私は昨年転職した。転職前から過労鬱に陥っていたのだが生憎躁鬱型であったためか軽快な日も多く、自分が精神疾患であることに運悪く気づかないまま会社を移り、その後重症化。休職して現在に至るが、移籍先としては迷惑千万な話である。そして、未だ復職許可が出ない。朝起きれず昼まで過眠を繰り返している現状では、所謂作業所であってもマトモには働けないだろう。

 

自分をこのような状態に追いやった主治医に対する殺意も募る。しかし、実際に行動に移したところで誰も得しない。子供に殺人者(それも医者殺し)の息子というレッテルを貼るだけだ。それに、どんなにイメージトレーニングしたところで、殺すという行動をとれるとは思えない。ある意味活力を奪い去られたといえる。去勢された精神疾患者だ。

 

このような現状には当然、希死念慮が浮かぶ。いっそ死ねたらどんなに楽か。朝、目覚めの時間自体は早い。6時前には大抵目が覚めている。それからが長い。昼まで「死にたい死にたい」と思いながら傾眠する。そして恐怖がMAXとなった時点で漸く布団から抜け出す。脳を散々薬で弄くられた結果なのか、(医師がいうように)元の性格なのかは解らない。社会的要因(失業危機)も当然拍車をかけているだろう。

 

しかし、今日、漸く死ねない理由が解った。簡単だ。『死ぬのが怖い』から。本当に怖い。つい最近まで、安楽死について色々調べていた。ネンプタールがいいとか、しかし製造元工場(メキシコ)が随分前に閉鎖となった現在、どこに行っても手に入れることが極端に難しくなっている模様。ちなみに大学は化学科であるが、有機合成を専攻しておけばよかったと後悔している。自分で合成できなくもないからだ。ただ、そう簡単ではないだろう。

 

脱線したが、YoutubeでAssisted Suicideに関する動画を色々観ていた。どうやらベルギーでは、terminal illness(末期的病状)ではなくとも、死にたいという状況であればアシストしてくれるらしい。勿論精神科医の認証が必要であるが、世界中で一番基準が緩いだろうと思う。そして、散々その手の動画をチェックした後、「死ぬのが怖い」から死ねないという、半ば当然の理由にたどり着いた。そう、やっぱり怖い。

 

脱線ついでに、死の恐怖を紛らわせるためか、TOCANA(グロ動画・写真掲載あり)など死体写真掲載サイトを以前、よくチェックしていた。言葉に出すにも憚られるような無残な死体写真や殺人動画に見入っては思考停止。「次は俺かな」などしたり顔で茫然としていた日々を覚えている。今考えると薬の離脱症状の延長だったのかもしれない。今はちっとも観たいなど思わないから。ただ、そうした動画や写真に対する妙な抵抗感が身についてしまった。

 

でも、自分の思考には浮上しなかった「死ぬのが怖い」という当然の理屈が今は十分肯定できる。良く人は”どうせ死ぬんだからわざわざ死ぬ必要はない”というが、確かにそう思う。どんな死に方をするかは解らない。末期癌になると決めつけているフシはあるが、交通事故かもしれないし、それこそ誰かに殺害されるかもしれない。こんな世の中だ、俺みたいに狂った危険人物はゴマンといるだろう。でも、自分で自分の身を殺めることが、今は本当に怖く思える。あれだけ自殺企図を働いたにも関わらず、だ。

 

逆に言うと、正常な感覚を取り戻しているのだろうとも思う。メジャー服薬中はさも当然のように首吊り(今考えると”ごっこ”だが)をしていた。一回は完全に意識が飛んだ。断薬直後も何度か試みた。しかし、断薬後2ヶ月も経つとそういう気分には流石にならなくなった。同時に、「死が怖い」という人間としての当然の理性が戻ってきたのだと思う。

 

勿論、希死念慮が払拭された訳ではない。今でも死にたいという気持に襲われる。ただそれは、自分という失敗品を抹殺したいという欲求ではなく、一児の親としての社会的使命を、それも経済面におけるミッションを果たせなくなってしまったことに対する恥や悔恨に端を発していると思う。このまま失業しマトモな仕事につけないとすると、子供を大学にやるなどまた夢物語。死んで保険金で罪を償う、そういう気持に襲われる。

 

それでも、「死ぬのが怖い」という自然な反応が帰ってきたことは喜ばしいと思う。発症前は哲学書を読み漁り、したり顔でMement Moriなど呟いていたものだが、実際に死に直面するとそんなこと言ってられない。薬の副作用も何もなく理想のために死ねる人間は、本当に異次元の存在だと思う。そして、そんな存在になりたいとはもう思えない。

 

俺は、生きたい。