夕暮れの丘
その日、僕は、綺麗な海と彼方に光る夕日がよく見える丘へと足を運んだ。
悲しいことや辛いこと、耐え切れなくなった時は、いつもここへ来て、夕暮れに身を溶かして頭と心を空っぽにさせる。
しかし、今日は懐かしい記憶が、空っぽのコップに注ぎこまれるように、脳裏に流れ込んできた。
それは僕が幼少の頃に出会ったお姉さんの話。
今と同じように何かあれば、僕はこの場へ来ていた。美しく焦げた空は、幼い頃の僕にでさえ、大切なもののように思えたからだ。
この時間帯にここへ来る者は多い。
その一人であるお姉さんは、僕の理解者でもあった。反論も、自分の意見も、何も言わず、僕の話に耳を傾けてくれた。本当の姉ではなかったけど、僕を弟のように接してくれた。
僕もそれに答えていたはず…。
しかし、平凡なある日、お姉さんはこの丘へ来なくなった。
名前も住所も職業も、何も知らなかった僕は、何もできないまま、無気力に立ち尽くした。
帰ってきてほしい。
僕の頭をまた撫でてほしい。
笑顔で、僕の話を聞いてほしい。
僕は不安で一杯だった。
交通事故で失った両親と姉。
あの時と同じように。
気付けば、大切は手から零れ落ちてしまっている。
それから今日まで、お姉さんは一度も姿を見せてはくれなかった。
老いたベンチへ腰をかけると、不気味な音をたてて、辺りは静まり返る。
物は必ず廃れていく、あの時綺麗だったベンチも、今ではただの置物にしか見えない。
僕の記憶も、いつかは新しい記憶に押しつぶされていく。お姉さんとの記憶も、このベンチのように痛み、老いてゆくのだろうか。
限りない悲しみを、青色の空に塗りつぶしたような夕暮れを見ながら、僕はそう考える。
その刹那、手に温かい感触が伝わってきた。
驚くことはない。
なぜか、それは自然なことように思えるから。
怖がらなくていい、そう呟いている。
両親、姉を失い、心の支えを失くしたあなたに、私は触れてしまった。
あなたの支えになればいいと思って。
だけど、それは許されることではない。
死んだ者が、生きている者に触れてしまうこと。
私はそうした。
長い時をあなたと過ごした。
生きていた時代、私ができなかったことを。
ある日、私は気付いた。
もう、私が支えなくても。
あなたの後ろには多くの人が笑っている。
もう私は必要ないと。
「でも、あなたが私の事を思っているから、成仏・・・できないんだよ?。」
遠い昔に聞いた、心の奥まで届く、透き通った優しい声が聞こえる。
「もう、あなたは独りじゃないでしょう?あなたの心にはたくさんの人がいて、たくさんの人があなたを支えている。」
声の主は、僕の頭を優しく撫でて、静かにぬくもりを消しゆく。
「またね、あなたに触れることができて、凄く嬉しかった。」
次の瞬間。
僕は大粒の涙を流す。
そうだったんだ。
僕のため。
僕を支えるため・・・。
「ありが・・・・とう・・・・・・・。」
静かに呟く。
落ち着きを取り戻した後、僕が更に気がついた。
お姉さんは「またね。」と言っていた。
もう一度会えるのだろうか?
その考えは違った。
お姉さんはいつでも心の中で生きている。
そして、いつでも僕の傍に。
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もともとpixivに投稿していたものです。