食べたチョコレートは今食べたし、明日のチョコレートは今目の前に存在しているんですよね。

みたいな「は?お前何言ってんの?」みたいなことって普通言葉にすることはないじゃないですか。

例えのクセが強くてごめんなさい。

こういう時は描こうとすると大体「今日もおいしい〜!」でしょ?っていう。

これらを言葉にしたらただのチョコレートオタクだから。クセ強いから。そこに意味持っちゃうから。
そのチョコレートはこれまでもずっと毎日食べてたし、別にそこには特に何の感情もないんですよ。
基本的には通り過ぎていくことなんですよ。
だってタイミングによってはその後の友達とのご飯の方が大事だし、それは仕事中に食べてるだけの休憩時間でしかないかもしれないから。

自分にとってチョコレートそのものよりも友達とのご飯や休憩している事実の方が大きく存在しているから。


いや、クセ。

なにこれやだやだ、話戻す。

何の話してたっけ。


つまり、普段の日常の生活では些細なこととして通り過ぎちゃうようなことが、この作品では描かずして描かれていたような気がするんです。

拾おうと思えばいくらでも拾える日常の変化や自分との違い、誰かの気付きや些細な言葉が持つパワーみたいなものが、あまりにもたくさん転がっていたように感じました。

そこに気付くか気付かないかは人それぞれで、
多分気付いても気付かなくてもどっちでもよくて。

明日、地方の町のニュースを見たときに、もしかしたらこの作品を思い出すかもしれません。
明後日、何かがバズっているのを見たら、この作品を思い出すかもしれません。

今気付いてなくても、いつか思い出して何かに気付くかもしれません。

そして、気付いた時に"何か"は私の世界の中で意味を持ちます。
今まで散々見落としてきたのに。


そんなことを描いている作品だなあと思いました。
そして、それははっきりとは描いていないからこそ、何か言葉を探した時に「柔らかいなあ」って感じたのが現状の感情です。

語彙力がなくてごめんなさい。



何かを良い・悪いで捌きがちな世の中だけれども、
本当は何が良くて何が悪いかなんて分からないのに、っていうようなことを柔らかく描いている気がしたんです。

良い・悪いを認識してしまったらその時点で私たちはどちらかに振り分けてしまうかもしれないから。
振り分ける必要はないのに、振り分けてしまうのが世の中だし人間だと思うから。


湊は悪者?植村は悪者?
どちらでもないはずですよね。

どちらでもなく、続くシーンはラジオ体操なんですよ。
その説明はないんですよね。
見たそのままだから。言葉にできないから。する必要がないから。

日常には色んな人の思いがありふれてて、ありふれすぎてるから、誰かが良くて誰かが悪いって描けなくて。人それぞれで。
言葉できない、が故の、ラジオ体操。


もちろんここだけではないですが、
こういう描き方が柔らかいなあと思うんですよ。
圧がないと言いますか。
湊の素性(クニヒロの息子であること)を知って、町の人たちが湊に対してどう思ったって描いていないんですよ。

ただ、ラジオ体操していたんですよね。
(ラジオ体操してたのは2人だけどw「疲れたぁ」とか言って最後までできてなかったけどwそれもまた日常。)


このシーンの意図ってちゃんと伝わるでしょ?
無意味なシーンにはならないでしょ?っていう。
突然のラジオ体操なのに。



本筋に戻ります。

湊は、父親(クニヒロ。父親の苗字。湊は母親の旧姓。)が事故を起こし人生が変わりました。
湊は何もしてないのに。変わらず日常を送っていたのに。
それは植村も同じでした。

湊は父親の事故で世間から罵倒される存在になりました。そんな状況をおかしいと思いながらも、その状況を変えることができないまま逃げることしかできませんでした。

植村は息子を亡くした悲しみに暮れ、クニヒロを恨みます。
その状況を変えることはできないと分かりつつも、そうすることでしか自分を保てなくて。
周りと関わると、変に気を遣われていることがわかってしまいます。それはそれで息子を亡くしたことを突きつけられるような気がして苦しいから人と関わらなくなってしまいました。

立場は違えど同じですよね。



ミナト先生がクニヒロの息子だと噂になってしまい、祭りで植村に言い寄られた時、
「俺はクニヒロだ、事故を起こした父親の息子で、俺は良い人なんかじゃなくて悪い人なんだ」と日永町の人々に態度悪く話します。
自分のことを隠して嘘をついてここまで暮らしてきたのだとわざと嫌われるような言い方をします。


でも、日永町の人々に嫌われたくて言ったというよりは
"加害者の息子"という扱いを受けてきたことで、湊は自分が世間の悪者だと思うほかなくなっているような印象を覚えます。
悪者扱いされることに慣れてしまっている、と言いますか。諦めていると言いますか。

湊は自分自身が生きていくのに必死でした。

植村はそんな湊にここぞとばかりに刺しにくるんですよね。

「お前らのせいで」、と。

植村もまた、そう生きることしかできなかったから、事故を起こした父親に原因があるのを分かっていつつも、その息子が目の前にいるということで取り乱してしまうんですよね。

だって自分の人生を狂わせた男の息子ですよ。
恨むに決まってますよね。

湊のせいではないと分かっているけれども、湊の父親のせいで人生が狂わされてしまった。大切な人を失ってしまった。
この怒りや虚しさをぶつけるには格好の相手です。
でも湊自身ではないから、お前の父親のせいで、となります。


世間でもこれが普通ですよね。

犯罪を犯すと、何の関係もなくても当人だけではなくその家族も犯罪を犯したような存在になります。

知らない間に勝手に連帯責任を押し付けられているかのような現実が間違いなくこの世界にはあります。

多分、間違ってる。
そう分かっていても、例えば目の前の友達の父親が犯罪者だとしたら、私はその友達と縁を切るかもしれません。
これが現実なんですよね。

こういう時、どうするのが良くてどうするのがダメで、って簡単に言えるようなことではないんですよね。とても難しいことだと思います。

その難しい現実が描かれていました。

ここで言うと、植村も湊も色んな意味で事故の被害者で、苦しんできたことが観客には分かります。

どちらが悪くてとかどちらが良くて、とか言えませんよね。
2人とも立場は違えど同じだけ苦しんできたことが分かるから。


植村は、クニヒロを恨んでいるから、「お前の父親のせいで」と湊を罵倒します。

でもその言葉の全てが、湊に新たな傷をつけます。

植村はクニヒロが起こした事故の恨みを晴らしていると同時に、
それとは別で湊を傷つけているんですよね。

それってやってることとしては同じじゃないですか。
自分を傷つけたクニヒロと。

息子を亡くした傷と、今自分が浴びせた言葉により受けた湊の傷は大きさは違うかもしれないけれど同じなんですよね。

ここの描き方もまた、柔らかくて圧がないんです。


例えばこういうシーンでは第三者が「湊は犯人じゃない。湊を罵倒したって仕方がない。恨むべきは湊の父親だろ!?お前がやってることは湊の父親と同じだよ。湊の父親がお前を傷つけたのと同じように、お前は今言葉で湊を傷つけてるんだ!」って言い始めるドラマとかありそうじゃないですか?

でもこんなことを描いた瞬間、植村は悪者になっちゃうんですよね。

この作品でも、及川は植村に事故を起こしたのは湊ではないだろう、というようなことを言っていましたが、及川が責めるまでもなく植村はそれを分かってはいるんです。


でも、よりによって日永町でみんなから好かれている人気者のミナト先生がクニヒロの息子ということに対してどうしても気持ちを抑えられないから、
植村は湊に「ペテン師だ」と言い放ちます。
大嘘つきだと。
意図としては、「息子を死なせた加害者の息子のくせに良い人ぶって町の人気者になりやがって」です。
こう言って湊を傷付けたのです。

極論これって事故とは関係ないじゃないですか。
感情としては湊の父親に恨みがあって、その思いをどうしようもできないから目の前にいる息子に罵声を浴びせる、ってことじゃないですか。
コントロールできなくなって、湊を傷つけたくなるわけです。
自分だって事故で息子を亡くして傷ついたから。

ペテン師と言われた湊は言うんですよ。
「そうかもしれません」って。
少し笑いながら、「みんなに持ち上げられて気持ちよかったのかもしれません」って弱々しく認めちゃうんですよね。

さっきも言いましたが、湊は悪者のレッテルを貼られることに慣れすぎているんです。自分の人生を諦めすぎています。

ここで受ける印象としては
植村は「ペテン師だ!」と言って湊を傷付けたかったし怒らせたかった(ほらやっぱりお前はどうせあの父親の息子なのだと罵りたかった)のに、
植村の想像以上にすでに湊の傷は深く、
湊の人生への諦め具合は、植村のそれ以上にあったような印象です。

だからこそ、植村は自分が事故での苦しみや怒りとは別のところで湊に発言してしまっていることに気付いてしまっている気がします。それを言葉にはしませんが。
そういう空気感を見ている観客、少なくとも私は感じたんです。

こういう印象を与える脚本と演出、芝居ってやりたくてもできることではないような気がしているので
「ああ、この座組だからこう描けるんだろうなあ」と純粋に思いました。


逆も然り、で、
湊はなぜ俺が謝らなくちゃいけないのだと思っていました。湊は何もしていないのに。
むしろ自分に謝ってほしいとすら思ってるのに。


でも、植村に謝らなくてはいけないと気づきました。
もしかしたら、母親が言っていた通り自分が家族だったことで事故を起こさないように出来たかもしれない。完全に無関係とは言い切れないかもしれない。たられば言ったらキリがないけれども、注意することはできたかもしれない。
そういう意味においては、謝れるのかもしれません。

自分が謝らないことで、自分が人生を奪われてきたのと同じように植村の人生を奪ってしまっているのかもしれない、と。
植村が殻に閉じこもって生きてきた姿は、
自分が事故のせいで逃げ回るようにして生きてきた姿と多分同じだったから。
それまでの生活が変わってしまってから同じだけの時間を過ごしてきたということにおいて、湊は謝らなくてはならないと感じたのかもしれません。

傷付いたのは自分だけではなかったと気付けたのです。


でもそんなことは台詞では描いてはいないんですよね。
台詞としては、湊これまでのことを語る→植村罵る→湊認める、みたいな大きな構図の中で進んでいるから。


生きていくのに必死だった2人が、
目の前の人の傷に気付いた時、
それまで見ていた景色は変わります。


その過程が丁寧に描かれていたのがこの最後のシーンだったなあと感じました。

その芝居が最高でした。

心の傷が台詞なくして傷として見えるのってすごいなあ、って。
まあ芝居は台詞だけではないから、見ていたら伝わるというのは当たり前のことではあるけれども、何と言うかその伝わり方がすごく心地良いと言いますか。自分から遠くないと言いますか。

現実だなあ、っていう。
自分が住んでるこの世界の人だなあ、って。



湊は自分は空っぽで何もないと気付いていたけれども、父親を言い訳にして逃げて生きてきたと言います。

そんな湊に、及川は「大丈夫」と声をかけ、
1年間ミナト先生の近くでずっと見てきたことを伝えてくれます。

空っぽなんかじゃないんですよね。


それは日永町と同じなんです。

不便で何もないけれど、湊にとって欲しかったものが全てあったわけです。
それは日永町も同じで、湊が来てくれたおかげで生まれたものがたくさんあります。

それを及川をはじめ、町の人はみんな知っています。

ボイスレコーダーの演出、とってもよかったなあ。


わざわざ言葉にしたりすることはないんだけれども、確実に空っぽなんかじゃないんですよね。

植村もそれを分かっているから、
湊に「これからは自分のために生きろ」と声をかけます。

自分と関わりを持ってくれる、持とうとしてくれる人が存在しているだけで、
私たちは空っぽなんかじゃないんですよね。


素敵なクライマックスでした。





「ようこそ、ミナト先生」

観劇後に、このタイトルが持つ意味が変わるとのインタビューを読みました。

個人的にはクライマックスの頃には、タイトルが持つ意味は自分の中ではもう変わっていて、分かっていたような気がするので、

「ああ、この"ミナト先生"はありのままの本当の湊のことを指すのだな。空っぽなんかじゃないと気付けた湊のことを指すのだな。」と思っていました。




最後の台詞、「ようこそ!ミナト先生!」

そう言われた湊の表情、相葉くんの表現で終わるこの作品。

 湊自身が葛藤している父親が起こした事故に対して、
日永町での暮らしや出会いを通して自分の周りに目を向けられたり、自分は加害者の息子だという呪いを少し解くことが出来たりした、というところが大きな軸にあると思います。

呪いが解けたミナト先生の顔は、まだ少し苦しみが残りつつも、ほんの少しだけ昨日よりもありのままでいられているような、そんな顔でした。
昨日と変わらないかもしれないけど、今日の方が明日を見ている顔に見える、と言いますか。

そんな相葉雅紀の表情で終わる舞台。


「ああ、これは相葉雅紀じゃないと出来ないんだろうな」と思いました。


それを色々振り返って噛み砕いた結果、私が辿り着いたところは、
「日常には見落としているものがたくさんある」という随分上に書いたようなことと、
「気付くことで見えている世界が変わる」というようなところでした。


そしてそれを見落とすことは別に悪いことじゃないし、気付けないことの方が多いんですよね。

っていう。

日常生活は何となく過ぎ去っていくけれども、
自分の何となくは誰かの何となくとは訳が違うのです。

これは、最初の方に書いた「ただ、キッカケがたくさん描かれている」というところに結びついていきます。



クライマックスの話ばかりしてしまったのでこれまでに全く書けていませんが、

例えば、(思い出した順にただ羅列します)

・移住組と地元組の微妙な空気感の違い
・町長が町の人気者を恐れる
・カタツムリがいることに気付く
・「月が綺麗ですね」って言ってしまった
・分かりにくい説明をする彼と簡潔に言い直してくれる彼女
・専門の医者がいなくてもお産経験者は心強い
・強制と感じる任意参加の窮屈さ
・有名なのになかなか思い出せない曲名


っていうようなシーン(題材?)が、作中には出てきますが、
これって「必要?」って言われたら必要ではないんですよね、多分。

これらのシーンは別に引き立てられるようなシーンではなかったから。日常だから。
日常の些細なことは些細なこととして描き、"描かない"んですよね。描く必要がないから。日常として通り過ぎていく時間だから。

でも"描かない"ことでしか描けない、描きたかったことがここにはきっと描かれているんですよね。


個人的には、だんわかちゃんがその象徴です。
分かりにくい説明をする彼とその通訳係彼女、って例えばコメディやキャラものだとめちゃくちゃ映えそうだけど別にこの作品では映える必要なくて。

じゃあなんであんな設定なんだろう?って考えた時に
「それは私が意味を感じられてないからそう思うんだなあ」って。

あのコミュニケーションの仕方で本人たちが楽しければそれで良いし、分かりにくい暖くんの話でも極論その言葉で伝わればそれで良いし。

みんながみんな誰もが分かるような分かりやすい言葉でコミュニケーションしているわけではないのが普通ですよね。
私がここまでめちゃくちゃな日本語でしか書けていないのが何よりの証拠です。

あの描写や設定は決して無駄なことではなくて、日常なんて"そんなもん"の1つの表現なんだろうなあと思いました。

あえて描かれてるんですよね、そういう日常が。
でも別に特に"描いてない"からそれは物語上は通り過ぎていくわけです。

そこから何を感じる?って別に多分何も感じなくても良くて。

ただ、ただ、描かれているんですよね、
何かに気付くたくさんの"キッカケ"が。

こう感じてほしい、のキッカケではなくて。



そのキッカケたちの共通点は、
ただ、私たちは今日も生きている、っていう。
なんとなくそういう着地の仕方。
「みんな違ってみんな良い」じゃないけど。
なんかそういう感じ、、、
それだけでいいんですよね、多分。


笑ったり泣いたり悩んだり怒ったり、
そんな日常を柔らかくただ認めてくれるような
そんな作品でした。


この柔らかさは、ここでしか見られないんだろうなあ、と思いました。


入ったのは初日でしたが、大きなミスもなく、
とても良いものを観させていただきました。

個人的にはテクニカルな部分が好きなので、
暗転中の転換お疲れ様です、1回見えちゃったね、とか
屋根が上から降ってきたー!とか
紗幕演出いいなあ、とか
ほとんどセリフ噛まなくてすごいね、とか
(初日は忍成くん1回相葉くん1回の2回しか噛んでないのでは?相葉くんはどちらかと言うと感情入りすぎてしまったが故の印象)
そういうことも書きたいのですが、、、、

わざわざ最後に書くことでもないので(書いちゃってるけど)そろそろやめます。



まだまだ書けていないことがたくさんあるような気がしますが、とりあえずこれからパンフレットを読みます。(まだ読んでないのか)


あくまで私が観劇後に勝手に感じたことっていうことで。
ここに正解なんてなくていいと思っているので。
ただ書きたいだけ。




最後に。


由佳子先生に、
「あなたは誰なんですか?」と訊かれる湊ですが、
今の湊なら、もしかしたらこの質問に答えられるのかもしれませんね。




私?
私はしがないただの嵐ファンです。

今日もまた、ただ嵐に魅了され続けるだけのファンです。

今日も脳と語彙力がないです。

でも、胸張って。
私はとても楽しいからこれで良しとします。



長い。長すぎる。今日もまとめる気ゼロ。