だんだん競輪の面白さがわかってきた、個人的には勝負よりも選手個人とその絡みに興味があった。

中野浩一の現役姿をみる事はできなかったが滝沢や井上は間に合った、二人共もうピークは過ぎていたけど

レースに出るとその人気は大きかった。


また吉岡があと1周で7番手からまくって勝つレースモを何回もみた、この場合配当はいつも少なかった。

少し落ち目になってから、どうして中断位置をとらないのだろうと不思議でならなかった、相変わらず7番手

からまくる競争をしていた。

早く引退したが彼には彼の美学があって中断位置を競り合ってまで取るようなレースはしたくなかったのかも

しれない。 京王閣での涙の引退式にはグランプリ優勝者よりも拍手が多かった。


吉岡には個人的に恩義がある、平塚で開催されたオールスターの前夜祭で吉岡と同じテーブルになり、

ビールをついでもらった、その上特賞の景品(5万円宿泊券)を当ててもらった。

今はスカパーの「稔真が行く」なんて出ているが結構ひいき目で見ている、早く日本一の競輪解説者に

なるように応援している。


競輪解説者も数多くいるけど、私は工藤元四郎が好きだ、特にどこがということはないがかもしだす

雰囲気が好きだ。 娘のわこさんのデビュー当時わこさんとの解説には思わず笑ってしまった、

わこさんも解説者に振るのに工藤さんともお父さんとも言えず「解説者はどうみているのでしょうか」

と逃げていた。 今はそんなことはないのでしょうが、そもそも二人の組み合わせをほとんど見ない。


競輪解説は悪いけど参考程度にしている、私は穴党なので解説者の言うとうりには買えない、解説者

も自分の解説とは別の車券を買っているんだと思う。


解説者はどれくらい車券を買うのだろうか、その日のギャラを全部つぎ込むほどの馬鹿はいないだろうが。


花月園の最終日、内林久徳が特観フロアで車券を買っていた、証拠に携帯写真を撮らせてもらった。


磯一郎さんが車券を買うのを数箇所で目撃した、昔は競輪中継というと磯さんと高橋しげみ姉さんの

コンビで方々の競輪場を席巻していた。

今ではドームの中継のみになってしまったけれど、この二人のコンビネーションは最高だと今でも思う、

磯節といわれたレース中継としげみさんの軽妙な突っ込みは一朝一夕で出来上がったものではない。


しげみさんが「しげみの食べて歩いた競輪の街」という本を発刊されたときドームの入り口にならんで

本を買いサインと握手をしてもらった、1200円もした、、磯さんが隣にいたので本にサインをもらった。


続きます




次に競輪場に行ったのは松戸です、当時家内がテレビのシナリオライターをめざして東京のシナリオスクールへ通っていました。

彼女は高根沢君をモデルにして競輪選手のシナリオを書こうと言い出しました、これは結構おもしろいかもと私も反対はしませんでした。

そこで実際競輪場へ連れていけと言うのです、ちょうど松戸の記念開催の期間中であり強引につき合わされました。 松戸の記念は毎年お盆休みに開催されます、私の体調が悪いにもかかわらずバス、地下鉄、電車、電車、電車と乗り換えて松戸まで行きました。

結果暑さにやられて耳鳴りが始まりました、この耳鳴りは現在も持病となって残っています。

でも後悔はしていません、いずれどこかで耳鳴りは始まったでしょうから。

レースは一切覚えていません。


そうこうしているうちに自分一人でいろんな競輪場に行ってみるようになりました、車券も買うようになりました、たまに当たって「なんでこんなにつかんのだ」とぼやいていたら見知らぬ親父が「筋だからつかねーよ」と、うん

筋ってなんだ、知らないことばかりでした。


それから勉強が始まりました、HOW TO BOOKを買い集めました。 ここでも競輪はマイナーで競馬の本は棚一杯あるのに競輪に関しては殆どありません。 九州の小倉へ出張で行った時2種類もみつけて、さすが競輪際の地元だなと感心した記憶があります。


続きます

3月31日で花月園競輪が廃止になった、当日はいろんなイヴェントがあって一日中楽しかった、だけど終わってみると寂しさがこみ上げてきた。
私が競輪を始めたのも花月園、ホームバンクであり一言では伝えきれない思い出がある。

これを機会に私の競輪人生を書き留めておきたいと思いこのブログをはじめました。

今から約15年前、栃木県から一人の選手がデビューしました、名前は高根沢幸房君です。
私は高根沢君を子供のころからよく知っており、当時は私の家の近く(横浜市)に住んでいました。
父親はあの高根沢秋男氏であり、元競輪選手でした。 ご存知のかたもいらっしゃるかと思いますが
高根沢氏は客のヤジにかっと来て金網越しに自転車をヤジった客に投げつけたという侍です。
自転車協会も前例の無い事件で対応に苦慮したらしいのですが、最終的に高根沢氏が競輪選手を辞めることで決着しました。

それから約20年長男の幸房君が競輪選手としてデビューしました、栃木県に所属したのは、彼の叔父さんが宇都宮に住んでおられ、幸房君を手元において育てておられたからです。
彼のデビューは山口県の防府競輪場でした、2戦目が花月園でした。
これは応援にいかなければと近所の仲間(遊び人が多かった)と花月園にかけつけました。

その時の結果は覚えていません、競輪も初めてでした、5周といってもはじめのうちはトロトロ走って最後だけ気をいれて走るレースを見て、なんで最初からぶっとばさないのかと不思議に思いました。

続きます