金曜ナイトドラマ「和田家の男たち」、
撮影、放送お疲れ様でしたー!!
以下、感想です。
私たちが生きているこの世界は、
コロナ禍でいろいろなことが一変してしまったとしても、
変わらず止まらず動き続けるし、進み続けます。
和田家が住んでいるのも、
たぶん、間違いなくこの世界でした。
家族男3人で、会話をしたり、食卓を囲んだり。
ただ彼らの日常を少し覗いては、心のどこかでどこか安心する、そんな時間でした。
この世界は、
知らないことがたくさんあるし、
知らなくていいことがたくさんあるし、
知らない方がいいこともたくさんあると思います。
私たちは知らない間に、
様々な情報を様々な形で受け取っています。
追求するべきこと不正も、賞賛するべき祝いごとも、
時に誰かの思惑によって様々な形となり、
本来はそのもの自体には持たない"何か"を持ってしまうこともあります。
極論、あったのになかったとして形にすらなれないこともあると思います。
良くも悪くも、
この世界ではそれが普通であり、当たり前なのです。
題材が【マスコミ】であった理由は、
この世界のこういう部分を形にしたかったからなのかなあ、と思いました。
非難や問題定義、というようなものよりも
(もしかしたらそういう意図もあるのかもしれませんが)
1つのもの(情報)が、様々な形になりうる面白さ、をドラマという形にしたかったのかなあ、と。
そして、マスコミと掛け合わせたものが
今回は3世代(=家族)だったのかなあ、と。
まあどちらが先かはわかりませんが。
この世界は自分中心に回っているわけじゃないし、
誰か中心に回っているわけではないと思います。
(誰かを中心に回っていたとしても、私はその"誰か"ではないので気付けない)
でも、どうしたって自分は自分なのだから、
自分が生きている"この世界"は、
間違いなく自分の世界なわけです。
自分たちの世界は自分たちにしか分からないじゃないですか。
だって自分はここにしかいないから。
それは、単位を"家族"に変えても同じで、
家族の数だけ、家族の世界があるわけです。
そして、単位を家族に変えると、
"家族の世界"の中での要素を複数付け加えることができます。
例えば、
「好きな飲み物は?」と聞かれた時に
個人だと「リンゴジュース!」と答えたとします。
これを家族単位にすると、
子1「リンゴジュース!」
子2「オレンジジュース!」
となります。
ここに
父「えー絶対ジンジャーエールだよ」
なんて要素も付け加えたら、
ここから広がる話題の可能性なんて様々じゃないですか。
個人単位だと「リンゴジュース!」で完結するかもしれないのに。
1つの情報(好きな飲み物)が、広い世界を介さずとも複数の形になる。
でもその複数の形はこの広い世界から見たらちっぽけで偏ってるんですよね。家族だから。
別の家族は「好きな飲み物は?」に「お酒」と答えるかもしれません。
お酒を飲む習慣がない家族からすれば、
その答えが出ることはないわけです。
で、うまく言えているか分からないですけど、
この経験って誰しも必ず通ってきてるんですよね。
私の家はお酒を飲まない家だったので、家にはお酒なんてありませんでした。
子供の頃はそれが普通だと思っていました。
でも、友人の家にはお酒がたくさんあるんですよね。
たくさん缶が並んでいるらしいです。
私にとってそれは普通ではありません。
家族でいると気づかないけれど、
外の世界と交わった時に気づくことってありますよね。
うまくたとえ話が出来てなくて笑ってしまいますが、
こういう経験って絶対したことあるんですよ。誰もが。
このドラマは、
物語の軸としては"りえの死の真相"があったように思いますが、別に、メインで描きたかったことではないと思うんです。
誰だって家族が亡くなったら忘れられるわけなんてないのだから、
日常を生きていてそこに想いを馳せる時間は必然的に長くなると思います。
でも、24時間ずっと悲しんでいるかと聞かれたら、それはどうなんでしょうか。
最近見たテレビの話もするし、ニュースの話もする。
恋愛の話もするし、ご飯の話もする。
それが日常ですよね。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、苦しかったり、嬉しかったり、
感情はたくさんあるけど人によって起伏に差はあるし、それは家族によっても違います。
それに、他人の"事件" "出来事"って、
他人から見たら別にそんな大したことないですよね。
隣の家でテレビのチャンネル権争いが繰り広げられていて、その家にとっては重要な議題でも、
私にとっては大したことないんですよね、それは。
みたいな。
このドラマは、和田家の話なんですよね。
和田家の。タイトル通りの。
だから、りえの死っていう一見重そうなシーンも恋愛や仕事にまつわるシーンも
テンポ良く詰め込まれているんだと思います。
描いているのは、あくまで和田家だから。
和田家の男たちだから。
真相が知りたくて生きてきた、というよりは
もしかしたら知れるかもしれない機会が来たから動いてみた、みたいな。
日常がベースなんですよね。
あの家があくまで居場所なんですよね。
和田家の、男たちの、コロナ禍の日常を
覗いてしまった3か月。
和田家の、男たちの、人との新たな出会いのある日常を
見届けてしまった3か月。
そんなところでしょうか。
日常の中で私たちは変わったり変わらなかったりして生きているわけですよね。
では、自分の人生はどうしようか?
自分の日常はどんなもんか?
と目を向けた時、見えてくるものは人それぞれ違うわけだから
このドラマは"面白かったなあ"と思います。
描いている和田家の日常に答えがないから。
だってこれは彼らの日常でしかないから。
そこが一貫していた気がするから、とても見やすかったです。
個人的には、脚本の言葉と相葉くんの声が合っていたネットニュースの原稿パートが好きでした。
日常から生まれる何気ない言葉に
あたたかさや優しさが生まれる瞬間に立ち会えた気がして、
日常から大切なものをこぼさないように生きたいなあ、と思ったりしたようなしてないような。
言葉が心地よくて、素敵な言葉を浴びたなあ、という印象があります。
脚本主体で、演出や演者がそこに寄り添ったからなのかなあ、とか適当なことを考えておきます。
そんな日常でこぼしたくない大切なものの中に、
男たちならではの行動力や会話があったのがこのドラマだったように思います。
男たちならでは、の、で効いてくるのが
最終回の祖父と父の「妻に養ってもらおう」発言のような発言ですからね。笑
男だけだからこそ描けたものもたくさんあるのかなあと思います。(特に恋愛面)
他では見ないこの微妙な絶妙なバランスが、
このドラマでしか味わえない要素で楽しかったです。
あとは個人的には「こんな38歳いんのか?」とか思うところはありましたが
(しかもそれが相葉くんが演じるからこそ感じるものなのだとしたらもう少しやり方があったんじゃないか?とも思ったりもしましたが)
視点定めず、息子はずっと"こんなん"と思えば、家族という舞台において年齢なんてものは関係ないのかもしれません。
だって子供はずっと子供だから。
何の脈絡もなく(もちろん何の脈絡もないわけじゃないけれど)突然バーーって怒るって家族の前でしかしたことないなあ、とか何故か過去の自分を思い出しました。
それを芝居でやるのは難しいなと冷静に思ったりもしました。
「和田家の男たち」はそんなドラマでした。
フィクションとして楽しむ視聴者としての自分と、
自分の過ごす、この世界や自分の世界を
ふと振り返ったり見つめたりする自分とがいて、
その2人合わせて「面白かったな」と回収できるドラマでした。