人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて/青土社

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 ガタリによれば、資本主義社会の「個人」は「社会」によって全面的に製造される。個人の知覚様式、欲望、意識の構造も全て彼が「集合的装備」と呼ぶ不特定多数のマクロな集合体の小さな歯車に還元される。例えば、朝の通勤ラッシュに見られるような「満員電車」の圧縮空間は、現代人がこうした匿名集団の一個に過ぎないという図式を無意識の内に刷り込む資本主義社会のいわば日課的な儀式となっている。資本主義社会では働いて得た給与を「何に」使うかといった「趣味」のレベル、より正確にはガタリが「欲望の分子状のエネルギー」と表現するミクロの次元にまで根深く作用する。そして、欲望はやはり自分が属する集合体によって再生産されているのだ。興味深いのは、ガタリが人間の「顔」、「ファロス」、「自己意識」といったものは、全て“同一の抽象機械”を中心によって展開されていると述べている点だろう。
 大都市の書店では客の眼に付く所に、世界で最も美しい島々を紹介したような書籍や雑誌が置かれていることがある。実際にはイメージの中のオアシスの機能を果たしているこれら「仮想の島々」は、やはり資本主義社会における「集合的装備」が「イメージ」のレベルにまで拡散していることを如実に物語っている。いわば、人々が何に対して「癒し」を感じるか、「旅行するなら何処へ行くべきか」などといった消費の形態そのものが、知らず知らずの内に都市の作り出した「台本」をなぞる形式になってしまっているのだ。ガタリはこれを、「集合的な〈安心〉のシステムが言表行為の領土化を人工的に再生産する」と述べている。
 ガタリの分析は、世界的に話題になった映画『シェイム』について新たな考察へと導く。この作品では自立し、都市で暮らす成人男性としては成功した部類に入る一人の男性が、知らず知らずのうちに欲望機械を性的なものにのみ先鋭化するようになってしまい、そこで自己閉鎖化して居場所を喪失してしまう現代の悲劇が描出されている。このような「欲望価値の単一化/ルーティン化」と、異性関係を消費主義的に冷めて把捉する意識は、個人の抱える病理というよりも、実は資本主義社会というマクロな「精神分析」を行うことで、より深化した考察を得られるものである。
 日本では3.11以後、御厨貴氏が述べていたように、精神的な癒し、新たな救済の感覚を求める若者たちが増加しつつあるという。それは一般的に「スピリチュアル」とか、「精神世界」などというカテゴリーで大型書店でも一定の区画を設けている。こうした現象について、ガタリは本書で興味深い分析を行っている。そこでは、「中心化作用を持つ樹木状の自閉的なブラックホール」が生み出され、このブラックホールが新たに「記号的座標系の総体を統合する」ようになる。西洋ではユダヤ・キリスト教が一神教のシステムを自己完結しているが、元々日本には一神教システムは存在しない。しかし、近代資本主義社会がマックス・ヴェーバーが述べるように「キリスト教的宗教機械」に起源を持っている以上、現代日本社会は可能性としては常に「すべての抽象機械が一神教の中にその宗教的表現を見出す」ようになる危険性を孕んでいるのである。いわば、大文字の神(伝統的宗教)から、小文字の神(新宗教や新しい精神的ムーブメント)へとシフトする過程で、ガタリが示唆するように一種の「単一的主体主義」(自己中心的に再編成された宗教機械)が台頭しつつあるのだ。
 本書『人はなぜ記号に従属するか』のキーコンセプトとなっているのは、訳者の杉村氏が解説で述べているように、「集合的装備」と「記号的従属」という二つの概念である。これは同時に、現代資本主義社会が我々「個人」にもたらす様々な悪影響について分析する上での重要な方法論にもなっている。すなわち、ニューヨークや東京、パリなどの大都市では、全てが記号的に編成され、同時に消費され、再生産されているのだ。記号的従属は商品流通の世界だけでなく、個人の「無意識」の在り方にまで及んでいる。先述したように、大都市の中央駅では電車が毎日ダイヤグラムに従って運行している。ダイヤグラムは電車の遅れなどで多少乱れることもあるが、基本的には常にこれが守られねばならない。ダイヤグラムには時刻表が表示されており、人々は出勤時刻に合わして適切な車両に乗り込む。この「ダイヤグラム的」な駅運行のシステムに、現在の物流業界などに見出されるチームワークによる納期の遵守、「オペレーター」による監視システムなどを合体させたものは、ガタリの捉える資本主義原理の基本的定式の一つになっている。シュンペーターはかつて資本主義の本質を「創造的破壊」に見出したが、実はこれは一部の「企業家」や企業上層部によるものであり、実質的には企業の下層構成単位は「ダイヤグラム的オペレーター」によって日々監視され、日常生活をルーティン化され、「趣味の均質化」に支配されているのだ。このような、社会における画一化・均質化はやはり「神の平安」に集合的な安穏を見出し、それを神聖視していたキリスト教的宗教機械にこそ原点を見出すことができる。修道院という自己閉鎖的システムでの修道士機械の産出、そして「神の平安」に違反する人々を「異端者」として排除し、抑圧する図式は、今日の資本主義社会にも再現前している。ここにブルデューが『国家貴族』で展開した考察を踏まえると、資本主義社会では「集合的装備」、「記号的従属」の原理に従ってコントロールされているのと同時に、フランス革命以前の「アンシャン・レジーム」体制が、企業の官僚的階層構造として新たに再現前していると考えることができるだろう。このように考えると、「都市の近代」は実は「中世・近世」の社会システムを未だに温存しているのだ。
 では、こうした個を封殺する資本主義社会の中で、我々はどのようにして人間性を回復すべきなのだろうか? あたかもカフカの世界のように冷酷なこの社会において、ガタリが全力で提示する概念こそが、既に『千のプラトー』で世界的に広く認識され、現代思想の常識にまでなった「リゾーム」なのである。ドゥルーズ以上に、ガタリはこの概念を「国家権力の解体」が可能なコンセプトとして重視する。いわば、資本主義社会の抑圧的なシステムから「逃走」するための最大の武器が、リゾームに集約されているのだ。では、改めてリゾームとはガタリにとって何であるのか? 本書で規定されている重要な定義(厳密に言えば、リゾームはいかなる自己言及的言語によって形式化されることもなく、それらを常に跳躍していく)を、以下に七項目で整理しておこう。

「資本主義社会を生きる上で最早必要不可欠な概念――リゾーム」

⑴リゾームは樹形ではなく、ある一点を「別の一点」に結び付けることができる。

⑵リゾームとは極めて多様なコード化の様式であり、あらゆる記号体制だでけなく、非記号的な全てのものをも作動させる。

⑶現在属している個のあらゆるテリトリー(職労空間、趣味領域、住環境など)は、常に脱領土化され、逃走線を起点として作動する。

⑷リゾームの最終目標は「自分らしい地図(マッピング)」の作成である。自己地図は常に分解可能、連結可能、逆転可能であり、絶えずアレンジメント、変更を受け容れることができる。また、あるリゾームの中に樹木の構造を保存することも可能であり、逆にある樹木の枝に、リゾームを芽吹かせることも可能である。

⑸「地図」は構造に対立する。「地図」は常に外に開かれていて、あらゆる次元において接続可能であり、引き裂かれることもあれば、あらゆる種類の組み立てに適合することも可能である。それはありふれた路上の壁に書くこともできれば、芸術として構想することも可能であり、更には政治的行動やフィーリング、瞑想として展開していくこともできる。この「地図」こそが「無意識」に他ならず、無意識はラカンが述べるように「構造化」されたものではない。むしろ、リゾームが「無意識」を新たに建設していくのである。

⑹リゾームはいかなる構造主義的あるいは生成的なモデルにも拘束されない。それはあらゆる種類の記号的なネットワークを介して連結することが可能であり、芸術、科学、社会闘争、などに属する運動的な介入と結合することができる。

⑺リゾームはいかなる「絵」や「図」によっても表象不可能である。何故なら、リゾームは本質的に「可能性」そのものであり、どのような形式にも束縛されないのだから。


 
 資本主義社会で生まれ、そこに適応して生きていると、個を疎外しているシステム(「ミクロ・ファシズム」、あるいは「分子状ファシズム」と呼称される)に知らず知らずのうちに加担していることが多々ある。リゾームとは、まさに都市生活での日常の「危機」を乗り越えるための「思考の変換」方法そのものである。それは資本主義が制度として内包している「主体の記号的従属化」に抗するための、ほとんど唯一と言っても良い武器であり、希望なのだ。以上のような点で、本書は今大都市で生きる全ての会社員、全ての働く人々――中でも働きながらけして小さくはないストレスに苛まれている人々――にこそ、真に開かれた書物であり、この点からすると本書は『千のプラトー』と並んで「革命的」である。
 



技術と時間 3: 映画の時間と〈難 ― 存在〉の問題/法政大学出版局

¥4,320
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 このページでは、現代思想の必読書の一冊に入っているデリダ、ドゥルーズ、フーコー以後のフランスを代表する哲学者ベルナール・スティグレールの主著『技術と時間』についての読解記録を残す。本書は全三巻シリーズだが、その中で特に著者自身が読者に「独立して読むことができる」、「前著のよき序章」として推薦していたのが、「映画の時間と〈難-存在〉の問題」(『技術と時間3』)における映画=意識論である第一章、第二章である。

【第一章「映画の時間」読解】

 何故、そもそもスティグレールは「映画」を哲学しているのだろうか? まず第一に言えることは、彼が大の映画愛好者であろう点である。彼は本書第一章で、以下のように自身が映画を観る前と、観た後の気分の違いについて言及している。

鬱陶しい日曜の午後、映画やTVの気晴らしが人工の他者を与えてくれるのは、映像の流れが私のために選択をしてくれるからだ。それが私を変容させ、私の渇きを癒し(リラックスさせ)、元気付け(それは一種の強壮剤だ)、他者に接近させてくれる。しかし、この他者はまず私の内にいるのであり、生、すなわち、映画、他者の映像を待ち、それに自らを前方投射することで動き始めるのだ。他者を発見できるのは、自己の内においてでしかない。(p56)


 映画――それは彼にとって、まず何よりも「他者性」の核心である。それは、スクリーンにまさに「他者の映像」を現前させる。そして映画を観ている時、人は実は自分自身の「意識」の構造をスクリーン越しに追体験している。無論、映画は虚構である。しかし、スティグレールはフッサール現象学の理論的な心臓部を要約するかたちで、以下のように述べている。

もし、生き生きした現実が常に想像力と共立し、虚構化され、幻想に取り憑かれている限りでしか知覚され得ないのが示されるなら、おそらく最終的には、知覚は想像力と横断伝導的な関係にある、つまり、想像力なしに知覚はありえず、またその逆でもあり得ないということになるだろう――知覚は想像力が投影されるスクリーンなのであり、関係性が、それに先立ってあるのではない関係項を構成するということだ。それゆえまた、生は常に映画的なのであり、そのため「生を愛すると、映画に行く」と言うのだろう。あたかも生を再発見するため、いわば生き返るために映画に行くかのようだ。(p32)


 このように、スティグレールは「映画」を我々の知覚構造そのもののアナロジーとして解釈している。この考えを更に深化させるために、彼はフッサール現象学における「過去把持のメカニズム」を考察している。そもそも、フッサールによれば人間の意識は、それがどのようなものであれ常に「~についての意識」であるという性格を持つと考えていた。つまり、意識とは本質的に「志向的」であるとされる。その上で、「過去についての意識」、すなわち「過去把持」には段階があると考えられている。

「過去把持の階層性」

第一次過去把持

 今まさに過ぎ去ったとはいえ、「現在」の内部に「不在」のものとしてmaintenir(現持)されている過去。最良の例はメロディーであり、これはどの楽音も先行する楽音の流れの中で成り立っている以上、ひとつひとつの楽音には過去の楽音が「不在」のものとして保存されている。こうした、まさに「今」を構成するために必要な「ほんの少し前」とか、「一分前」などの現在に近い過去の流れを指している。これらの流出としての過去を統覚し、maintenant(現持するもの)を、フッサールは「第一次過去把持」と表現した。


第二次過去把持

 フッサールによれば、これは記憶によって思い起こす「想起(回想)」を指している。スティグレールは「第二次想起、すなわち、想像力や虚構のもの」(p35)として解釈している。想起が必然的に「虚構」化されるのは、それが「起源的に忘却」(p51)の作用を受けているからに他ならない。意識の流れは、本質的に時間の「縮減」なのである。例えば、巨大な災害やテロルによって現実に日常が変わってしまった場合でも、意識はそれを事実として受け止めつつ、全く別の「出来事」として「上演」することは常に可能である。ある誰の眼にも明らかな出来事を「誤読」すること、そこに全く別の何かを「幻視」すること――この意識のメカニズムを哲学的に考察したのがフッサールであり、彼の理論において「知覚」とは常に既に「虚構的直観」なのだ。

第三次過去把持

 「第三次過去把持、すなわち技術、テクノロジー、そして今日では産業」(p74)という表現にもあるように、これはスティグレールが本書の中心概念として押し出す最後の段階であり、かつ意識そのものを根底から支えている技術性を指す。「第三次過去把持とは、空間的であると同時に時間的であり、空間と時間を区別する可能性そのものを条件付けているのである。その意味で、文化・プログラム産業という第三次過去把持の産業はまた、速度の産業でもあるのだ」(p124)。「第三次過去把持が(意識の機制において)本源的な役割を演じている」(p73)。人間の認知構造、意識を成立させているのはデカルト的なコギトでは最早なく、第三次過去把持であると主張するところに本書の真価が存在する。「もちろん、どんなかたちの対象による想起であっても――映画、写真、レコード、文字、絵画、胸像だけでなく、私自身が必ずしも生きたわけではない過去を証し立ててくれる記念碑、対象一般――第三次過去把持と呼べるだろう」(p50)。



 例えば、同じメロディーでも昨夜聴いた曲と、翌日の昼間に聴いた同じ曲では既に同一対象に対する「解釈項」(パース)に変化が起きている。「聴く度に聴取の仕方が同じでないのは、二度目の聴取が最初の聴取に影響されたからに他ならない」(p33)。意識は全てを把持するわけではなく、また昨夜と今日の意識には微妙な変化が生じているのが常なので、同じ曲と言えども、ある時には甘美に、またある時には甘ったるくに、またある時は単なる背景音として感じられるのである。この過去把持における重要な原則は、例えば「幼年時代に水死しかけた記憶」のような現象についても妥当する。出来事は一回性のものだが、一年後にこれを回想した時に獲得される過去のイメージと、五十年後に回想した時に獲得されるイメージは最早同じではない。そこには、彼がこの体験を一つの種子として、そこに幾重も「解釈項」の年輪を覆わせ、包んできたことによって生じた意識構造の変化が対応している。同様に、同じ本でも読む度に違う感銘や再発見を与えられる理由も、こうした過去把持の理論から説明することが可能である。スティグレールがフッサール現象学の最大のポイントとして重視しているのは、まさにこの「対象は同じだが、現象はそのつど異なっている」(p34)という定式である。換言すれば、現象は常に「絶対的に新しいもの」として到来するのである。
 例えば、日常の中で特別に何か変わったことが最近起きていないという倦怠感についても、スティグレールは軽く触れている。彼によれば、新しいことが起きないがゆえの倦怠であっても、その意識は常に、その度ごとに更新されている。いかなる感情も、実は本質的に一回性のものであり、今日感じた喜悦と同質のものを明日、明後日、そしてその後全ての生涯に渡って感じることはない。それは、また異なる別の歓びとして彼女、彼に体験されるからである。これをスティグレールは、「新たな生を与えられる」と表現している。具体例として挙がるフェリーニの映画『インテルビスタ』には、『甘い生活』を観ているマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エクバークが登場する。彼らは『甘い生活』でも共演しているのだが、それを別の映画で観ているという場面である。スティグレールはこの場面について、「改めて観られたもの」は、既に『甘い生活』とは「別の何か」であり、「常に新しい」と解釈している。これはまさに、過去把持によって過去のイメージがその度ごとに更新される構造と同様である。ここで生起しているのは、『甘い生活』を既に観てきた観客にとっては、自分自身もフェリーニ作品の流れに伴って年を重ねたという事実、「自らが過ぎ去っていくのも目にしている」(p44)である。『インテルビスタ』は、『甘い生活』を「回帰」させることで、この映画との間で生じる「時間」の問題を主題にしていると解釈されている。


【第二章「意識の映画」読解】


 スティグレールによれば、フッサール、ホルクハイマー、アドルノの三者は、映画(虚構)が現実と区別されねばならないという見解を示していた。しかし、フッサール自身は「意識」そのものが「虚構的直観」の上で初めて成立することを前提にしているので、スティグレールがここでフッサールに「現実」と「虚構」の「区別」の概念を導入しているのは奇妙である。
 フッサールの「虚構的直観」の概念を、スティグレールは映画的なもの(統合=合成化された映像としての)に置き換えて思考している。しかし、私が本書の一章、二章を綿密に読解した限りで言えば、スティグレールは明らかにフッサール現象学を過小評価していると言わざるを得ない。彼は実質的にフッサールにほぼ全ての理論的功績を負いつつ、以下のように影響源を「批判」することで自らが押し出す主要概念である「技術」(第三次過去把持)の重要性を読者に暗示させている。

フッサールが認めようとしないのは、知覚が映画的、「映画的でしかない」ということであり、また知覚されたものが、この映画が投影されるスクリーンに他ならないということである。それ故また、自らの分析から第三次過去把持、特にレコードを排除しようとするのである。ホルクハイマーとアドルノが、フッサールの四十年後、そして、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」――明らかに、彼らはこの論文の大きな射程を取り逃がしている――の執筆の十年後に、同じことを繰り返しているのはなぜか?(p71)


 スティグレールの分析によれば、彼らが共通して「レコード」や「タイプライター」のような、音楽を聴いたり思考を展開したりするために必要な「道具」を棄却しているのは、カントが『純粋理性批判』で、こうしたテクノロジーの結晶である媒体に対して考慮に入れることをしなかったためだとされている。しかし、意図的にここで言及されていない、フッサールに学んだハイデッガーは、『技術への問い』や、第二の主著『哲学への寄与論稿』における「工作機構」の概念などによって、既にテクノロジーと現存在との関わりを熟慮し、至上の課題としていた。現象学、存在論の系譜において、「技術」への問いは根本的であり、フッサールの『イデーン』や『デカルト的省察』も、二十世紀という「虚構(映画)の世紀」であったからこそ、その読解可能性が常にラディカルな地平へと接続されてきたのである。「形而上学という映画で、技術は役割を見出さなかったのであり、本来的なものとしては、まったく存在もしておらず、理論的哲学の対蹠物でしかないのである」(p114)と断言してもいるスティグレールの本章での思考は、けして斬新なものではなく、むしろフッサール現象学の理論的帰結であり、課題でもあるとされて既に研究されてきた「技術」を、特に「映画」産業を最良のアナロジーとして慣用することで、再生産したものである。すなわち、それは以下のような定式として表明される――意識とは、常に既に「上演化」されているものである。
 スティグレールは、具体的に「意識」を「映写機を動かすプロセス」に擬える。「意識」を考察するために、彼は「映画制作」のプロセスそのものをアナロジーとして巧みに用いるわけだが、そこで述べられていることがフッサールの与えた理論的貢献の範疇を出ることはない。何故なら、この現象学の始祖自身も、対象は常に虚構的に直観され、「真理」なるものの本質はどこにも存在せず、イリュージョンであるということを何度も繰り返し言及していたからである。また、人間の「意識」の構造が本質的に「映画」的であることに気付いていたドゥルーズの以下のテクストも引用されている。

しかしそれにしても、ベルクソンが最も古い錯覚に、大変モダンな、しかも極めて最近の名(「映画的」)を与えたというのは、奇妙なことである。…映画とは、ある普遍的な恒常的錯覚の映写、その再現であるなどと理解しなければならないのだろうか。あたかも、ひとはこれまで常に、そうとは知らずに映画を作ってきたかのようだ、ということにでもなるのだろうか。(p26)


 スティグレールが強調するのは、「第三次過去把持が(意識の機制において)本源的な役割を演じている」(p73)という点――すなわち、今日においては「メディアの形式」が、人間の認知構造の「組成の配列」を根本的に決定付けているという構造的原理である。例えば、「タイプライター」で評論を書く作家と、「鉛筆」で評論を書く作家、そして「Macの最新機種」で評論を書く作家――彼らの差異について、従来の現象学では巧く理論化し切れていなかったというのが、スティグレールの主張である。使うツールが変われば、変化するのは「時間コスト」や「収納スペース」だけではない。我々は、使用するツールに導かれて思考している。換言すれば、「技術」が実はその時代を生きる人間の認知構造そのものを根底から支えているのである。この点は現代フランスの重要なメディア学者であるレジス・ドゥブレがそのメディオロジーにおいて主張していた点とも通底する。ドゥブレによれば、「宗教改革」が起きたのは宗教史的な過渡期に属していたから、というよりも、むしろグーテンベルクが「活版印刷」を世に広め、新しい思想が人々に流布され易くなったからである。同じように、フロイトの精神分析学があれ程一世を風靡し、盛んに研究されたのは彼の理論的功績も無論あるが、まず何よりもフロイト自身が「協会」や「講演会」や「機関誌」などの独自の「界」創出に向けて貪欲に活動し続けたところに拠っている。同じフランスのドゥブレのようなメディア学者、あるいはスティグレールのような現代の哲学者が注目しているのは、何よりも人間の知的生産活動の支柱であり、媒体であり、思想Aと思想Bを橋渡ししながらテクスト上ではこれまで「余白」に追放されてきた、「書いている媒体」そのもの、すなわち「技術」への問いなのだ。
 カントは映画を知らない。しかし、スティグレールによれば、カント自身も実は「意識」を「映画的」に捉えていたと解釈されている。カントによれば、人間の多様な意識の流れを統一する心的機制が「超越論的親和性」と呼ばれる機構である。これが過去を想起する場合、かつての意識やイメージは「再生産」される。この「再確認による統一」が、まさに超越論的親和性に他ならない。再生産されら過去の意識は、その当時感じていた意識とは「別のもの」である。ある想起が、常に別の過去を呼び覚ますのだ。それは、同じ本でも年月を隔てると全く別の本として感じられる理由を説明する際の最良の方法でもあるだろう。カントの「超越論的親和性」は、スティグレールによれば「意識=映画」という図式を成立させるための理論的土壌なのだ。
 意識は、映画編集のように「本質的に統合=合成(編集、ミキシング、ポストプロダクションなど)」されるという心的機制を持っている。その上で強力な力を発揮するのは、その人間が「何の道具を使って知覚したか?」である。カントは無論ノートパソコンではなく、編集作業やテクストの切片化と再結合が困難な伝統的方法である「紙にペンで書く」ことによって作品を残した。こうした道具、思考のためのツールのことを、スティグレールは「意識の前方投射の媒体」と表現する。カントは、今日の視座からすると、いわば「紙にペンで書く」人間らしい思考方法に、自然になってしまっているわけである。カントはあらかじめ書いているものが「書物」という統一体の形式を採用することを熟知していたし、彼の厳密に体系付けられた論理的な構成方法は、それ自体で思考そのものも「書物」のような統一体にしなければならないという「暗黙の掟」を採用していたことを如実に物語っている。人は何かを思考する時、やはり「書くツール」や、「書かれたテクストが最終的に発表される空間性」などに依存しているのである。

カントはフッサールと同様、いかなる「第三次過去把持」も導入しないが、『純粋理性批判』の執筆に至るカント自身の意識の流れの文字による記録が、あらゆる意識活動の分析――本書が野心的に目指しているのも、この分析だ――の本質的条件そのものである。カントの思考が我々に現前し得るのは、書物としてのみである。それはまた、かれ自身にとってもまったく同様だ。(p84)


 カントのこのような「盲目」(ド・マン)を更に別の角度から分析するために、スティグレールは再びカント自身が言及していた興味深い考えに触れている。判り易く説明すると、それはつまり「10億」という数字を我々が耳にした時、おそらくまず何かをイメージしているということだ。例えば、「10頭の牛」とか、「5匹の亀」などは簡単に絵に描けるし、イメージもできる。お望みならば、昨夜目にした映画のワンシーンを多少変化してイメージ化することも可能だろう。しかし、「10億」という数字は、原始時代にはなかなか人生のうちに考えることのない桁外れに大きな数字である。「10億」は、それが想像できない代わりに、「数知れない満点の星空」とか、「トランクにぎっしり詰まった札束」などとしてイメージされるはずである。ここで重要なカントの見解は、以下である。すなわち、桁外れに大きな数字になってくると、その数字の「実体」は記号表現である「記数法」という、眼に見える形象化の表現システムによって代理=表象されるという図式である。「10億」という数は、何らかのイメージ、「像」(例えば無数の星)なしに意識されるということはありえない、とスティグレールは断言している(「像なしに図式[この場合は記数法]が表れることはない」p93)。カントは逆に「図式が像に先立つ」のだと主張していたが、いずれにしても「10億」に我々が何らかの漠然としたイメージを呼び覚まされるというのは間違いのない事実である。
 あらゆる抽象的図式、制度化されている記号体系は、常に何らかのイメージ、像に依存している。「10億」という数字は、数知れない札束のイメージを媒介にして初めて把捉することができる。換言すれば、「前方投射(形象化)」される何らかのスクリーンの「像」を媒介にして、初めて観念・事物は存在する、というよりも「生成」するのである。「像(イメージ)」が先なのか、それとも「図式」が先なのか、この問題はスティグレールの思考プロセスの中で以下のような変奏を生んでいる。すなわち、「概念の構築とは、形象の構築なのであり、またその逆でもある」(p95)と。これは「図式」と「像」の根源的な一体性、より正確には「共創発的」かつ「横断伝導的」な性格を表したものである。ここでスティグレールが主張している点をもう少し判り易く考えると、例えばものを「数える」ようなレベルにおいて、既に何らかの「像」を我々は常に意識しているということに他ならない。彼のいう「心的な抽象像の前方投射」は、既にこうした「数える」次元において生起しているのである。
 スティグレール以後、現代思想のテーマ系において重要な前提となるのは、人間の認知構造、意識を成立させているのはデカルト的なコギトでは最早なく、「第三次過去把持、すなわち技術、テクノロジー、そして今日では産業」(p74)であるという定式である。思想の中身ではなく、その思想が伝達されたり制作されたりするためのメディウム(媒介項)にこそ、その思想そのものを成立させている核心を見出すというこのスティグレールの視座は、明らかにドゥブレのメディオロジーと理論的な深い相関を示していると考えられる。ある文学テクストは、それが何によって書かれたか、あるいはそれがいかなるメディアによって発表されるのか、といった諸々のメディウムに依存する。これは究極的には、人間の「脳」を外部性として位置付けられる近未来世界が到来した時に、おそらくより深く我々の課題として急迫する哲学的命題の一つであると言えるだろう。何故なら、もしも「脳」も思考のための一つの道具として捉えた場合、彼が述べる「技術」として交換可能な存在こそが、まさに思考そのものを作動させる「脳」になるからだ。ここで透けて見えてくる新たな思想の地平とは、まさに「起源の技術性」(p99)に他ならない。私の所有する「脳」が、もし仮にテクノロジーによって製造されたものである場合、スティグレールが好む「意識=映画」というアナロジー的な位置付けは、文字通りの意味で解釈せねばならなくなるはずだからだ。
 このように、スティグレールの思考は、我々を「アンドロイド」や「人工脳」などのテマティック――すなわち、「身体」はどこまで「技術」によって代理可能か?――に導いていく。実際、彼は主体性そのものを、何らかの情報を「ダウンロード」して初めて「顔」を復元することのできるような機械、容器としてイメージしている。

〈我〉は、内容によって満たされるような容器ではなく、流出の力動によって構制される形式なのであり、それ自身が(観ている映画の登場人物の時間を取り込むように、取り込む)内容なのである。(p122)


 ここで念頭に置くべきなのは、スティグレールは映画を愛しており、過去把持と未来予持を統覚する主体の現在の「意識」の構造が、それ自体で映画の編集・上映と類似していることを示しているという点である。原書が2001年に刊行されていることを考えると、ここで我々は果たして「映画」が真にアナロジーの対象として適当であったのかを今一度考察する必要がある。何故なら、実質的にいって現代日本社会はiPhoneやMacなどの便利な「技術」を、常に肌身離さず所有しつつ、読書や講義などの知的活動を行ったりしているのであり、これらに我々の日常生活が依存している割合を見過ごすことは不可能となっているからだ。「映画」を頻繁には観ない人でも、スマートフォンは仕事上不可欠だという人は実際に多く存在する。我々がスティグレールの映画=意識論を読解した後、たちどころに考察せねばならないのは、やはり現代社会を支配している「Web」であり、「ソーシャルメディア」である。
 ここで今、スティグレール的な実験を仮設してみよう。我々の存在を、iPhoneの等価物として哲学的にみなすのである。その場合、我々は何か本を読むことが、iPhoneに新しいアプリをダウンロードすることとアナロジカルに解釈することが可能である。Webの大海で必要な情報を取捨選別して、iPhoneに内蔵されているメモ機能を使用したり、それをTwitterにツイートするという作業自体も、人間が「過去把持」において、過去に生起した出来事を想起するメカニズム(トラウマのような心的外傷のケースはあるにしても、人は思い出したい想い出だけを記録することが常に可能であり、今度はこの記録されたものが記憶を新たに塗り替える)のアナロジーとして捉えることができる。スティグレールのいう「映画」(それは二十世紀の象徴の一つだろう)は、我々の生きるこの二十一世紀においては、ソーシャルメディアとWebの未来を前提にした「道具」の問題として再解釈することができるだろう。重要な点は、起源に技術性が到来するという彼の理論の要諦部分にもあるように、肌身離さず所有され我々の思考そのものを発信する媒体としての「新しいメディア」は、我々自身の「身体」と言えるのではないか? という点だろう。現代のテクノロジーが最終的に、脳内の情報処理速度に接近するほどの「新しく使い易いメカ」を待望している限り、我々の外部に位置するもの(例えば肌に接する衣服)が、実は我々自身の「身体」そのものであるという考えは、けして突飛なSF的夢想などではない。起源に到来する技術性とは、まさに我々の存在自体が、いつかテクノロジーによって生産されることを既に暗示しているのである。
 デカルトの Cogito ergo sumは、かくしてスティグレールの本書以後、完全に書き換えられるに至るだろう。彼は以下のように、これからの社会における主体性を規定している。

おそらく「このわたし」なるものは存在せず、わたしは「このわたし」として仮構、前方投射、自我の幻想、登場人物を取り入れる自我の幻想でしかなく、わたしは幻想を抱く(=一人で映画を作る)ことで、自らを無きものとするのだ。…(略)…わたしはわたし自身の過去把持的環境として、わたし自身へと生成し続け、わたし自身を解釈――来るべきもの、到来したものから未だ流出して来るものを書き/解釈すること――し続けるのである。(p104~105)


 デカルトの図式においては、まずそもそも「我」とは一体何であるのか? という点が一度は考究されねばならない。カントは既に『純粋理性批判』の中で、「自我」とは「意識の単なる形式」に過ぎないと考えていた。
 スティグレールは現在、世界中に宏大な「意識市場」が形成されていると述べている。これは精神の環境の「産業化」、あるいは「意識のエントロピー的共時化」などとも表現されているが、要するにある一つの同じ集合的メディアに全人類が依存することで生起する「意識の流れの同質化・共時化」が問題視されているわけだ。これは明らかに今日のアメリカ主導で行われているWeb圏の拡大と、そこに生息する「Web市民」(スティグレールは「ハイパー大衆」と表現)たちによる情報発信のスタイルを指している。スティグレールは彼らの出現に深く警鐘を鳴らしているわけではなく、あくまでも冷静にこの「精神の新たな環境」を見守っている。しかし、第三次過去把持、すなわち技術、テクノロジー、そして今日ではソーシャルメディアが人類の認知構造を掌握することで生じる「意識」それ自体の「物象化」――それに伴って形成される「意識市場」――には明らかな距離を置いている。「間もなく国家的・地政学的境界は無きものとなるだろう」(p130)という表現にもあるように、自動翻訳システムなどの検索プログラムの進化によって、今後ネットに繋がる全ての人々が自国語であらゆるページを閲覧可能になった時、初めて我々は認知構造そのものがWebという技術を中心に規格化されていることに気付くだろう。精神は同じメディアを利用することで、知らず知らずのうちに同じ「型」に嵌っていく。それが新しい社会の思わぬ「落とし穴」にならぬよう、スティグレールの考察を良き羅針盤として意識しておかねばならない。





盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論 (叢書・エクリチュールの冒険)/月曜社

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 現代思想においてポール・ド・マンへの注目は昨今非常に高まっており、俄に「ポール・ド・マン・ルネサンスの時代」という声も耳にする。このページでは、ド・マンの代表作の一つである『盲目と洞察――現代批評の修辞学における試論』の第七章「盲目性の修辞学――ジャック・デリダのルソー読解」の読書記録を残しておく。

【「盲目性」と「誤読」の概念】


 批評家、あるいは作家たちは、自らが主張しようとしたテーマとは全く別の何かを述べざるを得ない。これは文学言語の本性でもある。例えばカフカは「不条理」を描いた作家として今日、多くの読者に認知されているが、カフカ自身が果たしてそのテーマに自覚的であったか、という問題である。カフカが「不条理」を、あるいはブランショが「非人称性」といった一つの明白なスタイルを確立し得たのは、実は彼らがこれらの方法に気付かぬまま(盲目性に捕われるということ)であったからだ。したがって、作品に対する「洞察」はあくまでも読者にとってのみ存在する。ド・マンは更に、書き手の「盲目性」は、エクリチュールそのものと分ち難く結合しているのではないか、という問いを提起している。書き手が自ら設定したテーマに関して最も盲目になり得る瞬間があるとすれば、それは彼らが自分自身が書いたものについて最高の洞察に達していると自認した瞬間である。
 トドロフは、同じ一冊の本を読む行為は、読むたびにそのつど差異化するものであると解釈している。レクチュールの中で、我々は「ある受動的なタイプのエクリチュールをなぞって」おり、読んでいるテクストから意図的に不要だと判断した箇所を省略したり、あるいは解釈を補強するために付け加えたりしながら読解している。換言すれば、レクチュールは既に常に「誤読」の地平へと差し向けられているのであり、それはエクリチュールの本質と限りなく類縁的だということである。読むこともまた、書くことと同様に頭の中で「表象する内容」を取捨選別しているというわけだ。トドロフは、「批判的な読解」とは、「エクリチュールの顕在的ないし潜勢的な形態」であり、読む行為によってテクスト自体がいわば変容するという考えを表明している。このように、レクチュールは実はエクリチュールの様態として解釈可能である。そしてド・マンは、読解したテクストと、読解されたテクストが往々にして抗争関係に至る可能性があることを示唆している。ここで言う抗争関係とは、元のテクストに対して、それを読んだ記録としてのテクストが何らかの「齟齬」を不可避的に犯しているということである。つまり、レクチュールとは本質的に「誤読」であり、書き手も読み手も共に「盲目性」に取り憑かれているということに他ならない。ド・マンはこのように、レクチュールは本質的に内在的な行為(現象学的直観に基づく「虚構」を媒介にするということ)であり、そうであるがゆえに「齟齬」こそが読みの本質であると結論付けている。作家に対する批評家の言説も、こうして本質的に「言明の盲目性」に捕われるのである。
 ド・マンの思想における「誤読」の概念で重要な前提となる考え方は、「テクストは誤読される必然性を前提としている」というものである。そして、テクストとは本質においてアレゴリー様式(メタファーを慣用するスタイル)としてしか成立できず、それは自らが文字通りに受け取られることで「誤解」されるだろうということを知っている、とド・マンは考えている。以下のテクストは、彼の「誤読」概念を知る上で最良のエッセンスとして機能している。

テクストはそれ自身の様式の「修辞性」を説明しつつ、それ自身が〈誤読〉される必然性をも前提としている。それは自らが誤解されるであろうことを知っており、かつそう主張しているのである。それが語るのは、自らが誤解される物語、その誤解のアレゴリーである。すなわち、旋律がハーモニーへと、言語が絵画へと、情念の言語が必要の言語へと、メタファーが文字通りの意味へと必然的に堕落してゆく物語である。テクストは、それ自身の言語に一致してしまうことで、こうした物語をフィクションとしてしか語り得ないのだが、フィクションが事実と取り違えられ、事実がフィクションと取り違えられてしまうということを十分知っている。そうしたことが、文学言語の必然的にアンビヴァレントな本性なのである。(p232)


 このド・マンのテクストは、我々が何か一冊の本を読む時に往々にして作者の意図に反した「誤読」を行うことがあり得る、という素朴な事実を再認識させる程度のものではない。そうではなく、ここでド・マンが真に告知している定式は、テクストそれ自体が本質において「誤読」されるということである。読む、とは、常に既に「誤読」である。これが文学の本性である。ここで言う文学とは、あらゆるレトリック、詩的な含蓄を含み得る全てのテクスト――すなわち我々が今日「小説」や「詩」、「戯曲」、「エセー」、「評論」として書棚に並んでいるのを確認できる全ての文学作品――のことである。
 重要な点は、「誤読」と「盲目性」の概念が、同じ一つの概念を巡る異表現であるということである。読者は作家のテクストを読む時に必然的に「誤読」を犯すが、作家も同じくあるテーマを前景化させようという戦略に自覚的になることで、パラドキシカルにもそのテーマとは異質なテーマを輪郭化させるに至る。それは作家自身の「盲目性」であると言うことができる。本章の最後で、ド・マンは以下のようにこれらの概念を一つの要点となるテクストへとまとめあげている。以下のテクストは、彼の規定する「文学史の基盤」そのものとして定義されている。

解釈とは誤謬の可能性に他ならない以上、一定の〈盲目性〉がすべての文学の種別性をなすのだと主張することによって、我々がまた再確認することになるのは、解釈がテクストに、テクストが解釈に、絶対的に相互依存しているということなのである。(p241)


 では、「誤読」が特に前景化するのはどのような場合だろうか? 例えばそれは、作家の元のテクストが批評的でありつつも詩的なレトリックを多用したりして、高度にアンビヴァレントである場合である。批評とは常にこうした齟齬を払拭し、できるだけ実証的で合理的なアプローチを採用するものであるが、現代思想において再評価されいるルソーのテクストの場合、齟齬は不可避的に多く生じているようだ。つまりルソーは、その演劇的な身振り、文学性において論述にアレゴリーを導入しているのであり、これがテクストにアンビヴァレントな、多くの解釈の間で「齟齬」を生じさせる原因となっているのである。だが、これは果たしてルソーの思想家としての欠陥を意味するのだろうか? 

【ド・マンのデリダ批判の核心】

 ジャン・スタロバンスキーを読解しつつデリダは、ルソーのエクリチュールにおけるある種の「苦悩」を分析している。ルソーは自分の実人生ではけして満足できなかったことを、フィクションの世界で「回復」しようと企てていた。ルソーのみならず、作家の中のある種の者は、自分の実人生において例えば多くの色恋沙汰と華やかな恋愛遍歴を「断念」することによって(ここで一種の象徴的な死が生ずる)、自分が生み出すフィクショナルな世界の中では、断念した挫折感や憧憬を核にした一つの「代理」、「補強」が生じるというのである。ラクロは実直な軍人で、戦争すら起きない喉かな島で仕事をしていたが、描いた『危険な関係』の内部で主人公は「戦う行為」を、女性との火遊びによって「代理」している。つまり、ラクロの断念は文学的にはエクリチュールのための発火源となり、断念したはずの内容が美化を伴って再生しているわけである。こうしたデリダの考察を受け、ド・マンは文学が「真理」にまで到達するという一般的に信じられている通念を疑問視する。文学は初めから「疑わしい」ものであり、それは作家の意識に巣食ったアンビヴァレントな二面性(あるいは複数の分裂した自己)に基づき、現実では達成できなかった内容を象徴的に代行することで、意図的に現実空間に虚構性を介在させる行為である。そうすることで、作家は初めて挫折を自己超越し、虚構を孕んだ新しいこの現実、すなわち作品を自己保存するのである。ド・マンは、このように文学に向かわざるをえないタイプの人間の内面心理を鋭く分析している。文学とは、実は書き手の自己欺瞞に対して彼自身が「盲目」になることによって、自己をフィクショナルに保存する心理的な根を持った行為である。デリダによれば、ルソーは言葉の世界に対する根本的な挫折、「消失」を「実際に経験した」とされ、この出来事が後の彼の文体にも大きな影響を与えている。
 ルソーは「声」を書き言葉の起源として定義しようとしていた。彼の理論体系は、「自然」、「起源」といったものを礼賛している。しかし、ルソーは「声」を起源として規定しつつも、その合理的な立証を果たせていない。ルソーのこの歪な論証について、ド・マンはデリダから敷衍しつつ、「書き言葉から立ち返って、口頭の発話といういっそう根源的な形式へと遡行しようとするあらゆる試みは、そもそものはじめより、書かれた言葉を経験から疎外してしまうという破綻したプロセスの反復に至る」と適切に述べている。要するに、エクリチュールの起源が「声」であるという、「起源」をある特定の器官(声帯)に限定する考えは批判されねばならない。とはいえ、ルソーが「声」を起源だとみなす論述の仕方にも複雑な「齟齬」が存在している。デリダによれば、結局のところルソーは「根源の代補」という形式を取った複雑さ、錯綜に支配されてしまっている。ルソーがなぜ「声」を起源とみなすことにこれ程の躊躇いを見せていたのかといえば、彼が言語の起源を「声」ではなく「アクセントの代わりをする分節化」という、より抽象的で、「声帯」のみならず「指先」で描かれた絵や、音も絵も伴わない「身振り」という原始的言語の可能性を認めていたからに他ならない。つまり、ルソーは「声」だけにエクリチュールの起源が限定されてしまう自己規定におそらく自身である種の「後ろめたさ」を感じていたからこそ、「齟齬」を生じさせているわけであり、デリダによれば、実際ルソーが提起したかったのは「声」=「起源」という単純な図式ではなかったのである。むしろルソーが主張したかったのは、書き言葉の起源は声であるだけでなく、声の起源がまた書き言葉となるような瞬間が存在したということであり、あるいは声、書き言葉に先行して愛の身振りが、あるいは愛を描いた絵が到来するということである。すなわち「起源」にある意味を策定することは、あくまでも「仮設」に過ぎず、本質としての起源は常に「不在」として保存され続けるということである。換言すれば、「起源」とは螺旋状に「声」、「絵」、「身振り」に伴う人体の諸器官へと遡及し、特定の場に安定しないものなのである。デリダが「根源的な〈外在性〉」を言語の起源であると述べるとき、おそらくその主張したい内容は「起源そのもののスパライラル状の逃走」であったと解釈することができる。特定の「起源」として策定された「意味」は、常に先行する螺旋の上部へと遡及し、「意味」はドゥルーズ=ガタリのいう「脱領土化」のプロセスを経て、無限に逃走し続ける。ゆえに、起源が「不在」であるとかろうじて否定神学的に言い得るのではないか。一言で言えば、「起源」の逃走とは、螺旋状の樹木の枝葉を次から次へと上に舞い上がって行く鳥たちの飛翔としてイメージ可能である。こうした考えが端的に表明されているド・マンのテクストは以下である。

ルソーは破棄された起源に代えて、常にいっそう深い、いっそう原始的な状態を用意しなくてはならないのだが、そうすると今度はこの原始状態が、ますます後方に遠ざかってゆかざるをえなくなるのである。同じパターンがデリダにも出現する。というのもデリダは、始まりと呼ばれるあらゆるものの非起源的な性質を指し示すためにこそ、起源にまわわる語彙を維持することを選択したからである――このことはちょうど、分節化とはまさしく純粋な起源からの生成を妨げる構造のことであるにも関わらず、分節化が言語の起源だと述べられる場合と同様である。現前(起源、自然、意識など)にまつわる語彙が突きつける要求を打破すべくこうした語彙を用いることは論理的な袋小路に陥るのであり、またそうならざるをえないわけだが、これこそ『グラマトロジーについて』の全体を通じて一貫して駆使されている戦略なのである。(p212~213)


 言語の起源を「根源的な代補」として規定したデリダに対して、ド・マンはそれを表明している媒体はあくまでも言語、すなわち書かれたもので「起源」を策定しているに過ぎない、と分析している。「書き言葉の存在を払い除けるはずの魔法の杖は、それ自体言語で出来ている」――ド・マンは、起源についてあくまでも言語的にアプローチしていくデリダに対してそう解釈している。そして、言語の起源を「言語以前の揺籃状態」に位置付けつつも、あくまでもそれを言語によってしか語り得ない限界性こそが、「デリダの議論の核心」であると考えている。ド・マンはルソーが用いるメタファーを用いて、「巨人がいる」という言明について考察している。この奇妙な表現は、心理的には「私は怖い」のメタファーであり、このような感覚の主体は他の誰でもなく体験者自身が所有している。ルソーはこのような例を用いて、置換された意味が文字通りの意味に「先行し」得ることを示そうとした、とド・マンは解釈している。このようなメタファーの次元において、「起源の代補」の概念が前景化しているのである。
 ここで我々は、ド・マンのデリダ読解(正確には、ルソーを読むデリダを読むド・マン)から、「起源」という概念自体が有する「螺旋状の逃走運動」の本質に触れた。しかし、この概念の運動だけに注目するのでは未だ視野狭小である。「起源」にまつわるルソーの思想の「齟齬」と、デリダの読み、そしてド・マンのデリダ読解から導き出せる概念はまだ存在する。それは、ルソーとデリダがテクストの弁証法的なプロセスにおいて犯した「齟齬」に来歴した概念である。一言で言えば、それはconjurer(払い除け)たものが、en contrebande(こっそり密輸入)されるという、人間の「思考」に特有の現象の解明である。実際、ド・マンが既に先の引用箇所でも述べていたように、デリダは言語の起源などいかなる場所、言明、器官にも限定され得ないということを示すために、わざわざ「根源的な代補」が言語の起源であると表現してしまっている。それは神が結局、いかなる言語、概念でも表記不可能であることを示すために、神とは本質における「不在」「である」と規定するような誤ちに他ならない。変化しているのは〈対象〉ではなく、表面的な〈記号表現〉に過ぎないのである。すなわち、ルソーにとって「声」であった起源の策定が、デリダにおいては「分節化」とか、「代補」という別の概念によって幽霊的に再現前しているのである。テクストをパースの記号論によって把捉すれば、「声」も「代補」も共に「起源」という〈対象〉を指示する〈記号表現〉であるに過ぎないことが判然とするだろう。こうして、ド・マンの分析はデリダのテクストの「表面」へ、すなわちレトリックやアレゴリーの関係の分析へと向かっていくことになる。
 ド・マンは、私が読んでいて感じた印象からすると、明らかにデリダのエクリチュールの「演劇性」に惹かれている。しかし、今日日本の若い学生の間でもデリダの魅力をそのように把捉していると思しき読み手は極めて多く見出すことができる。ド・マンは、デリダと同じことがルソーにも妥当すると考えている。二人は共通して、演劇的な身振りを不可避的に採用せざるを得ない思想家だったのだ。また、ド・マンはデリダが『グラマトロジーについて』で「ルソー」と書くたびに、「ルソー解釈者」を指示していたと判断している。デリダはルソーをやはり「誤読」しているのであり、彼のルソー論には内容を恣意的に解釈し、論理を一貫させるために意図的に引用しなかったような重要なテクストの見落としがあるとも述べている。つまり、デリダの解釈したルソーは、あくまでも「一つのルソー」であって、これをド・マンは「偽ルソー」などと半ば意地悪く表現してもいる。ここで何が言えるのかと言えば、デリダという緻密な読解の天性を持った分析者ですら、読解においては「盲目性」に憑かれていた、知らず知らずのうちに――ということなのだ。
 とはいえ、ここで我々は、デリダの文体が持つある種の装飾性については、彼自身がモデル読者(例えば『絵葉書』では、ソレルスの恋愛小説に近いナラティブが顕著に見出され得る)にそうした読みを期待しているという商業的側面があったのではないか、という点も指摘しておいた方が良さそうである。実際、私がデリダの翻訳を知ったのは十代後半の頃だったが、その時なぜ彼に特に惹き寄せられたのかという核心に位置するものこそが、彼の文体の「装飾性」に他ならなかったからである。それはデリダが複数の誤読を期待しているというよりも、彼自身が一種の演劇的な身振りと哲学的な思弁の混合形式に「美」を見出していたからではなかったろうか。
 ルソーとデリダの関係性に類似したものを思想史から探った場合、ド・マンはこれに適応するのはおそらくヴァーグナーとニーチェの関係性であろうと考えている。周知のように、初期ニーチェは熱烈なヴァーグナー主義者であったが、次第に彼を偶像視する自己に疑念を抱き始める。そして彼は自著の中でヴァーグナーを利用したかつての自分を批判し始めるに至るのだが、この真の「理由」について、ド・マンは「自らのテクストにおけるヴァーグナーの存在が、テクスト様式のアレゴリーとしての音楽性の邪魔になったからなのである」(p239)という極めて鋭い見解を提示している。ニーチェは「それは歌うべきであったろう、この新しい魂ともなれば、語るべきではなかったろう」とも述べていた。この部分は、「喪われたものは、次の形式において再現前する」というデリダの宗教論『死を与える』でのフロイトの「喪」の理論を看取した名高い定式、あるいは端的にフロイトに倣って「抑圧されたものの回帰」として位置付けることができるだろう。すなわち、ニーチェはヴァーグナーを抹殺することで内部化し得たのであり、彼にとって一つの偶像の破壊はその取り込み、同化、内化を意味したのである。ニーチェは自らの演劇性の根が、実はヴァーグナーの芸術から多くを負っているということをクリプト化するために、いわば自身をあえて「反ヴァーグナー主義者」として「役作り」したわけである。こうした関係は、ルソーとデリダにおいても見出され得るとド・マンは述べている。

【表象と音楽】

 何故、そもそも現代思想において「表象」や「起源」といった概念が重要なテーマとなっているのだろうか?
 一つ言えるのは、18世紀に活躍したルソーがコンディヤックを評価して、「森の中の自然人」という原始的なトポスにおける人間の「怖れ」の感情にこそ「言語」の「起源」があるのではないか、と考えたからである。ルソーはこの点を以下のように述べている――「生存の必要に迫られて人間は互いに避け合わざるをえなくなるが、情念が彼らを近付ける。最初の言葉は飢えや渇きによるものではなく、愛や憎しみ、憐れみや怒りから生じたのである」(p230)。また、18世紀はグランド・ツアーやイギリスの風景式庭園の成立などに代表されるように、自然主義的な場に美学的な「崇高」が見出された時代でもあった。ルソーも自然生活を評価しており、ここに「起源」を巡る一連の問いの一つの思想史的背景の一端を読み取ることができる。また、18世紀はとりわけ、バロック時代に誕生したオペラ、それに続く大衆演劇の興隆といった文化的背景も相俟って、表象〔representation(再現=上演)〕の概念が注目される要素は出揃っていた。
 ド・マンはデリダのルソー論を読解しつつ、「表象」の概念についての考察を展開している。表象とは、模倣(ミメーシス)されたものの存在論的身分が不問に付されているということであり、それは現前させられるものの「不在」を含意している。18世紀の美学理論における定義に従えば、表象は、「たまたまその時そこには存在しないが、別の場所で、別の時に、ないしは別の意識様式で揺るぎなく存在するという何ものかが呼び戻される」(p215)という、記憶術のための記号のような機能である。表象観念のモデルは絵画であり、「あたかも視られた対象が現前するかのように当の対象を復元し、その現前の継続を確証する」(p215)というものである。判り易く言えば、表象とはいわば「記号」を媒介としたミメーシスであり、それは例えば音楽の演奏を例にとっても説明可能である。作曲家の楽譜をオリジナルな原典としてみなした場合、それが様々な楽団の手によって複数回演奏される行為は、機能的な意味で「ミメーシス」であって、まさにrepresentation(再現=上演)、すなわち「表象」である。この時、作曲家の楽譜は「記号」であり、画家がリンゴの絵を描く場合でも、実在する対象はタブローの上でミメーシスを経て、記号として再生産されている。このように、ド・マンは表象概念を、「模倣可能性を、現前性の普遍的証明として確認する条件」(p217)として定義している。
 更に、ド・マンは「記号」について、その感覚的実質が欠けているのは、意味それ自体が空虚だからであると述べている。「記号は、それが意味する空虚の代替物としてそれ自身の感覚的豊かさを与えるべきものなのではない」(p220)。そしてデリダの解釈とは反対に、ド・マンはルソーが「空虚としての意味」に向かっていたと述べている。ここから、彼はルソーにおける音楽論について以下のように解釈している。

音楽がたんなる構造となるのは、その核心が空虚だからであり、それがあらゆる現前の否定を「意味する」からである。したがって、音楽の構造が従う原理は「充溢した」記号に基づく構造のそれとはまったく異なった原理なのであり、そこでは記号が感覚を指示しようと意識の状態を指示しようと変わりはない。音楽的記号はいかなる実質をも根拠としないため、けっして実在の保証を持ち得ない。(p222)


 ルソーは、「音楽の領域は時間であり、絵画の領域は空間である」とした。音楽は、常に「一瞬」の連続として存在しているが、そうであるが故に「意味」に向かう志向の絶えざる挫折であることを余儀なくされる。音楽は「一瞬」ではなく時間的な幅を持ったメロディーであり、連続性である。「音楽とは、瞬間のなかの非同時性のパターンが通時的なかたちをとったものである」(p224)。ルソーは音楽と絵画の差異について以下のように述べていた。

画家が眼に見えない事物を表すことはできないのに対して、音楽家の主な特権のひとつは、聞こえないものを描き出すことができるということである。音楽という動きによってのみ働く芸術は、休止そのもののイメージを伝達するという驚くべき業を成し遂げることができる。眠りや夜の静寂、孤独、そして沈黙さえも、音楽の描き出す絵の中に入って来るのである。(p224)


 ここでルソーは、音楽は「沈黙」を指示し得るという印象的な言葉を残している。この根底的にパラドキシカルな定式は、ルソーの他のテクスト、「絵画はあらゆる光と色の不在を指示する」や「言語は意味の不在を指示する」にも適用されている、と・マンは読解する。このようなルソー特有の、ある面で非常にブランショのナラティブに近接した文体は『新エロイーズ』の以下のテクストにも見出せるという。「自力でいます御存在(神)は別としまして、存在しないもの以外に美しいものは何一つありません、それ程までに人間界は虚しいのです」。(p225)

【本章の読解から考えたこと】

 ある種の小説家はテーマを担うという戦略を持つ以前に、まず「書く」衝動に襲われる。とはいえ、どのようなタイプの作家であれ、テクストを織り成す上で語彙レベルでの「取捨選別」を意識的に行っている。選択された言葉、登場人物の設定、台詞、物語の構成――これら「小説」の各要素は、全て「表象」されたものであり、いわばページの上に「現前」するものである。だが、「取捨選別」しているということは、同時に「棄却したテクスト」が存在していたことをも意味している。それは「テクスト」という形式を採用しておらず、観念段階で終わったものまで含み得る。こうした「テクスト以前」の、意識内部での不可視の「素描」にも相当するものは、「現前」に対して、「不在」を意味する。しかし、デリダの思考によれば、「現前」しているものには、必然的に抑圧したり、棄却したり、削除したりしたものが、何らかの「痕跡」として幽霊的に浮かび上がるのである。宗教論的なコンテクストを用いれば、キリスト教はデモーニッシュな「オルギア」を批判的なかたちで、自身の教義の内部に含み込んでいる。それは「抑圧」されたかたちで「内部化」されたわけであり、新しい形式で再現前しているわけである。
 このように考えると、全てのテクストは本質において「不在」の場へと追放されたものの「痕跡」、あるいは「幽霊的現前」であると規定することが可能だろう。作家が書かなかった、あるいは意図的に削除したり、知られるべきではないとして秘密裏に追放したような「テクスト以前のテクスト」は、実は新しい形式となって幽霊的に現前しているのである。「不在」の場にこそ、作家の本質があるのは、彼ないし彼女がそこに、まるで一族の秘められた呪詛の刻印の記録を封殺するかのようにして、抑え込んだからだ。悪魔払いしようとする者が、逆に「悪魔」そのものに憑依されるという『マルクスの亡霊たち』でのハムレット的な考え方を想起しよう。
 ド・マンの読解は、デリダがルソーの一体何を採用し、逆に何をそれと知りつつ抑圧したのかを暴き出す。デリダが何に対して「盲目」になっていたのか、彼はそれを明るみに曝すのだ。そして、ド・マンはその隠された「盲目」の部分にこそ、デリダの本質を認めている。「不在」であるものにこそ、眼を向けなければならない。作品の内部ではなく、内部がいかに「外部」を追放して内部と化したのか、その「迫害」のプロセスにこそ敏感にならねばならない。「不在」は常に何らかの抑圧された場である。しかし、「現前」しているものに、「不在」(あるいは「盲目」になっていた事柄)は痕跡化した状態で取り込まれているのだ。したがって、実質的には、テクストは何も奪われていない。失われた死海文書の写本でさえ、聖書の中にそれとは悟られぬ新しい形式で密かに埋め込まれ、幽霊的に現前しているのである。
 今後我々は映画であれ文学であれ、作品を読み解くに際して以下のような視座を持つことができるだろう。すなわち、彼ないし彼女は、その作品において「何を書かなかったか?」である。あるいは、何を意図的に「書こうとしなかったか?」――こうした視座は、現前しているテクストが孕む「不在」、「盲目性」の概念を浮き彫りにしていくだろう。あるいは、我々が実際に何かを制作する場合、いかなるテクストが「作品の外」(欄外、parergon)へと無意識であれ追放されてしまったのか、そのような「テクストの墓場」(ユダヤ教の神殿の地下には実際にゲニーザと呼ばれる書物の安置所が存在する)を作品内部へと逆に折り込み、有機的に吸収したスタイルへの志向性が必要である。我々が「不在」に眼を向け、その方に向かって書く行為を進めていくことでしか「現前」しないテクストというものがある。ブランショの幾つかの作品群には、こうした「不在」にナラティブの目的を仮設することによって生じるナラティブそのものの無限の「頓挫」、一種の「無への退隠」を実現していると言える。
 繰り返そう。映画、絵画、文学――これら芸術において、我々はある作品に「何が描かれていないか」を考えることが必要である。作品の構造を読解しつつも、作品の「外」へと追放され、内部に違和や不自然さを生じさせているような奇妙な暗号を読み解き、そこから制作者が犯した「作為性」にまで足を踏み込まねばならない。ド・マンの本論を読解していて感じたのは、そのような緻密で先鋭的なレクチュール=エクリチュールのメス捌きに他ならない。





【disposition(性向)】


 「性向」とは、行為者を規定している社会構造(職業、地位、身分、学歴、威信など)が内在化・身体化されて主観的な心的構造となったものであり、反復される個々の慣習行動を規定している潜在的なベクトル、ある事態を前にしてほとんど「無意識」の内に機能する諸々の基本的な志向性として、定義されるものである。「性向」は、大きく生活態度に関わる「倫理的性向」と、趣味判断に関わる「美的性向」に大別することができる。前者の集合はethos(エートス)と呼ばれ、後者の集合はgoût(趣味)と呼ばれる。

「美的性向」の集合=goût(趣味)


 「美的性向」によって選択される文化的慣習行動は全て、それが「差し迫った必要性から遠く隔たっている」という事実によって序列化/階層化される。必要性への距離が大きければ大きいほど、つまり「脱利害的」であればあるほど、その慣習行動のlégitimité(正統性)は大きくなる。逆に、日常的に必要不可欠で止むを得ず取られた慣習行動ほど、文化的な次元での正統性は小さいものになる。ブルデューが『国家貴族』で述べたように、真の教育は「社会で何の役にも立たない」ことにこそ最大のdistinctionを与えるのである。例えば、「オペラを劇場で鑑賞する」、「美術館で絵画の実物を観る」行為は社会的には何の実益性もない単なる「趣味」だとみなされるかもしれないが、実はこうした分野においてこそ「文化貴族」は最大の時間的/経済的投資を行うものである。

「倫理的性向」の集合=ethos(エートス)

 一つ一つの性向は、行為者の中で全体としてひとつのシステムを構成して緊密に「連携」し合い、相互補完的な関係にある。「美的性向」は全体として「趣味」判断を構成し、「倫理的性向」は集合としての「エートス」を形成する。また、様々な身のこなし、身振りの性向の全体は特にhexis corporelle(身体的ヘクシス)とも表現される。ある作家が愛用するレトリックとか、頻繁に採用されるテマティックなどは、言語的性向の集合として「言語的ヘクシス」と呼ばれる。

hexis corporelle(身体的ヘクシス)

無意識的、慣習的に行う身のこなし。例えば、ジムに行ったりサイクリングしたりするのは、身体的ヘクシスの洗練のため、すなわち体力・スタイル・身のこなし、そして何よりそれらを向上させる「モチベーション」を維持させる意味合いも含まれている。

disposition rétive(反骨性向)

 ブルデューは『自己分析』の中で、自らのハビトゥスを「土着のハビトゥス」と規定した上で、以下のようにその生まれもった「性向」を分析している。「私は少しずつ、特に他者の眼差しを通して、自分のハビトゥスの諸特性を発見した。男の誇りと見栄にこだわる傾向、いつも半分は御芝居だが明らかな喧嘩好き、些細なことで憤慨する傾向、今考えると、これらは私の出身地方の文化的特性に結び付いているように思われる。そのことによりよく気がつき理解するようになったのは、例えばアイルランド人のような、文化的あるいは言語的少数集団の気質について書かれたものとのアナロジーによってである」(p141)。本論でブルデューが自分の持つ「気質」として何度か用いている言葉が、disposition rétive(反骨性向)であるのも、こうした些細なことですぐに怒ってしまう喧嘩好きな村人気質――「土着のハビトゥス」から説明されている。この概念は『自己分析』で展開されるhabitus clivé/cleft habitus(分裂ハビトゥス)の概念とも深く相関している。

「スコラ的性向」

 どのような〈界〉にもスコラ的な貴族主義を身体化した行為者が存在し、「支配の正当化原理」によって暗黙裏に支配している。彼らは揶揄的にセザロパピスム(皇帝教皇主義)などとも呼ばれる。ブルデューの「ハビトゥス」の概念は〈界〉内を巣食うスコラ的性向ないしスコラ的エスノセントリズムの魔を暴き出すために構想されたものである。
 スコラ的性向は行為者の認知構造の無意識にまで浸透し、彼、彼女の行為を全て根源的に支配しているものであり、この枠組みから逸脱したり違反すると排除、追放する仕組みが〈界〉内には存在する。しかし、逸脱もスコラ的性向はその理論によって吸収するものであり、厳密な意味でこの〈界〉の外に出ることは不可能である。ブルデューのいう「身体」はこの〈界〉から生成する。換言すれば、我々のものの考え、行動、趣味、感情の諸様態も含めて全ては〈界〉内の構造的原理の所産であり、この限りで構造を身体化した存在としての行為者の概念が浮上する。

スコラ的性向――これは、全てのスコラ的世界が要求する入〈界〉金であり、そこで卓越するためにうってつけのオクシモロン(同着語法)で、私が「エピステーメー的ドクサ」と呼ぶものを構成している。ドクサとは、明示的・意識的なドグマの形で現表される必要さえない根本的な信念の集合だが、パラドクサルなことに、ドクサほどドグマ的なものはない。スコレーが育む「自由」かつ「純粋」な性向は(能動的あるいは受動的な)無知を伴っている。(『パスカル的省察』p32)


 スコラ的見方を身体化し、権威的に振る舞う主知主義的な知識人という姿がここで浮かび上がってくる。それは隠された形で行使される無意識に対する権力であり、界に存在する行為者はそれに自覚的であることすらできない。それは既に制度として、ルールとして、界内特有の規則として出現しており、その現前している法の中に反映されているからである。

【capital(資本)】


 まず、ブルデュー社会学において「資本」は以下のように大別できる。

capital économique(経済資本)

capital culturel(文化資本)

capital social(社会関係資本)

capital scolaire(学歴資本)



「資本種の交換」

 「資本種の交換」とは、「資本の特定種を他の<界>において流通している資本種に転換すること」である。
 例えば、芸術<界>内部で活躍している写真家Aを例にしよう。Aはファッション系の写真家として活動し、一定の社会的認知を受けているが、他方で彼の「社会関係資本」を覗いてみると、その人脈ネットワークにはファッションデザイナーやモデル、服飾店舗経営者などが含まれている。こうした横の繋がりを利用して、写真家として培った「文化資本」を、今度はファッション<界>に「交換」することで、新しい活躍の場が見出せるかもしれない。このような戦略のもと、写真家Aは学生時代の友人網を基盤にした人脈を利用し、新たに「ブランド」を立ち上げた場合、そこで生起しているのはまぎれもなくブルデューのいう「資本種の交換」である。資本種を交換するためには、それだけの資本量をあらかじめ潜在的に蓄積しているだけの「貴族性」が必要である。
 「資本種の交換」は、「戦略変換」ともいわれ、貴族階級がアンシャン・レジーム体制から、ブルジョワ的な株式会社運営に新しい活路を見出した時点での戦略変換と通底している。貴族は貴族階級特有の卓越化した資本種を、社会体制の変化と並んで絶えず「交換」していかなければならないのである。


【capital culturel(文化資本)】


「定義」

 文化資本とは、経済資本のように数字的に定量化できないが、金銭と同じように社会生活において一種の「資本」として機能することができる種々の文化的要素のことである。学校教育で得られた知識、書物など多様なメディアで得られた教養、育った家庭環境や周囲の友人環境を通して形成された趣味、美術館やコンサートでの芸術との接触や種々の人生経験によって培われた感性なども、文化資本の一種と考えられる。文化資本は各個人の内部に不可視の属性として同化されている場合もあれば、個人の外部に具体的な物として、あるいは社会的に人称された肩書きや資格として客体化されている場合もあって、その形態は一様ではない。

【incorporé(身体化された)文化資本=goût(趣味)】

 身体化された(ハビトゥス化)された文化資本、すなわちgoût(趣味)は、あらゆる財産と同じく、何らかの市場(学校、社交、労働市場など)において投資することが可能で、その結果として一定の「利潤」――物質的利潤だけでなく、他者の尊敬や評価といった「象徴的地純」、「認知資本」も含む――を生み出すことも期待できる。ブルデューは『ディスタンクシオンⅠ』で以下のように「趣味」を規定している。

趣味は分類し、分類する者を分類する。社会的主体は美しいものと醜いもの、上品なものと下品なもののあいだで彼らが行う区別立ての操作によって自らを卓越化するのであり、そこで客観的な分類=等級付けの中に彼らが占めている位置が表現され現れてくるのである。(『ディスタンクシオンⅠ』p11)


 趣味は、ある個人AとBの「差異」を最も強烈に際立たせる指標である。例えば、「私は英文学ではヘンリー・ジェイムズが好きです」と言うためには、翻訳のみならず原書で頻繁に作家の文章を熟読していることは勿論、ある程度のジェイムズについての研究書を読んだ経験を持っていることが望ましいし、比較対象として他の英文学の作家についても知っていることが要求されるはずである。そうした「背景」を理解することで、初めてジェイムズという一人の作家の文学を嗜む「鑑賞眼」が培われる。この意味では「趣味」や「感性」も、それらを培養する土壌の形成という「知的労働」の痕跡を留めている点で、まぎれもない「文化資本」の一種である。
 また、「趣味」は貴族的な「贅沢趣味」と庶民的な「必要趣味」に大別することができる。前者は「オペラを劇場で愉しむ」、「美術館で絵画の名品を観る」、「高級レストランで最高のディナーを味わう」などの行為に代表される。後者は「仕事上の必要性から営業スキルアップの本を義務的に読む」、「空腹を満たすためにスーパーで安上がりで大容量の食品を買う」などの行為に典型化されるような、日常生活において必要性が高い行為を指している。こうした分類から可視化するのは、「必要性」への度合いが低ければ低い行為ほど、それだけ文化的なlégitimité(正統性)が高く、行為者の実質的な文化資本を反映した「美的性向」によって選択されている可能性が高いという点である。

【objectivé(客体化された)文化資本】

 これはbiens culturels(文化的財)を指している。所有している美術品や書物、家具などの質・量によってその所有者の「文化資本」の多寡を推定することができる。つまり、客体化された「物」として眼に見える形式で所有されるまでには、まず文化資本自体が個人に「身体化」されていなければならない。質の良い文化的財は、ただそこにあるだけで「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)を発揮する。「アロー効果」とは、アメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローの言葉で、ブルデューはこれを以下のように解釈している。「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」。

【institutionnalisé(制度化された)文化資本】

 これはincorporé(身体化された)文化資本と、objectivé(客体化された)文化資本の「折衷」的な形態である。代表的なのはtitre scolaire(学歴資格)である。志望校に合格した者は、受験生時代に培った文化貸本を「学歴資格」という「制度化された文化資本」にまで格上げすることが可能だが、不合格者の場合、文化資本は望まれた肩書きへの転換を遂げられることなく、まだ何の制度的承認も得られていない、ただの文化資本としての状態に放置される。これこそ、ブルデューのいう「制度化する権力のパフォーマティブ(遂行的)な魔術」である。
 逆に言えば、文化資本は常に既に何らかの「制度的な形式」への昇華を望んでいる。例えば様々な職業資格や免許証なども、「試験」によって獲得した文化資本の質・量を認証するための制度である。ただし、ヘルマン・ヘッセのように学校を辞めて文学的な活動を開始した作家の場合、この時の「挫折」の体験(制度的に認められない「不可視の領域」)は芸術的に「回収」されることになる(例えば『知と愛』、『車輪の下』)。この「形式」こそが、「文学」である。ブルデュー社会学では、これは「文化資本のméconnaissance(誤認、見過ごし)」と表現されるが、実はこの失敗のメカニズムにこそ、ブルデュー社会学が「芸術の発生」の場へと接続していく点を見出せるだろう。制度への参入の失敗、頓挫という人生上の「危機」体験は、実は逆説的にも「芸術」への偉大な道を開く。

【文化資本の獲得と相続】

 クラシックな趣味が当たり前のように浸透している文化資本の高い家庭に育った子供は、それだけ比較的容易に文化資本の「身体化」を行うようになる。獲得された文化資本は、やがて不可視の「性向」として、子供が成長した際の「趣味形成」を決定付ける。彼らは「遺産相続者」と呼ばれ、子孫へ文化資本を更に「再生産」していく。たとえ両親への反撥から、全く異なる趣味を獲得しようとしても、「性向」へと身体化している上流階級特有の認知構造まで容易に変えることなどできない。文化資本の相続とは、いわば父母から分泌される「文化的樹液」(石井洋二郎)である。生物学的遺伝ではなく、こうした家庭環境によって得られる資本をブルデュー研究者の石井氏は「環境資本」と定義する。日本では、特に親の学歴に近接した学歴を子が「再生産」する構造が顕著である。

【「文化貴族」と「文化庶民」】

 「文化貴族」は『ディスタンクシオンⅠ』で以下のように定義される。

…文化貴族の肩書きの持ち主は、ちょうど本物の貴族の称号の持ち主についてはその存在が専らある血脈、土地、人種、過去、祖国、伝統などへの忠実さによって規定され、ある行為とか技量、機能などには帰せられることがないのと同様に、ただ現に自分があるところのものでありさえすれば良い。というのも、彼ら文化貴族の慣習行動は全て、それらが達成されるための源泉となる本質を肯定し恒久化するものであるために、行為者当人が持つのと同じだけの価値をそのまま持つからである。(『ディスタンクシオンⅠ』p38)


 この説明からも判るように、「文化貴族」は生まれた時点で既に「超越的な本質」を身体化するために必要な「環境資本」に属している。換言すれば、卓越性の標識を一種の遺伝子情報として体内に宿した存在であり、その意味では「貴族」という言葉は譬喩以上の深い意味合いを持っている。彼らは生まれたときから肩書きを自動的に保証される貴族階級と同様に、自分が「貴族であること」をいちいち証明してみせる必要がない。その存在自体が「貴族としての本質」の発現だからであり、全ての振る舞いが貴族的だからである。とはいえ、ブルデューは『国家貴族』においては、「ノブレス・オブリーシュ」を実践しない貴族は「貴族でなくなる」ことを、ノルベルト・エリアスを引用しつつ述べてもいる点にも留意しておくべきだろう。いずれにしても、生まれながらの貴族は、庶民の身振りを真似ても貴族であることに変わりはないが、庶民は貴族の真似をしても、所詮スノッブな庶民にしかなり得ないことに変わりはない。
 ブルデューの「文化貴族」の概念の対立項として、石井洋二郎氏は『差異と欲望』の中で「文化庶民」という概念を提示している。その決定的な差異は、以下のように「食事の取り方」において際立つ。

「〈味覚〉のアナロジーによる文化貴族の諸特徴」

⑴量より質
⑵実質より形式
⑶材料より調理法
⑷栄養より盛りつけ
⑸重くて脂っこい食べ物より軽くてあっさりした料理
⑹気取らない無造作な食べ方より、マナーを重視する礼儀正しい食べ方



 この六つの特徴は、なにも「食事」に限定されたものではなく、例えば「読書のスタイル」や「芸術の審美眼」などにおいても共通した性向である。性向が最も顕著に特徴付けられるのが、いわば食事におけるマナー、その獲得された「味覚のセンス」なのだ。つまり、生活上の必要性から最も距離を置き、「貴族的に振る舞うこと常に意識する機会」、「ある〈界〉内において劣等感を感じる機会」、「生活費について意識する機会」が少なければ少ないほど、その行為者はより「ゆとり」があり、本質的に貴族的である(真の貴族はノブレス・オブリーシュを自然に身体化しているため、背伸びして貴族的なスノビズムを演じる必要もない)。そして、何よりもこうした文化貴族が発揮する優雅なdistinctionは、「無意識的」なものとして自然に行われるものである。あらゆる分野において「貴族特有の〈ゆとり〉」を持つことが「文化貴族」の身振りと深く結び付いている点について、ブルデューは『ディスタンクシオンⅡ』で以下のようの述べている。

生活様式のレベル、そして更には「生活の様式化」のレベルにおける最も重要な差異は、世界に対する、すなわちその物質的拘束と時間的切迫性に対する客観的・主観的距離がどれくらいものであるかによって決まってくる。世界と他者に対する距離をとった、超然たる、屈託のない性向、内面化された客観性に過ぎないがゆえに主観的とはほとんど呼ぶことのできない性向は、その一面である美的性向がそうであるように、切迫性から解放された生活条件の中でしか形成されない。(『ディスタンクシオンⅡ』p211)


 このように、「文化的階級構造」は現代日本社会においても歴然たる事実として存在している。身分の差異の構造は、「文化獲得様式の差異」の内に端的に露呈されているのだ。ブルデュー社会学がなぜ日常において最も卑近な「趣味」分析から出発するのかの理由が、まさにここにある。
 また、文化貴族としてのステータスも、親から子へとそのcapital statutaire(身分資本)を担保として再生産されていく。エリートの家庭で育った子供は、「自分にとって親しみ深いモデルの内に実現された分か」を、初めから一挙に与えられているのである。

Interventions de Pierre Bourdieu avec Jacques Derrida + Jacques Derrida à propos de Pierre Bourdieu
Interventions de Pierre Bourdieu avec Jacques Derrida + Jacques Derrida à propos de Pierre Bourdieu

【distinction(卓越化、差別化)】

 ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionとは、まず何よりも「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。基本的な意味は「区別、弁別、識別」であり、AとBの差異、あるいはその差異の認識である。この言葉は元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。distinctionには、他にも以下のような多義的な意味が存在する。また、distinguerの過去分詞であるdistinguéが形容詞になると、「上品な、気品ある」という意味になる。
 このように、distinctionとは、他者よりも上品で優雅、かつ卓越した存在として自己を提示する行為である。使い方として、例えば「彼女にはディスタンクシオンがある」という場合、これは「彼女には上品な物腰、趣味、教養がある」という多義的な意味を与えることになる。以上から、ブルデューが頻出させるキーワードであるdistinctionは、日本語では「卓越化、差別化」と訳されることが多いが、実質的にはこのような重層的な意味が存在している。

「distinctionの類似概念」

・différences(差異)
・différenciation(差異化)



 そして、ここからネガティブな意味にも繋がるdiscrimination(差別)という概念へも派生していくので、distinctionの持つ概念の射程圏は極めて広範囲に及んでいると言って良いだろう。

【légitimité(正統性)】

 正統性――正確には「文化的正統性」とは、「自然化された社会的差異」である。それは〈界〉内での支配の正当化、あるいは階層化の効果によって、最早恣意的なものとは意識されないほどに正当化されるに至った恣意性である。換言すれば、「自然的差異として誤認されるに至った社会的差異」、「無根拠な根拠」である。ノブレス・オブリージュの原理、あるいは界内の信念(祖国愛、イデオロギーなど)も全てlégitimitéの所産であり、これらは「正統化」された「ドクサ(臆見)」として、ブルデューは『パスカル的省察』でortho-doxie(正統ドクサ)と表現している。légitimité(正統性)、ortho-doxie(正統ドクサ)の類似概念が、illusio(イルーシオ)である。
 イルーシオとは、行為者間で共有されたそれぞれの〈界〉特有の集団的な幻想を意味する。スコラ的貴族主義は自らの支配を正当化するために制度的な認識論的フレームを行為者に与えるが、これがイルーシオそのものである。イルーシオ、あるいは臆見としてのドクサとは〈界〉内に存在し、我々の「身体」を幻想的に構成してきた類のものであり、これは〈界〉内の権力者たちによって暗黙裏に正当化されている。ドクサとは、我々の認識的な鋳型の総体であり、全ての行為者が何らかの界に属する限りで、常にドクサを無意識に受容していることになる。ドクサは往々にして界内の「敵対関係」を生み出す作用因としての機能している。敵対は往々にして二項対立的な図式を取るが、彼らはいわば「対立する相手」を持つことによって自己を界内の場に穿つのであり、このためには互いに対立し合っているという共通の視点が必要である。「正統派に属そうが異端派に属そうが、全て界にコミットしている者たちは同じドクサへの暗黙の帰依を共有している。このドクサが競争を可能にし、競争の限界を画するのである」(『パスカル的省察』p174)。
 文化的に何が正統的であるかというこの問題は、常に〈界〉内でのclassement(分類=階級付け)の操作を通して実現される。例えばクラシック音楽の中でも、リヒャルト・シュトラウスは世俗的だがバッハは正統的であるとか、英米文学でもパトリシア・ハイスミスは大衆的だが、ヘンリー・ジェイムズは厳格で純文学的である、などといった様々な「印象/効果」が存在するが、これを生み出す根源的な操作がclassementである。そして、こうした階層化/階級化の原理は、その〈界〉の「歴史」によって生成する。すなわち、ある作品が他の作品よりもいっそう「高尚」に感じられたり、評価されていたりする背景には、ハビトゥスそのもの歴史的背景が横たわっている。無論、全ての行為者はこうしたdistinguer(区別する)行為を通して、se distinguer(他者から区別される)存在でもあり、classementによって一定の「クラス/位置」に常に分類「される」分類者でもある。

【habitus(ハビトゥス)】

 最も重要な骨格を取り出せば、habitus(ハビトゥス)とは「身体化された歴史」であり、「構造化された構造」である。habitusはラテン語habere(持つ)の派生語(英語haveの語源)であり、「所有」の観念を含有している点が重要である。ハビトゥスとは、図式的には以下の四つの子概念を包括した親概念(基礎概念)である。

・各倫理的性向の集合としての「エートス」
(例)「彼は毎朝ニュースを欠かさずチェックする」(几帳面な性格)
・各美的性向の集合としての「趣味」
(例)「彼女はミュージカルよりもオペラを愛好する」(クラシックな文化への志向性)
・各身体的性向の集合としての「身体的ヘクシス」
(例)「彼女はランチの際、背筋を自然に伸ばして上品に食べる」(家庭環境での食事マナーの身体化)
・各言語的性向の集合としての「言語的ヘクシス」
(例)「彼の日常語には自然に英語が多用される」(外国語の理解、習得)



 これら四つの概念(「エートス」、「趣味」、「身体的ヘクシス」、「言語的ヘクシス」)がひとりの行為者の「慣習行動」を生み出す要因となるわけだが、ハビトゥスとはそれらの総称である。つまり、ハビトゥスとは一言で言えば、「エートル(存在)と化したアヴォワール(所有)である」(ブルデュー)に他ならない。したがって、厳密に言えばハビトゥスは「習慣」という訳語に収まり切るような概念ではない。ハビトゥスは「habitude(習慣)を生み出す強力な〈生成母胎〉」であり、「存在」に先立つ唯一の概念である。主著の一つである『パスカル的省察』でブルデューは「ハビトゥス」を以下のように定義している。

ハビトゥスは継起的局面のデカルト的不連続性を運命付けられた瞬間的存在ではなく、ライプニッツの用語を使って言えば、lex insita(天性の法)でもあるところのvis insita(天性の力)である。すなわち法を備えた、したがって恒常的要因と恒常性を象徴とする…力である。…ハビトゥスは、持続的な連帯の場、身体化された法と絆――団体精神の法と絆――に基づくがゆえに、抑え込むことができない忠実性の場である。ル・コール・ソシアリゼ(社会化した身体)の、ル・コール・ソシアル(社会という身体)――(社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている)に対する抜き差しならない密着である。こうしてハビトゥスは、同じような条件と条件付けの生産物である全ての行為者の間の暗黙の共謀の基礎となる。(『パスカル的省察』p246)


 例えば、農夫の家庭に生まれた美しい少年が成長して、ある貴婦人の眼に留まり、社交界でやがて研鑽を積んで一人の「貴族の青年」に「成り上がる」ような物語を想像してみよう。彼は貴婦人から一流の「身振り」、「礼儀作法」を学ぶことはできるが、農夫の子として生まれ、幼少時に身体化された「性向」を教育によって改めていくのはけして容易なことではない。フランス語の有名な諺“Chassez le naturel, il reviendra au galop.”(本性を追い払ってみよ、すぐさま舞い戻ってくるであろう➡人の本性は容易に変えられるものではない)は、まさに「ハビトゥス」が「存在」にいかに決定的な影響を与えるかを如実に物語っている。〈生成母胎〉としてのハビトゥスの本質は、langue maternelle(母国語)とも表現されることがある。幼少時代の「母の言語」は、成長した後の個人の話し振りや言葉遣いに決定的な影響を与える。それは「隠そうにも隠し切れない階級性の指標」である。
 また、先述した物語の例は以下のような重要な示唆も与える。少年は自身の出自から「脱出」して、上流階級に参入しようと企図したわけだが、このような「越境」行為もまた「ハビトゥス」が初めから組み込んでいる原理である。すなわち、ハビトゥスには、コードからの逸脱や公式への違反も予めプログラムのモメントとして設定されているのだ。
 ハビトゥスとは何かを定義する際のアナロジーとして有効なのが、以下の図式である。

・modus operandi(作り出す方法)=ハビトゥス
・opus operatum(作り出された作品)=行為者の諸特性、生活様式



 つまり、ハビトゥスが我々行為者の慣習行動を生み出す〈生成母胎〉=〈方法論〉であり、いわば我々行為者は〈ハビトゥスの作品〉という図式が成立する。いずれにしても、ハビトゥスは「自我」に統制されることなく、行為者の全ての慣習行動を決定付けていく。この点で、ハビトゥスとはまさに「主体なき実践」であり、ほとんど自動的なメカニズムである。これは即座に「人間は生まれながらに運命を決定付けられている」ことを意味していないが、「構造化する構造」として人間の運命がハビトゥスに著しく左右されることは否定の余地がない。このように、ブルデューの認識論は単なる構造主義の次元を越えた、「生成論的構造主義」の立場を採用していると言われることもある。

「一次的ハビトゥス」

 一次的ハビトゥスとは、「最古層の早い段階でのハビトゥス」を意味し、端的にこれはgoût(味覚)である。ブルデュー社会学の中でgoût(趣味)の概念が極めて重要であることは既に述べたが、この語は同時に「味覚」をも意味する。

habitus clivé/cleft habitus(分裂ハビトゥス)

 ブルデュー自身、農夫の家系からフランス最高の知的養成機関へ進学できたという「奇蹟を受けた者」としての誇り、自信を抱いていたことを『自己分析』で述懐している。こうしたエリートとしての聖別された感覚を、ブルデューはカント派に挑戦を試みたハイデッガーにおいて顕著に見出している。「エコール・ノルマルの時代から、わたしの選択の多くがある種の貴族主義によって決定されていたことを告白しなければならない」(p157)。しかし、ブルデューが身体化した貴族主義とは、「分裂ハビトゥス」に内在する「傲慢であるよりは絶望からくる貴族主義である。何故なら、学力競争にはまってしまったことを振り返って恥じる気持ちと、一時期染まってしまったbon-élèvisme(優等生主義)への反撥とに根ざす貴族主義だからである」(同)。
 ブルデューは、自分の研究スタイルに「分裂ハビトゥス」が顕著に身体化されていると解釈している。例えば、「しばしば、一見卑近な経験的対象に大きな理論的野心を投資する」(p158)。これはおそらく、『美術愛好』で展開されたような、「美術館や劇場へ行く」行為が、なぜ「映画館へ行く」行為よりも顕著に「上流階級」的な文化的パラメータの指標となるのか、といったことを徹底的に暴き出そうとするブルデューの極めて鋭敏な「慣習行動」への分析として顕在化しているだろう。

【pratique(実践、慣習行動)】

 pratiqueとは、ほとんど生活のあらゆる領域にまたがる日常的な行為の数々であり、以下のように規定される。

「性向」×「社会的状況」=「慣習行動」


 我々の「性向」は「ハビトゥス」の所産である。性向は我々の「身体」に書き込まれているのであり、そうである限り、我々は常に社会的に(再)生産されている。したがって、この「性向」それ自体が実は「歴史」的である。例えば、ある人間がオペラを愛し、実際に何度も足繁く劇場に通うまでの知的変遷それ自体に、彼の周囲を取り巻く社会的歴史の地層が横たわっている。この限りで、「性向」には「歴史」が身体化している。
 次に、「社会的状況」は諸「界」の構造が齎す現状を意味する。例えば、会社員の場合、朝八時から夕方六時までは少なくとも企業に拘束されるという状況は、彼の「趣味形成」の場としての「余暇」に大きな影響を与える。無論、こうした現状を生産しているのも社会であり、その社会空間を成り立たせている「歴史」である。この歴史は、「身体」と表現される。
 この二つの要素が一体化して、それまで「潜勢態」であった「ハビトゥス」自身が、いわば自己展開し始める。これこそが、我々の「日常行為」であり、ハビトゥスの「顕在化」である。このように、行動とは「歴史化された身体」=行為者が、社会空間において「身体」を還元していく行為であり、この継続によって身体は逆に歴史化する。行動こそが歴史を展開する限り、この図式は「世界の生成原理」として把捉することが可能となる。それは実は二重の「身体」論であり、部分としての「身体」がそれを取り巻く社会という「身体」に包摂されているという事実を提示しているのである。ブルデューはこれを『パスカル的省察』で以下のように述べている――「社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている」。

【象徴的権力】

 象徴的権力(あるいは象徴的暴力とも表現される)とは、端的に言えば「支配関係の構造を身体化したもの」である。ブルデューは『パスカル的省察』で以下のようにこの権力が行使される原理を規定している。「象徴的暴力は意識と意志を武器とするだけで克服できると考えるのはまったくの幻想である。象徴的暴力の有効性の条件は、性向という形で身体の中に持続的に書き込まれている。この性向が、特に親族関係の場合、またこの関係をモデルとする社会関係の場合、感情あるいは義務の論理の中で表現され体験され、それらの社会的生産条件が消滅した後も、長く生き延びるのである」(p307)。すなわち、象徴的権力とは、我々の全ての社会的行為を産出するファクターである「性向」(ハビトゥスから再生産されたものとしての)の内に書き込まれている(例えば両親の口振り、趣味、小学校時代の教育環境など)ものであり、高度にクリプト化された状態で身体化されているものである。それは、「支配されている」という事実を支配者側によって巧妙に隠蔽化するための原理であるが、ブルデューのこの概念はこうした内幕を曝け出す効力を発揮する。
 象徴的な権力は、ハビトゥスの性向の暗闇の中で発現する。この性向の内部には、行為者の認知システム、それぞれの行動や趣味を生み出す構造が書き込まれている。被支配者側の認知システムの内部に、既に支配者側による「支配の正当化」原理の図式があらかじめ書き込まれている以上、実はこうしたクリプト化された「見えない暴力」は、被支配者側と支配者側の「共犯関係」があって初めて成立すると言うことができる。換言すれば、「支配される」という状況が成立するためには、我々ひとりひとりの認識するフレームと、「国家」権力を最高形態とする、公的に「客観的構造」とみなされているフレームが一致することが必要である。第二次大戦前の日本の社会的状況を鑑みれば判然とするだろうが、強力な「支配の正当化」原理が作動している「界」内においては、プレーヤーが「支配される」という拘束的な感覚を麻痺化させてしまっている現象が見られる。こうした正当化された支配体制は、「界」外に脱出して冷静に分析してみないことには可視化され得ない。ある国家に存在する時、我々は必然的にその国家に特有のイルーシオ、あるいはドクサを身体化してしまっている。これは、例えば作家を目指して「小説を書く」という、一見極めて「自由」に見えるような行為においてすら、「文学」界という固有の場によって既に「小説」というエクリチュールのシステムが各種の「正当化された様式」に染まっているということを我々に思い起こさせる。既成秩序への暗黙裏の服従は、系統発生的な身体としての「集合的歴史」(例えば「文学史」)と、個体発生的な身体としての「個人的歴史」(例えば作家の個人的歴史)が、共通してそれぞれの身体の中に書き込んだ認識構造と、それらの構造の器の役割を果たす「界」(この場合は「文学」界)の客観的構造との間の「一致」の産物に他ならない。
 象徴的権力のメカニズムによる支配は極めて強力である。このメカニズムの本質を、ブルデューは「二重の自然化」、あるいは「二重の共犯」と呼ぶ。つまり、支配層のみならず被支配層も「支配の正当化」原理を身体化し、その内に「界」特有のイルーシオ、あるいはドクサを抱え込んでいるという事実である。換言すれば、既にそのような社会構造が存在しているのであり、これを身体化したものとして行為者の認知システムが生産されるわけだが、社会構造もまたそうした認知システムを刷り込まれた行為者の集合として生成しているという二重性である。

【制度化された視点】

 ブルデューは『美術愛好』で「眼は文化的産物である」という定式を提示しているが、これは「視点が対象を創造する」というソシュールのテクストを敷衍したものである。同様の見解は、ヴェルフリンが『美術史の基礎概念』で展開した認識論的な枠組みとも相関している。ヴェルフリンはその結論部で、以下のようにブルデュー社会学の基礎に存在する認識論を共有していた。

全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている。あるいは――同じ言い回しを繰り返すが――可視的なものは<眼>のためにある種の形式のもとで結晶する。しかし、全ての新しい結晶形式の中で、世界内容の新しい側面も現れ出るであろう。(ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』p336)



「全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている」とは、換言すれば「あらゆる芸術作品は例外なく様式の枠内にある」ということである。

【文化的再生産(cultural reproduction)】

『ディスタンクシオン』で提示された、行為者を社会空間において差異化させる二大差異化原理――すなわち「文化資本」と「経済資本」である。この二つの資本種は、『国家貴族』で理論化された「再生産原理」である「同族型再生産」と「学歴型再生産」によって、親から子へと受け継がれる。

【champ(界)】

 例えば文学という〈界〉ひとつ取り出しても、そこには直木賞寄りの「大衆文学」と芥川賞寄りの「純文学」でそれぞれの〈界〉があり、〈界〉内で更に細かく階層化が起きている。全ての行為者は社会空間上で、あるいは「趣味」の分布図において何らかの〈界〉のプレイヤーとして存在している。

【agent(行為者)】

ブルデュ―社会学における「行為者」とは、pratique(実践、慣習行動)に伴って形成される「過程的な〈わたし〉」である。ブルデューは、このようにデカルト的な伝統的「主体」(sujet)を意味するキーワードを周到に回避し、あえてagentを「主体」の意味で使用する。

【Ancien régime(アンシャン・レジーム)】

 ジョルジュ・ルフェーヴルによれば、Ancien régimeとは、フランス革命以前の16世紀から18世紀において制度化されていた政治体制である。ブルボン王朝の絶対王政はこれに当たる。アンシャン・レジーム下のフランスでは、「聖職者」、「貴族」以外は全て「第三身分」として扱われ、この三つの身分しか存在しないと考えられていた。ブルデューの社会学では、往々にして「支配の正当化原理」を行使する権力装置のメタファーとして登場する。

【aristocrate(アリストクラート)】

 aristocrate(アリストクラート)とは、「貴族」+「高位聖職者」によって構成された社会的階層である。語の使い方としては、aristocratic(アリストクラティック)、制度としての意味で用いるならaristocratie(アリストクラシー)である。アントニムは「デモクラート」であり、この限りでアリストクラートはデモクラートに対立する政治的・社会的な概念である。アリストクラートは自分たちの利権を守るための「支配原理」に貫かれており、かつこの原理を正当化しようとする点で共通する。ブルデューは彼らを「凡庸なホモ・アカデミクズ」や「〈界〉内のスコラ的貴族主義」のメタファーとして用いる。