えがく さとみんです
長い間、私は
「わかりたい」
が強かった
何が、わかりたいのか・・・
さへも
わかりたい
もうこの時点でグルグル(笑)
無限ループ
「できる人にみられたい」
「わかった人、府に落とせた人」になりたい
なにを、って
happy理論や
引き寄せの法則など
みんなが、わかりたい、と思っていることを
わかりたい
なぜか
自分で自分のことを
わかっていないから
外に答えを求めたんでしょうね
自分で自分を、まんま認めていないから
(5Bを認めてないから)
外から、認められることを求めたんでしょうね
「わかりたい」の最初から
そもそもずれている
私は、約3年間
「朝笑い」というコミュニティに入っていた時
そこにいた今の言葉でいえば
「正気」の主催者たちから
ずっと
「最下位を受け入れたら楽になるよ」
「何者を目指しているの?」
「その言葉には、本当の音がのっていないんだよな~」
「説明を聞きたいんじゃない、さとみの感じたこと・体験を聞きたい」
・・・と言われてきた
愛をもって、何度も何度も言ってくれていた
(ここでの経験が、私の勘違い土台を壊してくれたから、今のSBKに入ろう!というアンテナが発動したんだと思う)
私は、それまでの学び(過剰なインプット)から
知識だけは、パンパンで
何か問われると
私の頭ん中の引き出しから
それに対する「自分の体験」ではなく
「知識」を引っ張り出してくるだけだった
だから
「聞いているのは、そういうことじゃない」って
言われちゃって。。
そりゃそうだよね
人がその人を通じて知りたいことは
「知識」じゃない
その人を通したからこと、感じたこと
わかったこと、見えたこと・・・
が知りたいんだから
それがわかった今は
人とコミュニケートする上で
この自動的に「知識の引き出し」につながっていた
木の枝を、「自分の体験」につなげていきたい
それには
机に座って、聞いたことをノートにまとめていることではなく
動く
動く
動きながら、自分の感じていることを、感じる
(文章にすると変だけど)
やりながらしか
本当の枝につながらないんだな
と、今は思っている
それには「やったことリスト手帳」はぴったりだ
ちょうど
そんなことを考えていた昨日
養老孟司さんの著書
「ものがわかるということ」
の中で
こう結んでいた
自然がわかる、生物がわかる。
その「わかる」の根本は、共鳴だと私は思います。
人間同士もそうでしょう。
なんだか共鳴する。
・・・・
理屈で仲良くなることはできません。
(本文抜粋)
「わかる」の根本は
共鳴
つまり、頭(思考)ではなく
やっぱりカラダ
理屈じゃなく
身体を震わせるには
頭パンパンカチコチ女では
共鳴はおきない
「腑におとす」という言葉も
五臓六腑の「腑」のことで
(著者より)
やっぱり身体だ!
「わかりたい」と思っている時点で
カチコチは始まっている
「わかりたい」と思った自分に
ダメ出しするのも、違って
ただ、あ、身体ゆるませよ〜♡
と思い出して行動すればいい
「わかった」とは
繰り返し、コツコツ動いた
結果、そうなった
ってこと
動いた先にみえてくるね
よし
今日もブログ書けた
やったことリストに書こう
9月レッスンスケジュール
詳細は
徐々にアップデートしていきます