論文関連のことが終わってから、

何かがおかしくなっている。



多分、僕が人について考える時間が少なくなっている。

一度どこかで書いたことがあると思う。

「論文は最高のひとり遊びだ」と。

僕は昔からひとり遊びするのがすきだった。

でも、誰かと遊ぶのが嫌いだったわけじゃない。それでも遊ばなかったのは、遊んでくれる人が家にいない時間が多かったからというただそれだけで、誰かと遊ぶのもすき。

というか多分、誰かと遊ぶほうが好きで、ほんとは誰かと遊びたい。


僕の今までのひとり遊びは、考えることだった。

でも突然それが、「ひとり遊び」じゃなくなった。一緒に議論できる友達ができたのである。

それがとても楽しかった。今までひとりで遊んでいたことを人と共有できたのが嬉しかった。

でもある日、その友達は文字通り僕の前から姿を消した。

ただ、姿は見えなくても、文通にてやり取りをすることはあった。でもそれが、目に見える議論に適うはずもなかった。

前のように円滑に進まない議論が弾む訳もなく、議論の回数は減っていった。それと同時にあまり考えなくなっていった。

しかし、僕は新しいひとり遊びを見つけた。

それが、執筆だった。

執筆は楽しかった、「友達」と意見を交わせないのは寂しかったが、完璧にはならないパズルのピースを繋いで、そこに自分だけの世界を作るのが本当に楽しかった。

でも、それを仕事にはしたくないと、直感でそう思った。

そして、終わりの無い執筆も、終わりを迎えてしまった。

そこから僕が思っているのは、「早く文章が書きたい」ということだけ。



いつから人のことを考えてないだろう。

いつから人のことを考えるのが面倒だと思うようになっただろう。

いつからインスピレーションがわかなくなっただろう。

いつから考えることを楽しいと思えないようになっただろう。

いつしか、「常時人について考えること」は、「僕の論文への熱意」に取って代わられた。

それは何故だろうと思った、執筆だって「常時人について考えること」には変わりないのに、なぜ最近執筆への熱が「常時人について考えること」を上回ったのかが分からなかった。


でもそれはもしかしたら、

今までひとり遊びだった「考えること」は、もう自らの中では「ひとり遊び」に該当しないからではないかと思う。「一緒に議論してくれる人」がいない今、もう昔のように1人では楽しめないのではないか。

だから考えるのが面倒になっているのではないか。

また、先にも述べたが、ここまで楽しいと思える論文を、僕は仕事にしたくないらしい。「なぜか」と昨日何度も聞かれたが、僕が答えたのは、

「なんか、仕事にしたら嫌いになりそうな気がするから」

だった。



ところで。

昔僕は、音楽をやっていた。音楽は昔から大好きで、昔から習っているピアノ以外もずっとしたいと思っていた。

吹奏楽部に入って後、音楽は楽しかった。

みんなでやる音楽自体は楽しかったが、結局、人間関係のせいで「吹奏楽」というものは嫌いになった。

それでも音楽自体は嫌いになれぬまま、新しいジャンルの音楽を始めた。

みんなでやる音楽自体は楽しかったが、結局、人間関係のせいで、そのジャンルの音楽も嫌いになった。

ふたつの音楽を嫌いになり、残った楽器はピアノだけだった。僕はひとり遊びを共有するとどうやら良くないらしい、ということと、どうやらひとり遊びを継続させたものの方が、自分の中でずっと好きでいられる、と学んだ。

そして、「考える」と言うことがふたり遊びでなくなったのは、結果として対面できなくなったからに過ぎないが、一度覚えてしまった「ふたり遊び」を、再度「ひとり遊び」に切りかえることも、僕にはどうやら不可のようである。

だからこれからは、「自分のひとり遊びを外に漏らさず守りたい」と、そういう感覚なのかもしれない。


だから、人肌が恋しいのかもしれぬ。

「もう誰とも、ひとり遊びなんて共有しない」

と思っているから、人肌恋しいのかもしれぬ。




今日、

とうとう後輩との関係が、少し歪んでしまったのも、

そのせいかもしれぬ。