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Air India機内、ここからすでにインドは はじまっていた。


薄暗い機内、なんともいえないニオイ、(オヤジ臭に近い感じ)

が僕にとってのはじめての、あぁこれから外国なんだと実感

させられる感覚を否が応でもあじあわされた、

幸か不幸か、自身のの座席の周りにはインド人だらけ、


離陸するや否やさっそく隣のインド人が話しかけてきた。

30代半ば位の短髪でカジュアルなインド人。


自己紹介を無理やりさせられた、なんか形式的に英語の練習をした

ような感じだったがそいつの英語はよくわからない。


何度も聞き返してコミュニケーションした。

(インド人英語、ヒングリッシュなるものだったので”R"の発音が

特徴的であ~る。たとえば"master"マスターがマスタル)


もともとの自身の英語力の低さが功を奏して意外に通じてしまう。

あっさりと自己紹介も形式的に終わり?それぞれの時間となった。


窓の外にはユーラシア大陸の壮大な緑が力強く広がっていた。


初海外にあたり、一応のルートを決めていた。

個人的には一人旅のルート決めはかなり楽しい時間である。

が、あまり計画を立てすぎてはおもしろくない。

どっちやねんという感じではあるが、初めは観光気分で

歩き方を見るもよし、でもね僕は思うんです、

大まかな事だけ決めてあとはその時の流れで。

正直観光地なんてすぐ飽きます。行く前から目に見えてる。

だっておもしろいガイドブックなんて見たことないしね、

外国に行く意味って考えたらやっぱりその国の現在の文化に触れるのが

一番ドキドキだなって、遺跡見たって、まぁそれなりにって感じで、

好きな人もいるでしょうが

僕は今までほとんど行ったことがないです、気分転換くらい?もしくは無料、100Rs以内であれば。


とにかくぼんやり考えた結果この旅でやる事。


ヒマラヤの日の出とカニャクマリの日の入りを眺めて

地球を感じる旅にしようと


それと、インド人をみる、まぁ行けば見れますよ、

なんてことではなく、できるだけ一人で行動し、

バックパッカー同士で群れない。

ほんとのインドを感じたいんだ~なんてね。


この後者のルール、このとき僕はかなりの人間不信に陥っていた。


雑貨屋のバイトは3年という歯切れのいい期間でやめたわけだけども

直前にちょっとしたもめ事を起こしていた、

大阪への長期滞在、

オープン半年位のお店であった、スタッフが落ち着かないため

僕が助っ人として勤務、しかし非常にやりにくかった、

それ以前まで大阪には別の店舗にも入っていたが

ここでは何か違っていた。

とにかく、はぶられてる感がすごかった、その真相は僕が来る前に本社の人間が今度、鬼軍曹みたいな人がくるから気をつけな、みたいな感じで警戒心作らせたのが原因である。


たしかに全否定はできない、そのときの自分はとにかく

売れる方程式のようなものがあって

好きなようにお店を作り替えてバリバリ無休で働いていた。


周りのバイトから僕を見ればおそらく”人生かけてます”みたいな感じを他のスタッフにも無言のプレッシャーとして与えていたのかもしれない。(そんな気は一切無かったんだが)


そんなバリバリと働く僕に一人だけ付いてくる人がいて

その人に裏切られたんです、、、、、。


なんか内容はかきたくないなぁ。

ほんとに悔しくて店の裏で泣いてしまった。

そんな夜はなかなか眠れない

”ほんとに明日は来るのか”  なんて感傷的になりました。

そんな感情を引きずったままのインド。

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とにかく一人になりたかった。

しがらみがない場所で。










インドからの帰国により魂を抜かれた感が強く、年あけ早々、無気力状態がつづいている。

何か刺激をと、広い意味で検索をつづけるが心にヒットするネタはなくお土産に買った、ブラスのカーリーが僕を慰める。


payokaのブログ-ブラスのカーリー

最近面白いことないよね。

一般的に考えるなら年齢による、好奇心の欠如なのか。しかし年齢に負けるようなマンネリした生活を送ってきたつもりはない。振り返れば、

バカ高校卒業後、エリート服飾専門(入学は簡単アメリカの大学みたい)周りは有名大学卒、大手企業元社会人、別業種からの転進を考える人。

さまざまな大人たち

高卒の僕にはレベル、人間としての格の違いをまざまざと見せ付けられた。

表向きはニコニコしてるがみんなのライバル心は強い。僕が初めて競争というものを肌で感じた時間だった。

義務教育って大事なんだな、基礎って普通の人間には大事だなって。

学校は即戦力を育成するプロフェッショナルな教師陣に囲まれ、授業はキツキツのスケジュールの基、非常に長い説明を必死でノートへ書き写し進めていく、毎日課題課題で電車の中で縫い物をこなす。、

即効、おちこぼれていった。

この学校はまともに卒業という証をくれない。毎日学校へ行き課題を出してハイ卒業ではない。ある一定の基準を満たせないと卒業として認めてはくれない、では何なのか、終了である。卒業ではなくて。

二年間基礎を学び三年でクリエイティブな授業となるのだが二年に上がる際、成績でクラス分けされ僕は下から二番目。

一番下のクラスでいいのに中途半端にしんどいわ、

そして二年終了で辞めた。

情けなく悔しかった、若かった僕には学もなく安直な考えしかなかった。

なんとかなるさ。

この学校のOBで有名になった人はみんな卒業なんかしてないんだから。        (後のことだが実際同じクラスだった子のなかで現在活躍中の方も現れました)

辞めたその足ですぐに地元のオーダーメイド仕立て屋である先生の弟子として働いた、給料4万、、、たしか当時、普通に高校生のバイトでも5万は稼げたはず、その時は金なんてって思ってた、

とにかく毎日実践として働く、服飾の職業は表は派手だが実際の仕事はとても地味である、

でも好きだった。先生のデザイン画から型紙を起こし生地を裁断しミシンで縫う簡単にこんな流れ。既製品にはないその人その人の体にあった洋服を作る。半年後には僕のデザインで数枚、お客様の洋服を作れた。

しかし一年経つ前に辞めた。理由はお金。好きなことでもお金には代えられなかった。

20代前半遊ばないわけにはいかなかった、もともと僕の周りには服飾に興味のある友達はなく皆、金と女と酒を遊びに必死だった、

そんな中お金のない僕はといえばみんなのカンパで遊んでいたようなもので、

もちろん親のすねもかじり、毎度毎度、引け目を感じていた、親にもね。

んで、好きなことを諦めた僕は金に走った、肉体労働で。日当1.5稼いでた。はじめはやっぱりしんどくてね、でも飯と酒がうまかった。

こんな一日もあるんだなって妙に充実してたな。

その金で親に専門の学費も返した。よく遊んだ。

でもずっとできる仕事じゃないってわかってたから遊びながら考えた、

次何しようって。このころ22。

土方に飽きると登録制バイトでいろんな雑用をした。雑用の仕事でもできる人とできない人に分かれる。

どんなに簡単な仕事でも要領よくこなせる人間には仕事が回される。運送屋の12時間バイトもきつかったなぁ昼夜逆転の生活は悲しいもんだよね。

リゾートバイトもした。ホテルの裏方、とにかく寝る時間がなくキツイ、そして同じ派遣なのに上下ができる、そんな理不尽さが嫌でそいつに負けないでひたすら働く、結局要領よく働けば認められ地位も出来上がる同じ派遣なのに。

この我物顔で働く派遣社員たちはなんだったんだろう、あのころ派遣社員は儲かってたから勘違いしたんだろうなぁ俺出来るやつって。

ある仲のいい友達がスノーボードショップで働いていて一緒によく滑りに行った。

彼の部屋はエスニックな布をカーテン代わりにし、枝のすだれなどで雰囲気を出しお香を焚いていた。うまくスノーボードのアイテムがマッチしていた。

スノーボードをやる人のなかでライフスタイルにこだわる人は多い。彼の影響もあり僕もきれいめのアバンギャルドから一転エスニックスノーボードスタイルへと移行した。

実際、スノーボードの魅力にもとりつかれシーズン中の北海道へ、入り浸っていました  そんな中、彼が突然言う、

インドの子供たちって何やってんだろうねって。

その質問自体、ほんとよくわかんないんだけど、僕が海外を考えるきっかけになる、言葉であったのは確かです。アジアって何って。

気づいたんですけど好きなことを見つけたときお金を見失う?

エスニックが好きで安い時給の販売員で働いた。さすがに仕立て屋よりはもらいましたが。それでもスタートは当時の最低賃金に近かったような気がする、、、しかしそのバイトで3年続いた。

入った当時は好きなものに囲まれてとにかく面白かった、

そのうち商売の楽しさを学んだ、

薄利多売の商売、最近はあまり見かけませんがただ突っ立ってるだけの店員、それじゃぁ楽しくもないですね、お客様も不愉快だし、まぁゆっくり見れるって利点はあるけど一声かけようよって感じ。

薄利多売の商売は回転率が命。客単価1000ちょっとで売り上げ100万なんて出したらしんどいけど面白くてしょうがなかった。自分で定めた数を仕入れ、自分で店頭へ。そのバイトは売り上げ手当てがあり基本給と同額ほどの金額がつくこともある。

さらにタイミングもよく新店ラッシュにより、バイトにもかかわらず出張ありのバイトでした。

東日本から西日本、四国、九州と回ることが出来ました。この経験はバイトではありながら移動の楽しさを教えてもらいその後の一人旅にも影響したのかな?

3年間続いた、いい区切りだった、周りの社員などの影響もありインドへ行くつもりで辞めた。すべてが順風満帆に感じた、が調子にのっていたのだろう

インドに行く前に、北海道へ行った。もちろん滑りに。仕事をやめた開放感からか面白いようにぶっ飛んだ。そこでやってしまった。

最終日、いつものようにゲレンデコース外へ滑りだした、

確かここの落ち込み傾斜続いてたよな、

なんて思い込みまっすぐ崖へとぶっ飛んだ、傾斜はあった、しかし

その前にフラットの地面が大きく広がっていた、、、そのまま地面に叩きつけられ足からいったがGにより体全体打ちつけた、人形のように体は跳ね、近くのゴンドラの鉄柱にまた叩きつけられて落ちた。

世界が回ってた。友達が駆けつけるも気絶した。北海道のある厚生病院に三ヶ月入院。インド行きは無くなった。病室の天井を見上げ、俺は何をやってるのだろうと問うが答えは出ない。のち金なしの身で自宅へ帰り三ヶ月引き篭もり状態、しかし引き篭もりは飽きる、生に合わないと察し地方へ出稼ぎそしてインドへgoした、それが24歳終わり初めての海外旅行だった。