1月14日~1月15日の2日間、
パシフィコ横浜の会議センターにて
『脱原発世界会議 2012 YOKOHAMA』 が、開催されました。
15日の小ホールでのセッションに、私自身も登壇しました。
開会式で拝聴した
『佐藤栄佐久前福島県知事の講演』と
『被ばく医師として有名な肥田舜太郎先生の講演』には、
考えさせられ、心を動かされました。
とくに、肥田舜太郎先生のお話は、
この人が生き残っていて、
今もなお健康で御存命なことは
今を生きる私たちへの贈り物なんだなぁ・・・と、
ありがたく伺いました。
本当に素敵でしたので、シェアさせていただきいます!!
がんばって、文字おこししました!!!
1945年に、
わたくしは軍医として広島陸軍病院に勤務し、
原爆の日は、たまたま午前2時に6キロ先の戸坂村(へさかむら)に往診して、
原爆による即死を免れました。
そのかわり、
逃げてきた多数の被ばく者の救急医療を行う事になりました。
市内で即死を免れた者も、
ヤケドやケガに加えて、
まぶた、鼻、口、肛門、陰部からも出血し、
頭の毛が全部抜け落ちるという急性放射能症で死んでいきました。
当日広島におらず、原爆には遭わなかったれども、
爆発後数日以内に市内に入り、救援活動や肉親捜しをした者が、
俗に言われた『ぶらぶら病』というものを発症し、
数十年間、「あなたには病気はない」とか、「ノイローゼだ」とか、
ひどい場合には「仮病」と言われて悩みぬきました。
1975年に、ニューヨークで、
わたくしは、放射線被害の研究で有名な
ピッツバーグ大学のアーネスト・スタングラス教授に会い、
『入市被ばくのぶらぶら病は、
体内に入った放射線に 体の内部から被ばくして起こる症状で、
医学的には、まだ不明な症候群である』と教えられ、
目からウロコが落ちた思いがしました。
1945年の9月1日
連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、
厚木空港に降り立つと同時に、
日本国民に占領方針を発表し、
その中で「原爆被害は米軍の軍事機密である」と宣言。
被ばく者には、
「被害の事実について、一切しゃべってはならん。」
医師、学者には、
「被害の調査研究を行ってはならん。違反者は重罪に処す。」
という宣言を発表しました。
原爆の放射線被害が、
世界の人にも、日本国民にも、伝えられてこなかった原因は、
アメリカが放射線被害を隠蔽し続けた事にあります。
また、
1949年に、
アメリカが放射線被害の調査のため
広島と長崎に設立した医療機関『ABCC』は、
「内部被ばくは、放射線が微量で、人体にはまったく無害である」と宣伝し、
入市被ばく者は診療はせず、その場から追い返しました。
日本政府は、
1957年と1968年の2回に渡り、
いわゆる原爆二法と言われた援護の法律を作り、
国による被ばく者の援護を遅まきながら始めました。
しかし、国は、
二つの法律が最高の補償を定めた『認定被爆者』から、
『内部被ばく者を除外する』など、
法律制定から35年間、内部被ばく者を差別し続けてきました。
内部被ばくの被害を否定するのは、核兵器保有国であります。
日本政府のそれは、
アメリカの前線基地の任務を負わされた従属国の義務としか思えません。
国を建てる上で、その基本にかかわる重大問題だとわたくしは思っています。
1911年(2011年の言い間違い)3月11日、
福島第一原発に事故発生の報を聞いた時、
わたくしは正直、「大変なことが起こるな」と直感しました。
福島原発は、
広島原爆のウラニウムと、長崎原爆のプルトニウムを混ぜた
プルサーマルを使用しています。
(福島第一原発の)事故からの
放射線被害を受ける人たちが、
広島と長崎で被爆者に生じたのと同じ障害が起こってくるに違いないと、
医師であるわたくしは推定しています。
1911年(2011年の言い間違い)4月5日
「福島県の若い母親から、5歳の男の子の下痢がとまらない。」と
相談電話がありました。
必要な事を聞いて、一番近い白河市の総合病院に行かせ、
2週間の検査を受けた上、「なんでもない」と帰されたそうです。
その後電話相談は数を増し、
子どもの症状も、口内炎、鼻血、皮膚のあざなどだんだん増加して、
地域も、福島県から関東甲信越の各県にひろがり、
講演に招かれた名古屋、京都、大阪でも、会場からの発言で、
子どもの下痢や鼻血で不安を募らせている母親の情報が伝えられました。
12月に行った佐賀と福岡でも、同じ話が聞かれています。
結局、福島原発からの放射線は、
3月15日の大量放出から約300日間、ずーっと続いていて、
すでに日本列島の隅々まで、広範囲に飛散していると推定されます。
微量でも危険な放射線の内部被ばくのことを思うと、
原発を廃炉にして、放射線を完全に止めないかぎり、
ホットスポットがどこに現れても不思議ではない。
疎開や、放射線の無い汚染の無い食材の入手は、
もはや無意味になっていると思われます。
厳密に言えば、
安全な場所は、日本にはもうないのです。
「どうしたらよいか?」わたくしは相談を受けます。
『身を守るには遠くへ移住せよ。』
『汚染の無い水と食材を食べろ。』
この二つが指導されてきました。
それが出来ない人はどうしたらいいのか?
その答えは、専門家と呼ばれた人は誰もしゃべっていません。
わたくしは、被ばく者のための医師として、
被ばく者が原爆後遺症にならずに長生きをする生き方を、
30年間考え、指導してきました。
その経験から、一つの結論に行きついたように思っています。
それは、自分が自分の命に主人公になって、
親からもらった免疫の力を守り、
ひたすら健康に生きるよう、
必死に努力する事しかない! と思っております。
人類は地球上に生まれ出た時、
明かりもなければ火も持っていませんでした。
太陽とともに起き、
太陽が沈むと ともに寝る。
そういう生活を何千万年も続け、
自然放射線や紫外線から命を守る免疫を作ってきました。
その基本の「早寝早起きの健康の大原則を愚直に守る事」が、
親から引き継いだ免疫力を維持して、
病気を防ぐ唯一の道であるとわたくしは確信しています。
あとは、
食事、排せつ、睡眠、労働、遊び、休養、セックスの6つの行為を
節度を守って行う事です。
行為には決まりがあります。
その決まりはどこの国でも、年寄りが伝えてきました。
例えば日本では、
おばあさんが「ご飯は30回噛め」と伝えています。
調べてみると、立派な根拠があります。
お米の栄養はでんぷんで、胃液では消化できません。
唾の中にある酵素ジアスターゼだけがでんぷんを分解して、
小腸から吸収できるように変化させます。
『30回噛め』というのは、噛みつぶすのではなく、
30回舌を動かして、唾液をたくさん出し、
必要なジアスターゼの量を供給するためであります。
年寄りの言葉と思ってバカにしないで、
守らなければならない好例の一つであります。
わたくしの話しの結論。
人間は、放射線を安全に操作することはできません。
ですから、原発も核兵器もなくして、
「安全な地球に住む」という事しかないわけです。
ご一緒に頑張り抜いて、
我々のひ孫に、綺麗な日本を残しましょう。
おわります。
パシフィコ横浜の会議センターにて
『脱原発世界会議 2012 YOKOHAMA』 が、開催されました。
15日の小ホールでのセッションに、私自身も登壇しました。
開会式で拝聴した
『佐藤栄佐久前福島県知事の講演』と
『被ばく医師として有名な肥田舜太郎先生の講演』には、
考えさせられ、心を動かされました。
とくに、肥田舜太郎先生のお話は、
この人が生き残っていて、
今もなお健康で御存命なことは
今を生きる私たちへの贈り物なんだなぁ・・・と、
ありがたく伺いました。
本当に素敵でしたので、シェアさせていただきいます!!
がんばって、文字おこししました!!!
1945年に、
わたくしは軍医として広島陸軍病院に勤務し、
原爆の日は、たまたま午前2時に6キロ先の戸坂村(へさかむら)に往診して、
原爆による即死を免れました。
そのかわり、
逃げてきた多数の被ばく者の救急医療を行う事になりました。
市内で即死を免れた者も、
ヤケドやケガに加えて、
まぶた、鼻、口、肛門、陰部からも出血し、
頭の毛が全部抜け落ちるという急性放射能症で死んでいきました。
当日広島におらず、原爆には遭わなかったれども、
爆発後数日以内に市内に入り、救援活動や肉親捜しをした者が、
俗に言われた『ぶらぶら病』というものを発症し、
数十年間、「あなたには病気はない」とか、「ノイローゼだ」とか、
ひどい場合には「仮病」と言われて悩みぬきました。
1975年に、ニューヨークで、
わたくしは、放射線被害の研究で有名な
ピッツバーグ大学のアーネスト・スタングラス教授に会い、
『入市被ばくのぶらぶら病は、
体内に入った放射線に 体の内部から被ばくして起こる症状で、
医学的には、まだ不明な症候群である』と教えられ、
目からウロコが落ちた思いがしました。
1945年の9月1日
連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、
厚木空港に降り立つと同時に、
日本国民に占領方針を発表し、
その中で「原爆被害は米軍の軍事機密である」と宣言。
被ばく者には、
「被害の事実について、一切しゃべってはならん。」
医師、学者には、
「被害の調査研究を行ってはならん。違反者は重罪に処す。」
という宣言を発表しました。
原爆の放射線被害が、
世界の人にも、日本国民にも、伝えられてこなかった原因は、
アメリカが放射線被害を隠蔽し続けた事にあります。
また、
1949年に、
アメリカが放射線被害の調査のため
広島と長崎に設立した医療機関『ABCC』は、
「内部被ばくは、放射線が微量で、人体にはまったく無害である」と宣伝し、
入市被ばく者は診療はせず、その場から追い返しました。
日本政府は、
1957年と1968年の2回に渡り、
いわゆる原爆二法と言われた援護の法律を作り、
国による被ばく者の援護を遅まきながら始めました。
しかし、国は、
二つの法律が最高の補償を定めた『認定被爆者』から、
『内部被ばく者を除外する』など、
法律制定から35年間、内部被ばく者を差別し続けてきました。
内部被ばくの被害を否定するのは、核兵器保有国であります。
日本政府のそれは、
アメリカの前線基地の任務を負わされた従属国の義務としか思えません。
国を建てる上で、その基本にかかわる重大問題だとわたくしは思っています。
1911年(2011年の言い間違い)3月11日、
福島第一原発に事故発生の報を聞いた時、
わたくしは正直、「大変なことが起こるな」と直感しました。
福島原発は、
広島原爆のウラニウムと、長崎原爆のプルトニウムを混ぜた
プルサーマルを使用しています。
(福島第一原発の)事故からの
放射線被害を受ける人たちが、
広島と長崎で被爆者に生じたのと同じ障害が起こってくるに違いないと、
医師であるわたくしは推定しています。
1911年(2011年の言い間違い)4月5日
「福島県の若い母親から、5歳の男の子の下痢がとまらない。」と
相談電話がありました。
必要な事を聞いて、一番近い白河市の総合病院に行かせ、
2週間の検査を受けた上、「なんでもない」と帰されたそうです。
その後電話相談は数を増し、
子どもの症状も、口内炎、鼻血、皮膚のあざなどだんだん増加して、
地域も、福島県から関東甲信越の各県にひろがり、
講演に招かれた名古屋、京都、大阪でも、会場からの発言で、
子どもの下痢や鼻血で不安を募らせている母親の情報が伝えられました。
12月に行った佐賀と福岡でも、同じ話が聞かれています。
結局、福島原発からの放射線は、
3月15日の大量放出から約300日間、ずーっと続いていて、
すでに日本列島の隅々まで、広範囲に飛散していると推定されます。
微量でも危険な放射線の内部被ばくのことを思うと、
原発を廃炉にして、放射線を完全に止めないかぎり、
ホットスポットがどこに現れても不思議ではない。
疎開や、放射線の無い汚染の無い食材の入手は、
もはや無意味になっていると思われます。
厳密に言えば、
安全な場所は、日本にはもうないのです。
「どうしたらよいか?」わたくしは相談を受けます。
『身を守るには遠くへ移住せよ。』
『汚染の無い水と食材を食べろ。』
この二つが指導されてきました。
それが出来ない人はどうしたらいいのか?
その答えは、専門家と呼ばれた人は誰もしゃべっていません。
わたくしは、被ばく者のための医師として、
被ばく者が原爆後遺症にならずに長生きをする生き方を、
30年間考え、指導してきました。
その経験から、一つの結論に行きついたように思っています。
それは、自分が自分の命に主人公になって、
親からもらった免疫の力を守り、
ひたすら健康に生きるよう、
必死に努力する事しかない! と思っております。
人類は地球上に生まれ出た時、
明かりもなければ火も持っていませんでした。
太陽とともに起き、
太陽が沈むと ともに寝る。
そういう生活を何千万年も続け、
自然放射線や紫外線から命を守る免疫を作ってきました。
その基本の「早寝早起きの健康の大原則を愚直に守る事」が、
親から引き継いだ免疫力を維持して、
病気を防ぐ唯一の道であるとわたくしは確信しています。
あとは、
食事、排せつ、睡眠、労働、遊び、休養、セックスの6つの行為を
節度を守って行う事です。
行為には決まりがあります。
その決まりはどこの国でも、年寄りが伝えてきました。
例えば日本では、
おばあさんが「ご飯は30回噛め」と伝えています。
調べてみると、立派な根拠があります。
お米の栄養はでんぷんで、胃液では消化できません。
唾の中にある酵素ジアスターゼだけがでんぷんを分解して、
小腸から吸収できるように変化させます。
『30回噛め』というのは、噛みつぶすのではなく、
30回舌を動かして、唾液をたくさん出し、
必要なジアスターゼの量を供給するためであります。
年寄りの言葉と思ってバカにしないで、
守らなければならない好例の一つであります。
わたくしの話しの結論。
人間は、放射線を安全に操作することはできません。
ですから、原発も核兵器もなくして、
「安全な地球に住む」という事しかないわけです。
ご一緒に頑張り抜いて、
我々のひ孫に、綺麗な日本を残しましょう。
おわります。