歴史 [編集]
現在の卓球はもともと19世紀後半にイギリスで生まれ、その後発展してきた。もともとテニス選手が、雨でテニスが出来ず退屈だったので室内のテーブルの上でテニスの真似事をしたのが始まりといわれている。初めの頃は長い柄のついたバドミントンのようなラケットとコルクの球を使用し、ラケットには革や紙やすりなどを張っていた。
その後、ラケットは短くなり、1900年代頃に欧州でゴム製の1枚ラバーが開発され主流となったが[2]、攻撃してもそれほど強い打球が打てなかったことやネットが高かったこともあり[3]、守りに徹した方が有利であった期間が長く続き、1936年に行われた第10回世界卓球選手権では1点取るのに2時間以上もかかった試合の記録が残っている[3]。 1937年、日本初の国際試合が行われ、ハンガリーの元世界チャンピオンと対戦し、その際日本選手は初めて1枚ラバーに接した[2]。当時、日本選手のラケットには何も貼っていない状態(別称:木ベラ)でありながらも、大健闘の成績を収めた[2]。その頃、男子アメリカチームによって、当時規定外であった指を使い、様々な回転を生み出すサービス「フィンガースピンサービス」が開発され、1937年に行われた第11回世界卓球選手権にて、初めて強い回転をかけたプレーが持ち込まれた[3]。これを駆使したアメリカチームは好成績を収めたが、その反面強い回転に慣れていない対戦相手はレシーブミスを連発し、ラリーが続かない展開となってしまった[3]。ラリーが長すぎる、一方では短すぎる、と両極端な展開で観客が退屈と感じる試合が続出したことから国際卓球連盟はルールの改正を行い、ネットの高さを引き下げ、試合時間の制限、指を使いボールに様々な回転を与えるサービス(フィンガースピンサービス)の禁止を決定[3]。その影響にて再び守備型が有利な状況となり、1940年代から1950年代初頭までは欧州の選手によるカット主戦型が全盛であった[2][3][4]。
団体戦方式 [編集 ]
団体戦は場合により様々な方式が取られている。世界卓球選手権 などでは、双方のチームが3人の選手でシングルスにより最大5回対戦し、先に3勝した側が勝ちとなる方式が採用されている。北京オリンピック の団体戦では、3人の選手で4シングルス、1ダブルスを戦う方式が採用された。
日本国内では、日本卓球リーグを始めとして4人の選手による4シングル1ダブルス方式が多い。この場合、同じ選手がシングルスとダブルスの両方に出 ることができる。大会によっては6シングル1ダブルス(関東学生連盟)や3シングル2ダブルス(新日本スポーツ連盟)などの方式もある。さらにローカル大 会になると2シングル1ダブルスやダブルスだけの団体戦や男女混成の団体戦もあり、多彩な方式で行われている。
基本的にはシングルスと同じルールで行われるが、いくつかの条件が加わる。 サービスは、サーバー側コートの右半面にバウンドさせ、ネットの上を越してレシーバー側コートの右半面へと、交差するようにバウンドさせなければならない。バウンドさせる面を間違えた場合は相手のポイントになる。 サービス後のラリーでは、ペアは交互に打たなければならない。同じプレイヤーが二度続けて打つと相手のポイントになる。 サービス権が相手に移動すると、サービスをしていなかった選手がレシーバーになり、それまでレシーバーだった選手が次のサーバーになる。 1ゲームが終わって次のゲームに入る時は、前のゲームで最初にレシーブをしたペアからサービスを始める。その際、最初にサーバーになるのはペアのどちらの選手でも良い。レシーバーは、前のゲームと異なる組み合わせとなるようにする。 世界卓球選手権や全日本卓球選手権などでは、男子2人または女子2人のペアで行われる通常のダブルスに加えて、男子1人、女子1人ずつのペアで行う混合ダブルスが行われている。