2017113日公開

「ラストレシピ~麒麟の舌の記憶~」



(ツイートをまとめつつ、でうまくまとめられなかったのでいつにも増して支離滅裂です。)






お料理と人とがつなぐ、ひとつの物語。

あちらこちらをうねうねうねり、

たどり着いた先に、「美味しい」があった。


謎を解き明かす、みたいなミステリーっぽい要素がある中で、その謎ではなく、時間場所を超えた人と人との繋がりという部分に重きを置いて映画を作るとこうなるんだ、と思った。


タイトルの「記憶」というワードは、本編を見てしっくりくる言葉だなあ、と。

麒麟の舌の記憶。記憶だった。


歴史に名を刻んだ人の話ではない、誰かの記憶にしかない話。

千鶴さんを思う直太朗、直太朗の料理、レシピに込めた思い。

その話は、現代を生きる佐々木充に大きな影響を与える。

それまでの人生が、ほんの少しだけ人肌くらいなものになる。

そしてきっと、そのあとの人生も人肌のぬくもりを感じられるものになるであろう。



「できた料理は、君そのもの それを食すは君想ふ人」









展開させるというか、盛り上げていくというか、

どうなるんだ、と思わせるのに

大きな大げさな掴みなんて必要なくて、

大きくも自然な引っかかりとそれを受け止めて引き継いでくれる表情があればあそこまでやってもそんなに気にならないんだなあ。


自分が演じる「佐々木充」が、周りにどう振り回されていくか、みたいなものをきちんと客観視出来ているから、出来るから、っていう理由もあって、他の人の部分の台本も読んだんだろうなあ。


ああいう自然なお芝居って、作り込まないと出来ないのだと思うとすごく深いんだと思う。



多少の宣伝で佐々木充という人物像はなんとなく伝わってきてしまっているから、

笑わないし比較的自分中心の、人として大切な何かが欠けた人物っていうのは分かってはいたけれど、映画本編で佐々木充はこういう人ですっていう時間はなかったなあ。


佇まいで性格を伝える役者、、、


言葉じゃなくて、表情で複雑な思いが伝わってくるのは痺れてたまらないなあ。



山形直太朗が自分の祖父だというシーンの数十秒の間に魅せた二宮くんの表情が鳥肌モノ。

2回目の方がその数十秒に魅了されるような気が。

少なくとも私はそうだった。



そして本編最後の「美味い」という二宮和也の顔。

本当にみんなに見て欲しい、あの顔。

何度でも言う、あれが二宮和也だよって。


表情で語ることほど胸がいっぱいになることはない。

この映画は、お腹も胸もいっぱいになる。

ただ、美味しそうな料理を見過ぎて、お腹が空くの。

心がいっぱいなまま食事にありつけた時の幸せといえばもうそれはそれは。


息を吸って、吐いて、って映画全体で大きく身体を動かして呼吸しているのが「ラストレシピ」。



現代過去の撮影の順番で、佐々木と山形を重ね合わせる時に、西島さんが二宮くんの映像を見たのかなんなのか、途中の山形が二宮くんのそれでしかなかった。

さすがに心の中で笑った。

正解なのか分からないし、もしかしたら西島さんの癖でもあるのかもしれないけど、西島さん見て、あっ二宮くんって。

祖父と孫だった。時をつないでいた。超えていた。




音楽はあまり足し算足し算しすぎると気になって仕方なくなるけれど、ラストレシピの足し算はきちんと足されていた感じがする。

なんというか、うん。

存在感がある、邪魔にはならない、この感じ。



「偽り?」

で音楽がカットアウトするところは掴まれる。

ナチュラルに次の章に行く感じ。

ナチュラルだけれど存在感がすごい。だからナチュラルではないんだと思う。うん。ナチュラルではない。


次の章始まります!!っていうのは分かりやすすぎて苦手だけれど、きちんと受け止めてくれるから、ナチュラルなの。うん。なんて言えばいいんだろうね。




視線、とか、動き、とか、返事、とか

風景でもいいし、何でもいいんだけど、

というか何でも"それ"になりうるんだけど。

"当たり前"とか"そこにあるもの"に特別な意味を吹き込む瞬間が好き。


エンドロールも。

描いていないことが描かれるあの瞬間が好き。








予告編で、滝田監督と吉永さんが作品をやることを知った。

「母と暮せば」から、きちんと繋がっているのだなあと。

滝田監督を通じて痛感するこの不思議な感覚。なんだか嬉しい。繋がっている。