君たちはどう生きるのか、昨日、見てきた。
あくまで俺的解釈として残しときます。
そんな楽しみ方もあるんだな、、程度に。
ネタバレになることもあるけど、自分での受け取りを考えるべきと思うし、絶対に映画見に行ってから!
読む。で、お願いします!
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ってことでここからスタート笑
映画は、見た人に問題提起や疑問を投げかけてる難しい部分と、シンプルなわかりやすい部分がおりまぜた構成になっている。
シンプルな部分は、親の再婚により、子供側が受けるデリケートな心情と、再婚相手側が感じる遠慮や、気まずさ、後に互いを認め合う様が描かれ、登場人物の優しさ、場面場面でのセリフが共感性を高める。
むずかしく考えずにじーんと感動する。
もちろん、泣いた。笑
一方、難しい部分については、ほんとにあらゆる受け取り方があって、もし、これが全く無名の誰かの処女作な場合、とんとヒントがなくて、ここでの解釈の書き方もとりとめなくなる。
けど、これが今の宮崎駿としての、今の環境での、集大成ということをもとに考えるなら。
きっとこうなんだろう、と思った形が以下。
まず、作中で何が何を表してるのかについて。
ざっと思うところを書くと、
塔の主である大おじ様は今の宮崎駿本人であって。
あの大おじ様の作った楽園の世界は、『素晴らしいアニメ映画』自体か、『それを見ることで人の心に作られる感動の世界』のどっちかを指してるんだと思った。
ある日、世界のあらゆる場所に同時に強烈な勢いで『塔』が降りてきた瞬間は、これは『アニメ映画』というものが世界に生まれた瞬間を表しているのだと思う。
塔は『映画』という概念自体を表していて、だからこそ、いろんな時代や世界に通じている。
その先に、大おじ様が作る1つの楽園(アニメ映画)の世界がある、、ということだと思う。
その楽園を作るための白い『悪意の無い石』とは、純粋におもしろくて素敵なアニメ映画を作ろうとする面の人の『意思』を表していて。
見た目は同じように白いけど、『悪意のある石』とは、そのアニメ映画を通じて『利権』や『収益』にこだわる面の人の『意思』を指してると思った。
悪意の無い意思(石)は、世界を飛び回っても、もう今はほんとに少なくなってしまって。
そして、それをようやく探して見つけて、その悪意の無い意思(石)を集めたとしても、それを使う(組み立てる)側の人側に悪意が入ってくると、楽園(純粋におもしろく素敵なアニメ映画)を作ることができない。
それが、大おじ様と、インコ隊長と、真人と、ヒミがいるシーンで、隊長のつんだ積み木が崩れて楽園が壊れるシーンとして、表現してるんだと思う。
今はきっと、ただ『素敵なアニメ映画を作りたい』という夢や意思、希望、絵を描く技術、だけがあっても、それを作ることができない時代になったんだろう。
表現の規制もあり、利権、タイアップ、動員数などの商業的な目標、等がなければ、作り出すことすらできない。そんな実情も訴えたいのかもしれない。
ただ純粋に美しく楽しく面白い 。
そんなアニメ映画を作りたい。
そんな楽園のような世界を作りたい。
その視点からだけ純粋に言えば、今の映画を取りまく実情は、時に弊害(悪役)に捉えられてしまう。
それが時折、インコやインコ隊長が悪役的に表現されている意味だろうけど。
ただ大事なのは、作中でインコ隊長と大おじ様は、けして、敵としては描かれてない。
インコ達も、世界を支えるために働いており、大おじ様の純粋な敵ではない。
また現実世界に戻れば、インコも、隊長も、1羽1羽が可愛らしい生き物として、生きている事が、描かれている。
インコ隊長が、宮崎駿にとっての誰なのか?は、わからない。共同経営者なのか、技術的な弟子的な後継者なのか、実の息子なのか、はたまた現実にはいないイマジナリーなのか。それはわからないけど。
ただ、作中では、インコ隊長は、長く大おじ様を敬う理解者でもある。
だけど多くの他のインコ(=アニメ映画を作るために支えるために尽力している多くのスタッフ)を守り養う義務があるから。
死ぬかもしれないけど、大おじ様に世界の作り方について、意見しなくてはいけない。
これはインコ隊長側も、ある立場の見方では、きっと正義な事を指してる。
家族があり、社会があり、難しい しがらみがある現実世界とうまくバランスを取ることは。
楽園を作ろうとする事自体と、同じくらい大事で。
楽園を作る人には、その人達の現実の生活がある。
だからこそ現実の世界を否定したり、逃げてはいけない。
最後の真人の選択は、自分にも悪意(傷)があることを認め、ナツコと生きてく(現実を生きてく)事の大事さも表してるんだろう。
作中、大おじ様は過去に、自分の楽園の世界を守り続けるために 、現実世界から逃げ出してしまった。
宮崎駿はひょっとすると、アニメ映画を、作ることに一生懸命なあまり、現実をおろそかにしてしまった時があったのかもしれない。(なかったかもしれない笑)その様を、表してるのかもしれない。
夢の世界を作るためには現実も利益や邪念も何もかも捨てて、そこまでしないと、本当にすばらしい楽園(=本当にすばらしいアニメ映画)を作り出すことができない。
それが、大おじ様の、世界を作る側としての、今の宮崎駿の考え、結論かもしれないけど。
もう一つの答えを選ぶ、子孫として描かれる真人も、またもう一人の、宮崎駿本人を表してるとも思える。
作中では楽園を作ることに興味を、示しながらも、自分にもわずかに悪意(頭の傷の由来)があることを認め、現実世界に変える選択をする。
これは、宮崎駿本人が今と違う選択をした場合の世界線を表すのかもしれないし。
もしくは、今の時代だったら、真人と同じ選択をするべきかもしれない。という意味なのかもしれない。
誰にでも、真人にも、キリコさんにも、少しの悪意はある。
誰もがみんな、悪意のある意思を焼き払える力を持つような強い人(=ヒミ)にはなれない。
大おじ様も、世界を作る大きな役目であっても。
ヒミのような強さは無い。
だから、違う人として描かれている。
それはヒミの、ような強さや純粋さや、決定力に対する憧れもあるのかもしれない。
大おじ様と、真人と、どちらの立場も理解できる。
今は大きく成功した宮崎駿本人にすら、きっと正解がわからない。
どれが正解とも思ってないからこそ、疑問を投げかける映画になっているのだと思う。
ただ俺は今までのすばらしいジブリの映画は本当に好きだから、大おじ様(=宮崎駿監督)がいてくれて本当に良かったと思うし。
きっとそう思えるかどうか?が、個人それぞれの答えなんじゃないかな。。
というのが感想のしめくくりです。
この映画自体も、本当は難しい疑問をなげかける部分だけをもっと深堀りして作ったっていいかもしれない。
でも、それだときっと、映画化自体がされない。
されたとしても、多くの人の目に触れない。
シンプルに受け取れて、すっと入って感動する部分と、ジブリとしての画力、構成がちゃんとあるからこの作品はちゃんと、映画として成り立ってる。
やっぱりそこはプロだな、って思いました。
結果、俺にはとてもいい映画でした。
あと、『地球儀』の歌詞には、また俺としての受け取り方があったけど。
前も書いたけど、米津さんの曲の解釈は、ずーっと後で書く。と決めてるのであしからず。
以上、しゅうーりょー。