日本語の「いただきます」の語源は、中世まで遡る。


目上の者や供物を飲食する際に、それを頭上までかかげたことから、山頂を意味する「頂き」という言葉が当てられたそうである。


それと同時に、生き物や作物から命をいただくという意味でも通用するのではなかろうか。


われわれの「生きる」とは、決して己れひとつでは自らの生命を維持できないことを知り、周囲を取り巻くひとたちや自然環境に目を向けつつ、感謝をすることではじめて胸を張ってそう言えるのだと思う。


ところが、学校での給食費を支払っているのだから、子供にいただきますを言わせないでくれ、などと申し出た親御さんのことが一時話題となった。


私はこのことについて、あからさまに非難するつもりはないが、いかんせん当人が主張する意図がみえてこないために理解に悩むところではある。


つい先日、たまたまインカ帝国に関するドキュメンタリー番組を見る機会があった。


13世紀以降、アンデス一帯を中心として繁栄をつづけたインカ文明は、1533年にスペイン人のピサロによってその終焉の時を迎えたわけであるが、500年近くが経過した現在でも、神や自然に対する信仰や伝統文化は、生き残った末裔にまで脈々と受け継がれている。


自然への畏怖や敬意が失われつつある昨今、ものがあることがさも当たり前であるような錯覚から、無味乾燥な物質主義あるいは拝金主義がまかり通って、われわれの命の淵源を支える精神論が蔑ろにされてしまうような未来を、一体誰が心待ちにするというのであろうか。


また、何の因果でそうなったか、依然として底辺で生きることを強いられ、貧困に喘ぐ環境難民の存在も忘れてはならないだろう。


そういう中で、自分自身の「生きる」ことへの自分なりの回答を模索しつづけること、そして議論し合うことが、さまざまな問題を解決するための糸口になると私は考える。