放射線治療は土日と祭日を除き毎日あるがカテーテルの治療は先週木曜に終了した。

今迄で一番楽だった。

抗がん剤の投与は大体の病院では点滴で行うらしい。

だから吐気やむかつきという副作用もよくあると聞く。

だが当病院では股の動脈にカテーテルをさしこみ治療対象物まで近づけ、直接薬を投与する。

お陰で、個人差があるのかも知れないがぼくはこの治療後に体調の変化を訴えたことはない。

明日はMRIの撮影、病気が進行しているかあるいは少しでも良い方向に向かっているか、ドキドキハラハラの日だ。

MRIで撮影の結果、脳に腫瘍があることが判明。

現在の医学なら取り除くこともそう困難ではないだろう、と思ったが、検査の結果、

位置もタイプも悪く、手術不可能と診断された。


だが、この事実は本人にはこの段階では告げられいなかった。

本人は非常に精神的に弱く、堪えられないだろう、と家内が判断したんだろうと思う。

だが主治医や家内の話しや 言葉の節節からじょじょに自分の病気の重さを悟るようになった。

幼少期から病気がちで元気な期間もあったが、少なかった。

あげくの果てにこんな恐ろしい病気になるとは!


ろうじんホームを訪問しギターの引き語りでボランてぃあ活動を倒れるまで約10年続けた。

入所者のかたには凄く喜んでもらった。

土日は長居公園で年輩のかた向けに野外ライブも毎週やっていた。

仕事もまあまあで社会に貢献できたらこんな幸な人生はないと思っていた。


世のなか神も仏もないのか!

思えば、8月1日のこと。

福岡にある某大手電機会社の社員研修に午後1時から英会話を指導することになっていた。

朝起きて顔を洗った時体半分が痺れていた。

それでも仕事をキャンセルして医者に行こうと言う考えは浮かばなかった。

そのうち良くなると思って安孫子より関空に向かった。

関空の手前で左手の動きが極端に悪化していることに気づいた。

携帯が握れない、ボタンを押すなど全くできなくなっていた。

これは病院に行かないと大変なことになると思い関空で電車を乗り換えようと思い立ち上がったが、

時既に遅し、その場で倒れ、全く自力では立ち上ががれず、駅員が即救急車を呼んでくれて、

近所の大きな病院に運ばれた。

救急車のなかで依頼会社に連絡しその旨を伝えた。


この時点ではこんな恐ろしい病気にかかっていると夢にも思っていなかったのである。

明日はカテーテルによる抗がん剤の投与。

検査も含めて4回目だがやはり恐怖は拭いされない。

管を抜いたあと、横にもなれず。

あお向けの状態で4時間安静状態を保たなければならない。

普段感じない腰痛が辛抱できないくらい痛む。

週一の行事。


健康な時は注射の2本や3本全く気にならなかったが今は注射の1本でも痛い。


今週はニドラン投与と像映MRIのため注射数本は覚悟しなければならない。

体中かま穴だらけになるようなきがする時がある。

今日はすでにリハビリも放射線も終了。

あとはたのしい?晩御飯を待つのみ。


今夜は野球があるから退屈せずにすむ。

疲れたせいだろう。病院ではしっかり眠った。

朝のリハビリを終え、夕方の放射線治療を待つのみ。

先週の金曜に腫瘍から水を抜いてもらって体調はいいし、微熱もない。

15ccも溜っていたんだから脳の神経を圧迫していたのは当然のことだろう。

一泊だけの外泊が許されていて、自宅にて最愛の妻の手料理を食べて、しばし病気のことは忘れて、くつろいでいる。
来週木曜日は3回目のカテーテルによるニドラン投与治療。辛いけど頑張るぞ。

2005年7月31日。確か倒れる前日は、日曜日のレッスンを教えた後、いつものようにギターを持って公園へ。夕方は娘と私と私の母と4人で近くのすし屋で夕食を食べた。いつものようにテレビを見たりギターを弾いたりして、いつもの時間に寝た。いつものように朝御飯を食べ出かけたのに・・・9時半ごろ携帯に電話があり「電車の中で倒れたから救急車を待って病院に行く。」と連絡があった。それからは、『いつものように・・・』がなくなり、腫瘍に振り回される一年となりました。


10時過ぎ、市立泉佐野病院より電話があり、MRI,CIの検査をしたから、病院に来るように言われた。脳梗塞かな?もしそんな事になったらどうしよう?と思いながら病院に急いだ。結果は、脳腫瘍。血圧が正常なので脳梗塞や脳卒中は考えにくくMRI,CTには右の脳に白く腫瘍がうつっている。脳梗塞なら手術をして、リハビリでかなり回復するが、腫瘍はだんだん大きくなる。最悪の事態だ。本人にどのように伝えたらいいのか迷った。以後の手術や治療のことを考えると、本人に知らせない訳にいかない。一緒に医者の説明を聞いた。これからどうしていいのか全然見当もつかなかったが、本人を余り動揺させないために、出来るだけ平静を装っていた。病院のほうは手術を考えて、カテーテルの検査や他いろいろの予定を立てて下さった。何日か掛けて本人とも良く話し合い、病院が家から遠いこともあり、近くでいい病院を探し、セカンド・オピニオンを問い合わせに行き、成人病センターに転院することに決めました。入院先の医者に気兼ねすることなく、セカンド・オピニオンを訊きにいけることはいいと思いました。ちょっと昔なら難しかったことでしょう。


成人病センターでの診立ても同じで、カテーテルで造影剤を入れてのMRIや生検手術の結果、腫瘍は神経膠腫(Glioma)の一種で、退形成性星細胞腫(Anaplastic Astrocytoma)悪性度IIIと判明。手術をしても余命は1年半か2年半で主人の腫瘍は脳の奥深く、手術には麻痺を覚悟で臨まなければならないとの見解。主人はいろいろ考え悩んだ末、「手術はしたくない。」と言う結論。化学療法と放射線治療で腫瘍を抑えることになった。「まだまだ生きて、したい事がたくさんある。死にたくない。」と言う主人がとてもかわいそうだった。脳外科の病棟には重病の方も多く、自分の先行きを見るようで辛かったと思う。チューブに繋がれている患者を診て、自分が分からなくなっても、「無駄な延命はして欲しくない。」と言っていました。「もう悪いニュースは聞きたくない。」と言うことで、以後は先生の話は私が聞いて、主人が知りたいこと、知っておいて欲しいことだけ話すことにしました。医者の話が余りに残酷すぎて、言い合いになり主治医を怒らせてしまったことがありました。そのとき主治医が、脳神経外科医岩田先生の書かれた『医者が末期がん患者になってわかったこと』と言う本を読むように私に勧めて下さった。その本を読み、どんな医者でも治せない病気であることを悟らされました。それでもまだ、東京に住む息子に頼んで、その医者を診た慶応義塾大学病院の川瀬先生に訊き合わせをしたり、マスコミで騒がれていた『神の手』を持つ、といわれる福島先生にも問い合わせてもらった。どの先生もおっしゃる事は同じで、やっと悪性脳腫瘍と言うものが理解でき、主治医も信頼できる先生になりました。主人に、「お前は医者みたいに喋るようになった。」と、言われていました。


退院後、家での生活は、症状は期待していたほど好くならないし、何をするのも私や家族の手を借りないといけないのでかなり辛かったと思う。。家族が留守の間、一人で泣いたり自殺を考えたこともあったようです。私は考えても先が見えないのでただ目の前のことだけ一生懸命こなしていました。8月に倒れた時、仕事をどうするか、と言う話をした。看病と仕事の両方は自信がなかったが、「出来る範囲で続けて欲しい。」という主人の希望で、何とか頑張ってこられた。生徒さんや講師の方々には迷惑を掛けたと思います。


本当にいろんな人たちに助けられ支えられて一年が過ぎたと思います。病院の先生方、看護師の方々、リハビリの先生方をはじめ病院の送迎を喜んでしてくれた友人。私が病院に行けない時に主人に付き添ってくれたり、陰になり励ましてくれた友達。生徒さんにも介護をしてもらいました。名前も知らない人にもブログの書き込みでいっぱい元気を貰いました。ライブやパーティを盛り上げてくださった人達。親戚の助けもありました。どれだけお礼を言っても言い足りないくらいです。ありがとうございました。子供達も本当によく協力してくれました。夜遅く家に帰ったら本当に一人じゃなくて家族がいて良かったなと思いました。


最後の2ヶ月間お世話になったホスピスの皆様、主人がそのホスピスで息を引き取ることになって、本当に良かったと思います。主人だけでなく、看病する私や家族も癒されました。本当に天使のような看護師の方々に心からお礼を言いたいです。


音楽が大好きだった主人は、8月に倒れる前まで、ボランティアで音楽療法士として老人ホームの慰問をしていました。喋れなくなっても最後の最後まで歌だけは聴いていました。亡くなる2週間ほど前のことです。もう眠っていることが多くなってきていたんです。ミニライブがあると言うことで、看護師にベッドのままホールへ運んでもらいました。その日は主人と同年代の音楽療法士の方が、主人がしていたのと同じようにギターを弾きながら、丁度主人がよく歌ってた歌を歌い始めました。私は涙が止まらなくなってしまいました。眠っていたはずの主人も、しっかり目を開けて終わりまで聴いていました。主人のその時の容態からすると、信じられないことなんです。自分が一番楽しんでやっていた事なので、そのときも自分が歌っているような気分になっていたのでしょうか?。そんな事もあり、葬儀は音楽葬にさせていただきました。音楽を何よりも愛していた主人にふさわしい『お別れ』だったと思います。葬儀をお世話頂いた方々にも感謝いたします。雲の上に行ったのか、風になったのか分かりませんが、きっとどこかで私達を見てくれていると思います。


2006年8月16日 日下 節子