今日は父の日なので、父のことを書いてみる。

 

が、どんな人か語ろうとすると、言葉が出てこない。
私は父のことが嫌いだから

悪い点ばかり浮かび、良い点を考えることを拒絶する。

でも客観的に見れば、それほど悪い人ではない気がする。

 

「1度しかない人生、自分の好きなように生きていいじゃないか」

その言葉を実行して、母への思いやりがなかった人、かな。

 

子供の頃の私は、自分の家族を理想の家族だと思っていた。
それがガラガラと音を立てて崩れたのは小学3年生の時。

姉と共に「子供部屋へ行っていなさい」と

2人だけで食事するよう言われた。

でも団地の狭い家、ただごとではない雰囲気は伝わってくる。

深刻な表情で話をする父と母。

“大人は泣かない”と思っていた私は
初めて母が泣いているのを見て衝撃を受けた。

 

父はまともに働かない人だった。

その事実が子供達にはっきり伝わってからは、

母は父との仲を取り繕おうとはしなくなった。

2人が表立って喧嘩するところは見たことがない。

ただ、母は父と話すことを止めた。

家の中の空気は常に冷たく張り詰めたものになった。

 

そして母は頻繁に、私達に父の愚痴を言うようになった。

誰にも言えずにずっと我慢していたのだろう、そう思う。

だけど「それを子供の私に言わないで欲しかった」と

愕然とすることまで、母は話した。

けれど私は母に絶対的な信頼を置き、父を軽蔑するようになっていった。
家で内職をしていた母が、パートに出るようになり、
正社員になって働くようになり、ずっと家計を支えていたからだ。

もうすぐ20歳という頃、私が急性胃腸炎で救急車で運ばれた。
その頃、母は毎日残業をしていた。

「家にいるのが辛かった」という姉はいつも帰りが遅く、

父と2人か、私1人で家にいて、家事の一部を負担していた時期だった。

母はそのことに責任を感じたのか、

それから間もなく声が出にくくなってしまった。
接客業で店の中心人物として働いていた母にとって

精神的ダメージも相当大きかったと思う。

 

その3年後、両親は離婚をして、母と姉と私の3人で家を出た。

別れの挨拶も何もしなかった。

普段も父と話すことがなかったのに

そんな場面で言う言葉なんて何も見つからなかったから。

 

3人で暮らすようになり、

最初の頃は父の話題が出ることもあったけれど。
ここ数年は、姉との間でごく稀に出ることはあっても、
母がいる時は「お父さん」は禁句のようになっている。

家を出てから26年。
あれ以来、父とは1度も会っていない。

そして生涯、会いたくないと思っている。

 
父に暴力を振るわれたり、
暴言を吐かれたりしたことは1度もない。
自分でも何故、これほど父を拒絶するのかわからない。
でも今の私は、一生会わなくても後悔しないと
断言できてしまうのだ。