移植前処置が終わって、いざ無菌室へ。
この時の私は免疫ほぼ無し状態。
無菌室に入る直前にお風呂へいき、全身赤チン(マーキュロクロム液)で洗われるという経験。
え?赤チンってそんな使い方あり?と思いました(笑)
ちなみに、赤チンって若い子知ってるのかな?
赤チンの正式名調べたら、なんと来年で製造中止になるってニュースを見かけました。
マキロンに需要をとられたみたいで┅
残念ですねぇ。

無菌室は概ね快適でした。
テレビも、CDプレイヤーもあったし。
面会も、直接はできなかったけどテレビ電話があって家族とも話せていました。
トイレが部屋の中にあるのがどうなのかなと思ってましたが、臭いとかも気になることもなく過ごせました。

無菌室ではいろんなことが起きましたね。

まず衝撃的だったのが、アメリカのワールドトレードセンターの映像。
今はグランドゼロですよね。
私はちょうど無菌室にいてテレビを見てました。
すると、急に映像が変わってビルに何かがぶつかる映像になり、音がしなかったので放送事故?無声映画?と思ったのを覚えています。
まさか現実のものだとは思いもしなかったから。
あれからもう20年近くたつのだから早いものです。

次は、鼻血。
私、なぜか中学生のころよく鼻血を出してて、耳鼻科で一回診てもらったら、君は鼻の血管が人の3倍太いから傷がつきやすいし傷つくと大出血なんだと言われました。
レーザーでやいたら鼻血とはおさらばですよ~って勧められたのですが、焼くって何!?恐くない!?とビビりましてそのままに。
それを後悔する日がきたのです。
そう、無菌室で鼻血を出しました。
はい、ここで質問。
無菌室にいる私は血球がほぼない状態です。
どうなるでしょうか。
はい、答えは簡単。止まりません!!!
滝のようにボタボタ血が止まらないない洗面台から離れられない私に耳鼻科の先生が必死に止血薬を鼻の中に噴射。
まるで鼻うがいしてるみたいな。
一時間ぐらいやってようやく血がおさまってきたら、これでもかってぐらい止血のために綿を鼻に詰められて一週間ぐらい過ごしました。
綿を出したとき、すんごい量の丸い綿が出てきて、人間の鼻の中って結構物詰められんだって思いました(笑)

続いて、メロンの話。
無菌室では家族にもってきてもらいたいものを伝えると、親→看護師→消毒→私で持ってきてもらえます。
ある日私はスイカが大好きだったため食べたいと言ったところ、果物は皮が厚いものを丸々一つの差し入れならOKですと言われました。
看護師さんが切ってくれるそうで。
私は考えました。
え?スイカ丸々一個?量やばくね?
あ、小玉にすればいーのか、、、でも小玉っておいしくないんだよね。
そこで私はスイカを諦めてメロンにしたのです。
メロンの一人食いとかちょっと贅沢じゃない?とやってみたかったのもあって親にお願いしました。
するとすぐに親は差し入れをしてくれ、看護師さんがメロンを切って持ってきてくれたのです。
その量、大きいタッパーに山盛り。
テンション上がりました!
ひゃっほーと勢いよくパクパク食べて幸せだった~
半分ぐらいまでは。
半分をこえると、なんだろう、まだまだあるや┅みたいな感じに。
最後のほうは、もう、瓜の味。
おえっ、ちょ、当分メロンは食べなくていいや┅ってなったってゆー話。
看護師さんに、全部食べたの!?って驚かれました。

そんなハプニングやらなんやらあったりしながらも移植の日を待ち、ついにその日が!
先生が無菌室へ入ってきて、見た目は赤血球の輸血と変わらないドナーさんのありがたき命のプレゼントを持ってきてくださり、カテーテルに繋がれました。
一日時間はかかりましたがゆっくり私の中へ。
それからは無事生着してくれるか静かに待つのみ。
数日は穏やかな日を過ごしました。
┅が!あいつは突然やってきたのです!!
こ・う・な・い・え・ん!!口内炎!
ポチっとできるあれですか?
いや!否!違います!!
ポチ、じゃないんです!口内全体が爛れるんです!!
見た目はアンパンマンみたいに頬が腫れ上がり、痛すぎて食事もできない、飲み物も水か牛乳しか飲めず極力飲みたくない、喋れないで散々でした。
ただただひたすら痛みに耐える沈黙の日々を二週間。
あれも結構つらかったなぁ┅。
そんな沈黙からあけた日!
嬉しくてお昼ご飯に出たミートソーススパゲッティをばくばく食べて一息ついてたら、一時間後ぐらいに急に吐き気に襲われ嘔吐。
私、あんなに消化されずに原型のまま戻ってきた嘔吐物見たの初めてでちょっと感動しました(笑)
そう、私はバカでしたー。
二週間も絶食してたのに急にスパゲッティ食べるなんて┅。
まずはお粥とかからだろ。
でもねー、飛び付いちゃうぐらい嬉しかったのです。
そして、病院側も考えてご飯出してくれって話ですよ。

それから口内炎以外の拒絶反応の症状もなく、無事に生着してくれて、無菌室から一般病棟に戻ることになりました。

一般病棟に戻って体調が安定したところで長い闘病生活も終わり、退院することができました。
退院前にカテーテルを抜きましたが、まだ傷痕が残ってます。
頑張った勲章ですね。
私の病気は白血病などの癌ではありませんが、移植前処置として抗がん剤と放射線をおこなわければいけませんでした。

抗がん剤治療を始めるにあたって、まずは鎖骨下静脈へのCVC(中心静脈カテーテル挿入)をしました。
麻酔での処置だったので、寝て覚めたらカテーテルが入っていたので痛くはなかったのですが、起きてから一日は止血がぎゅーっとされてて痛かったのを覚えてます。
このカテーテルとは治療が終わるまで半年間以上の付き合いだったので相棒のようでした。
外泊のときは自分でヘパロックもしてましたし。
今はヘパリン剤を作らなくても良いんですって。ラクですねぇ。
でも私意外とヘパリン剤作るのもロックも好きだったなぁ。

抗がん剤治療での副作用について。
まず、よく知られてるのは悪心や嘔吐。
ドラマとかでもよく見かけます。
これについては私は薬が体に合っていたのか一切ありませんでした。ラッキーです。
抗がん剤治療を始めた次の日の朝、主治医が様子をみにきてくれたら、私が朝ごはんをもりもり食べていたので、気持ち悪くない?大丈夫?と心配してくれていましたが、全然!と答えたら、よかったわ~と言ってました。本当によかった。
おかげで抗がん剤に対してトラウマはありません。

二つ目は髪の毛が抜けること。
これについては、女の子だから嫌だったでしょ?と思われるかもしれませんが、私はそれほど悲しくはありませんでした。
もちろん全然!ってことはありませんでしたが。
終わったら生えてくるし、と結構楽天的に考えてました。
でも、抜け毛が長いと大変だから髪切れば?と親に言われたのですが、小児科に髪が抜けなかった女の子がいて、もしかしたら私も抜けないかもしれないじゃん!と足掻いてみたら見事にごっそり抜けました(笑)

抗がん剤をいれる→血球の数値が下がる→病室がクリーンルームになる→数値が上がるのを待つ(目安は白血球1000以上)

この抗がん剤ルーチンをしながら時々ルンバール(腰椎穿刺)もしてましたが、ルンバールは苦手でした。
必ずと言っていいほど、ルンバール後はぐったりして嘔吐してたので。

あとはマルク(骨髄穿刺)も定期的にやっていました。
マルクはそれはもう激痛を伴う検査なので、毎回私の中では一大イベントなのです。
マルクには穿刺吸引法と針生検法があって、どっちも痛いは痛いんですけど特に生検のほうがね┅
太い針でゴリゴリゴリゴリされるから痛いのなんのって。
マルクでの一番の思い出は研修医の先生の練習台になったこと。
頼まれてしまったんですねぇ。
不安だったけど断れなかった┅
検査当日、いっぱい先生がいて緊張している私に教授が、僕たちが横にいるから大丈夫だよって言ってくれましたが、「もうちょっと奥に」とか指導されてる内容聞こえるのも恐かったしやっぱり痛くて震えた(苦笑)
泣いたり叫んだりしたらやりずらいだろうなと思ってタオルを口に咥えて耐えていたら、人生で初めて尋常じゃないぐらい脂汗をかいた。
看護師さんに、「凄い脂汗!大丈夫!?」と言われて気づきました。
そんな頑張りも虚しく結局うまくいかず、もう一度やらせてもらえないかと言われたときの絶望感。
「大丈夫!次は僕がやるからね!すぐ終わらせるよ!」って言われても、やったー!なんてなるわけもなく、ぐったりでした。でも確かに早かった。
マルクはもう二度とやりたくねぇー!!

抗がん剤治療が終わると、次はTBI(全身放射線照射)に入りました。
この治療に入る前に先生から、将来妊娠が難しくなることを説明されました。
その時の私は、これまたショックということはあまりなかったような気がします。
だって、子どものこととか将来のことなんか今わからないし、生きるためにTBIやるしかないって選択肢しかないならここで悩んでも無駄じゃない?って。
今はお金はかかるかもしれないですけど卵子の凍結もできるから良いですよね。
私と同じような状況の子が卵子凍結して年頃になって子どもを産んだのをテレビで見ました。
選択肢があるっていうのは大事だと思う。
TBIは三日間だったと思います。
棺のような箱に仰向けにいれられ、何か砂袋を詰められ、肺と子宮かな?に保護のため鉛を置かれ蓋もしめて約一時間程度じっとしています。
あれ、閉所恐怖症の人には無理だよなぁ。小さい子どもとかもどうしてるんだろう。
私は寝てました。
このTBI、骨髄移植の前治療としては私の中では一番きつかった┅
病室帰ったら、ピクリともできないぐらい体がしんどくて、治療が終わって無菌室へ行く前までずっとぐったりしてました。
骨髄異形成症候群と診断されましたが、その後普通に高校へ入学し通っていました。
持久走だけ見学していましたが、体育も普通に参加していました。

そんな高校生活を送っていたある日、体調不良で学校で倒れてしまい病院へいきました。

検査の結果、それほど悪くはないけれど症状としてつらいのであれば治療を始めたほうがいいということで高校二年生に進学する前に休学して治療入院をすることに。

私の病気は、白血病ではないのでガンではありませんが、治療法としてはほぼ同じだと思います。
根本治療は骨髄移植です。

まずは家族間で血液のHLAの型が合っているか調べました。
合う可能性が高いのは1/4の確率で合うといわれている兄弟です。
私には兄と姉がいます。
しかし、残念ながら型は合いませんでした。
ショックだったか?
いえ、全くショックは受けませんでした。
兄と姉はB型、私はAB型。
血液型からそもそも合ってない。
骨髄移植に血液型の一致は関係ないのですが、私はうっすらと、でもなんとなく勘のようなもので二人とは合わないような気がしてました。

家族間で一致しなかったので、次は骨髄バンクの登録者から探していただくことに。

この待っている間も、見つからなかったらどうしようと不安な気持ちは感じていなかった気がします。
死ということがよくわかってなかったからなのか、死ぬ気が全くせず、大丈夫だろうって気持ちでした。

それからすぐに、ありがたいことに私と型が合う四人のドナーが見つかり、治療が始められることに。

しかし、喜んだのもつかの間、最初のドナーには断られてしまいました。
複数名のドナーがいた場合、より型が合うなど条件が良い方から順に連絡がいくそうで、最初のドナーは19歳のAB型女性でした。
歳も近く、同じ血液型で性別、とても良い条件の方だったんだと思います。
しかし、未成年だったこともありご両親の承諾を受けられず断られてしまいました。
それを聞いた時、そっか┅しょうがないねと少しへこみましたが、先生が、まだ次があるから大丈夫だよと言ってくれたのですぐに浮上できました。

でも、もしこの人一人だけだったら?
そう思うと今考えてもゾッとします。
見つかりましたよと希望を持たされて、結局ダメでしたって一番酷じゃないですか?
この女性がどういった経緯で登録をしたのかわかりませんし、その若さで登録をしてくれたことは素晴らしいと思います。
でも、登録をするってことがどういうことか、きちんと家族と話し合って理解しあっていて欲しかった。
移植は自分だけの意思でするものではないから。

最初のドナーに断られて、二人目のドナーから承諾をもらったと連絡を受けたのはわりとすぐだったと思います。
30代のO型男性です。
ホッとして感謝しました。
私以上に親や周りの人たちがホッとしただろうなぁ。

そしてこれから私の骨髄移植への闘いが始まりました。