今日、マルコの福音書3:28の「神を冒瀆することを言っても」とは、どういう意味なのか質問を受けた。

 

新改訳2017ではこう訳している。

 

まことに、あなたがたに言います。

人の子らは、どんな罪も赦していただけます。

また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。

 

聖書協会共同訳は、

 

よく言っておく。

人の子らが犯す罪や

どんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 

 

字義通りに訳していると言われるNASBは、

 

Truly I say to you, 

all sins shall be forgiven the sons of men, 

and whatever blasphemies they utter;

 

そして、原文のギリシア語(NA27)は、

 

Ἀμὴν λέγω ὑμῖν 

ὅτι πάντα ἀφεθήσεται τοῖς υἱοῖς τῶν ἀνθρώπων τὰ ἁμαρτήματα 

καὶ αἱ βλασφημίαι ⸀ὅσα ἐὰν βλασφημήσωσιν·

 

ὅσα ἐὰν は「誰(何)でも」という意味なので、「彼らが冒涜したどんな冒涜の言葉も」が直訳で、日本語として訳すならば、聖書協会共同訳のように、「どんな冒瀆の言葉も」が適当だろう。

 

「神を冒瀆することを言っても」とは訳せないが、どうして新改訳は「神を」と訳したのだろう?

 

新聖書注解(山口昇)には、

 

「たとい〈神をけがすことを言っても、それはみな赦していただける〉のである」

 

と書いてあるが、どうして「神を」という原文にない単語を入れて訳したのか、その言及がない。

 

並行箇所のマタイ12:31,32にも、ルカ12:10にも言及はない。

 

どの英訳にも「神を冒瀆することを言っても」という訳は見出せない。

 

手元にある注解書には、「神を冒瀆することを言っても」という釈義はない。

 

もっとも、誇張表現として理解はできるので、誤訳だとは思わない。

 

しかし、「神を冒瀆することを言っても」とは書いていない。

 

「どんな冒瀆の言葉を言っても」である。