だいぶ前、月イチで会ってる高校の同級生が、こんなことを言い出した。

「子供欲しいとは思うねんけど、子供をなぜ産むのかという理由を改めて考えた時に、『エゴ』以外の理由が見当たらない。それ以外の理由を自ら考えられるようになるまで、子供を産めない。子供から聞かれた時に答えられないのは嫌だ。」


ここで僕が、率直に思ったことは、

「こいつやっと、僕の高2か高3の時に考えてた思考に追いついたか。」

でした。

でしたが、

当時から色々考えても僕が未だにわかってないのだから、この子に子供は当分無理だなと失礼なことを考えその時を過ごしていました。


「愛とは何か?」と言う難易度に並ぶ「なぜ人は子供を産むのか」。

正直僕は、子供を産まないので、この問いをほぼ諦めていますが、似たような問いが世間で物議を醸しているのもあり、便乗してここに書き留めます。


「諦めている」とは言ったものの、友人の考えもあり、少し考えてみたのです。

しかし、僕はすごいことに気づいてしまいました。

それが、

「自由が皆無である隣の国ですら、人は子供を産む」

ということ。

無意識に聞き流しているけど、改めてこの事実を理解しました。そしてこれを説くのは非常に難解だと思いました。この話をしてから何回か友人に会いましたが、流石に絶望に叩きつけることはしませんでした。

しかしながら、上に書いたことは非常に興味深くて、調べてみたのです。

すると、面白いことに例えばアフリカの貧困層なども、貧困であればあるほど子供を産むということを言っているyahoo知恵袋の人を発見。



興味深くてもう少し調べてみると、やはり「貧乏人の子沢山」という慣用句の通り、間違いでは無いとのこと。↓



また、Yahoo知恵袋の人が言うには、「元来子供は労働力だった」というもの。

隣の国の話に戻ると、正直現在の隣の国の情報は、新聞のネット記事などで出ているものもあるけど、それこそ鵜呑みに出来ないので、少子化やら言われていますが、なんとも言えません。

が、以上を踏まえ、これだけは言える。

どれだけ周りが不幸せでも子供を産む人は存在している、つまり自分のために子供を産むのだ。

ということ。

誰も「幸せな人を増やしたいから」という「エゴならぬエゴ」は持たずに子供を産む。「子供を産んで幸せになりたい」や「幸せな家庭を作りたい」と、自らがそれを成すことで幸せになるような考えで、新しい命を作る。

と、改めて思い知らされたところはありました。こんな平和な国で生まれ育ったから、こういうことをあまり深刻に考えることもなかったけど、「子供を産むことはエゴである」という意見を改めて理解するとこんな感じ。


では、

「子供を産むことはエゴでは無い」

という考えに偏って意見を述べてみましょう。

結論から言うと、「エゴ」無しに子供が生まれる訳はありません。

妊娠出産は、「この世に存在している我々」が思いを成すことで、「存在しないものを作る」所業ですから、「エゴが0である」ということはありません。

それを踏まえた上で、先に述べた箇所から取って意見してみます。


誰も「幸せな人を増やしたいから」という「エゴならぬエゴ」は持たずに子供を産む。「子供を産んで幸せになりたい」や「幸せな家庭を作りたい」と、自らがそれを成すことで幸せになるような考えで、新しい命を作る。


という箇所。

ここに言及してみましょう。

さて。

長くなりそうだ。


僕はずっと考えていたことがあります。

この世で言う「恋」と「愛」の違いは何か。

「恋」とは、「自分本位なもの」で、「愛」とは「他人本意なもの」と、概ねこれに僕は同意見です。

しかし、しかしよ。

「愛」っちゅうのはね、「その人を愛したい」と思ったからこそ、そこに生まれるものでは無いのか、と思ったことがかつてありました。

つまりは、「愛」も、もとはと言えば「自分本位」なのではないか。余談ですが、そこを大いに履き違えているのがまさしくあのホストね。

話を戻すと、この話をするにはまず「愛はなぜ自分本位では無いのか」を考えなければいけないのです。

僕が今持っている答えは、

「自分が相手のことを考えて行動したいと思ったことが、相手の求めることであれば、それは愛として成立する」

というもの。

多分、「愛」は自分以外の誰かが目の前にいないと成立しえない概念なのではないか。

「恋」はいなくてもできる。ってかそもそも「孤悲」ですから。

そういえば「愛」の語源とはなんなのでしょうね。←分かりませんでした。

しかし「振り返って気持ちにとどめる」っていう意味があり、漢字もそういう成り立ちだとか。

また話が逸れた、、戻します。

ともあれ「愛」とは根本は自分本位ではあるのですが、そこに自ら以外の幸せが対価なしで発生することで、「自分本位」ではなくなるのではないか。

そういう解釈をすれば、「愛」は「自分本位」では無い、つまり「エゴ」ではないと証明出来るわけです。

そして、大元の話に戻すと、


誰も「幸せな人を増やしたいから」という「エゴならぬエゴ」は持たずに子供を産む。「子供を産んで幸せになりたい」や「幸せな家庭を作りたい」と、自らがそれを成すことで幸せになるような考えで、新しい命を作る。


この部分。

「子供を産んで幸せになりたい」や「幸せな家庭を作りたい」という気持ちは、「エゴ」ではなく「愛」に分別されるのではないかと思うのですね。

多数の人が考える「幸せな家庭」という風景。

そこにいる子供は「ガリガリ」では無いでしょう。そこにいる子供は「傷だらけ」では無いでしょう。そこにいる子供は「道具」でも無いのでしょう。そこにいる子供は「孤独」でも無いのでしょう。

つまり、そこにいる子供は「幸せ」では無いでしょうか。

何が言いたいかと言うと、

一見エゴに見える「幸せな家庭を自分が築きたい」というのは、「子供と共に幸せになりたい」という意味に近いのではないでしょうか。もちろん「子供」とは「自分以外の存在」であります。故に、そこには自然と「自分が子供を幸せにする」という、「愛」なる考えに近いものがあるのではないか。

その対象(「子供」)が目に見えない状態で「幸せな家庭を築きたい」や、「子供を産んで幸せになりたい」という旨を言うから、エゴに聞こえるだけでは無いのか。

なぜなら「愛は相手がいないと成立しない」から。

そもそも、「愛」というものは、だいすきをいっぱいと、少しのエゴでできてるんだから、言うまでもないかもね。

結局何が言いたいかと言うと、

「愛」とは、根本的に考えれば「自分本意」から始まるものであるが、自らが成す行動によって「自分以外の誰かの幸せ」が「対価無し」に発生した時、「愛」として成立するのではないか。そして子供が欲しい理由としてよく挙げられる「幸せな家庭を築きたいから」というものは、一見エゴに見えるが、そこには「自分以外の誰か(子供)の幸せ」が必須であり、言い換えると、「子供を幸せにするために子供を望む」ということと同義となる。つまりは、「子供が欲しい」ということは「愛」と共通する箇所が多く、エゴももちろんだが、それだけでは無い。

何度も言われた、「それが全てでは無い」と。

そういうこと。

エゴにも見える、エゴの部分もある。

しかしそうじゃない部分もあり、

きっとそうじゃない部分の方が大きい。


そう信じていたい。


この話を誰かにしようかなと思ったけれど、

こんな難しいこと誰かに言ったら、その「誰か」の中で「なぜ子供を産むのか」に対する答えが、僕の答えで支配されそうだから、誰にも言えない。

あたにしか言えない。

もし良ければ。