「なんで話しかけんのよ」

「ごめん」

「あんなにやにやしてたらばれるに決まってんでしょう。
仕事中話しかけるの禁止!」

「わかってるよ。今日だけだもん」

「しかも、何も待たなくたって、早く帰れる日は帰りなさい。
受付より営業のほうが普段忙しいんだからさぁ!」

「待ちたかったから待ったんだもん」

「だもんじゃないよ」

「うわぁ、もう『受付の水地さん』と別人じゃん!
雪ちゃん普段愛想よすぎだよ。みんないけるかもって思っちゃうじゃん。俺がそうだったように」

「仕事だもん。私ごときに誰も思わないって」

「えー。
絶対だめだよ…」

「ほら、駅着いたし帰るね。明日も頑張ってね」

「送っていく」

「は?いいよ、家に帰って寝て、明日もよく働いてよ」

「だって帰りたくないもん」

「女子かよ。もう行くね。ってか改札まで来なくていいから」

「帰るの?」

「だから、女子かよ」

「わかった。俺は帰る、だからこっちみて」

「もう何?
あ、ちょっと、駅なん…」

「キスしちゃったぁ。
俺、男子!」

「…ばかか!帰る!」








「おはようございます。水地さん」

「…。
おはようございます、岡崎さん。
時間、大丈夫ですか?早く行かれたほうがいいんじゃないですか?」

「いや、昨日楽しいことがあってさぁ」

「そうですか。また今度ごゆっくりおはなし聞かせてくださいね。今じゃなくて」

「雪ちゃん、みんなにまた今度とか言ってないよね?
俺だけだよね?ねぇ」

「岡崎さん。私の拳がふり上がる前に、どうぞご出社ください」

「はい」

「行ってらっしゃいませ」
ミツキと付き合う、というのは、猫を飼うのと同じだけの覚悟がいる。

こちらは自分の持てる時間の多くを、ミツキの遊びや食事に当て、
有り余る愛情をかける。
しかしだからといって、ミツキが自分のために何かをしてくれるわけではけしてない。
ミツキは食べたり、寝たり、盛ったりするのが仕事で、
すくすくと成長するのを傍らで見届けられる、というのがミツキと付き合う理由でなければならない。
それ以外の、例えば寂しいときにそばにいてもらうとか、
誕生日を祝ってもらうとか、
そういうことを期待してはいけない。



ミツキはベッドに体育座りをして、漫画を読んでいる。
かれこれ2時間あの調子だ。
ときどき、こらえられずに笑ったりしている。
今日は頭のてっぺんでつくったお団子がとてもかわいい。


「ハルチも読みたい?」

こちらの視線に気づいたのか、漫画から視線をあげて、こちらを伺っている。

「ううん。持って帰るの大変だし全部読んでいきなよ」

あと残り12冊をミツキが持ち帰るのは難しいだろう。

「ありがと」

「うん」


ミツキはまた、漫画の世界へはいっていく。

「ハルチ、だーい好き」

「え」

「うそー」

「…っ」

一瞬赤くなった顔を隠したくて、眉をよせ怒った顔を作る。

「ミツキ」

「嘘」

ベッドのふちに座っていた俺の隣に寄ってきたミツキは、
そういって細い腕を首に回した。

「嘘の嘘なの」

それこそ猫が背のびをするようにして顔を近づけ、
軽くキスをされた。


「ねぇ」

「なぁに」

「襲っていい?」

「どうぞ」
「ねぇ、キスしたら怒る?」

「怒る。彼氏としかそういうことしないの」

「彼氏になるから、してもいい?」

「だめ。キスがうまい人としか付き合わないの」

「じゃあ試してみようよ」

「いや。だって恋人としかしないんだもん」

「俺、キスうまいよ」

「自己申告じゃだめ」

「じゃあ推薦人をつくれってこと?」

「それも、だめ。好きな人としかしちゃだめなの」

「じゃあ」

「…っ」











「彼氏にしたくなった?」


「…おまけで」
「襲っていい?」


「どうぞ」

捕まれていた肩にちからが加わり、
私はベッドにたおれた。
隣に腰かけていたはずのハルチがいつの間にか私の上に乗っていた。
顔にかかった前髪を避けると、細い目をさらに細くして笑った。

「いとおしい?」

「うん」

ハルチは首にかけられたの私の腕の重みに体を任せるようにして、
ゆっくり沈み、キスをした。
パーマをかけたハルチのやわらかい髪。
白くてさらさらした肌。
すべてが心地よくて、思考がゆっくり白濁していった。
セックスの悩みを語り合う番組に、
杉本彩さんを起用するNHKの思い切り。

彩さん、好きっす。
ハリウッドはさぁ、
偏屈で気難しい男と、
自由気ままな女が出会って恋に落ちるじゃないか。

そういうのを、映画好きな母と夜な夜な見ると、
間違った理想の男性像を描くことになる。

少女漫画を正しく読めば、
正義感が強く、自分をひたすら愛する男こそ理想とするのに、
ハリウッドじゃあそれは嘘臭い男。
誠実そうなやつに限って、ろくでもない。
マザコンだったり、女をものみたいに扱ったり。
女に近寄るけど、ラストで男に鼻をあかされる。


そんなえせ誠実男より、
気難しい男が最後に見せる、

「行かないでくれ」

の切ない横顔に、
どうしてこうしてきゅーんとなる。

愚か。
シンデレラシンドローム。

なんとでも言われても平気。

髪を染めにいく。
わりとまめに行っている。
担当は山田さん。


「色素の薄いこどもみたいになりたいです」

「…」

「透けるかんじの…」

「わかった。外国のこどもでしょ?」

「そうです!」

「インジャパンじゃなくてね。
赤みをおさえてね」

「…!(赤みをおさえてって言おうと思っていた)
はい!」

「マットの8だな」

「…!(マットって言おうと思っていた)
はい!」

「いつものあれもいれとくよ」

あれ、とはいい色にでる薬らしい。


「あ、天然風パーマにするから~」

「…っ!(まさに言おうと思っていた)
お願いいたします!」


山田さんはニュータイプ。ガンダム。
目覚めると隣で、真っ白い顔をして知名が眠っている。
死んだように冷たい頬を撫でると、
指に返ってくる湿った感触があった。
まるで、自分のてのひらのなかで、生きているようだと感じた。


小さな頃から健康だった。
二つ下の弟がよく熱を出し、母親がつきっきりになるのが疎ましいくらいだった。

「ねぇ」

ベッドから出ようとすると、知名が俺を呼び止めた。

「ああ、ごめん」

薄い肌を吸いながら、おはようといえばよかったと思った。
知名が自分を呼び止めるとわかっていたから、
つい行動を用意してしまった。



知名は健康で健全な俺を必要とする。
たぶん、俺がいなくなれば、
頭がおかしくなるくらいには必要としていると思う。
実際、仕事なんかで数日会わないとき、
知名が何も食べていないのは明らかだった。
何一つ動かされない部屋。
出掛けた朝に見たのと同じベッドの上に、
知名はぐったりと横たわっていた。

起きなかったんじゃない。
そうできなかったのだ。


いわゆる心の病気なのかもしれない。
毎日自分に跡をつけろという。
俺が着けたキスマークや傷をみて、
知名は深く呼吸する。
ヤニクラのように頭をしびれさせて、そのまま眠りに落ちる。
俺がいなければ、満足に息も吸えないのだろう。


彼女を救いたくて、
そして、苦しめたくて、
俺は彼女から離れない。



母親が欲しかったんじゃない。
母親になりたかったんだ。
ただひたすら、俺を求めるものが、
腹の底から欲しかった。

腰に巻いたタオルを引きずって、ベッドから離れようとする亮に、

ねえ、と声をかけてタオルを手繰った。

すると彼は、


「ああ、ごめん」


と言って、鎖骨と胸の間の皮膚を吸った。

私は赤くなった跡を見ると、

やっと息が深く吸えるようになって、眠りに落ちた。

そろそろヤバいと、頭のどこかで感じながら。




学校に行くのが嫌だった。

幼稚園よりも時間が長くて、

家を離れている間に、母が死んでしまう気がした。

友達もいたけど、

頭の中でペアリングすると、

私はいつもあぶれる気がした。

とにかく、

自分のいる場所、いていい場所ではないのが明らかだった。

小学一年生の小さな体に、

その不安とストレスは耐えきれるものではなくて、

毎朝吐いた。

行きたくないとは言わなかったけれど、

そんな私を見て、

母は名札の裏にうさぎを書いた紙と、

100円玉を入れてくれた。

何かあったら電話をかけて帰ってきていいから、

と母は言ってくれたけれど、

持ってきてはいけないお金を持ち歩いていることで、

帰って後ろめたさを感じた。

だけど、

うさぎの絵が書いてある紙は、

トイレに入って見るたびに、心の底から安心した。

家に帰れば母が待っているのだと、

確信できた。





「もう一つつけようか」


「いいわ。大丈夫」


昨夜セックスをしたときとは違って、ひんやりと伸びたシーツに裸の体がこすれると、

すごく気持ちが良かった。

タオルケットがあたたかい。


「俺がつけたくても、だめなの?」


すでに着替えを終えた亮がタオルにくるまったままの私に近づいて、

首筋を噛んだ。

今日から出張に行く亮は、いつもよりも心なしかしっかりと身なりを整えている。


「痛い。二つつけても、消えるのは同じ日だよ」


それに、私から見えないところにつけてもお守りにはならないのに。


「これは、俺用。男除け。だから、見えるところにね。知名からは見えなくて悪いけど」


「ありがとう。浮気しないように、心がけるわ」


亮はやらしいのと、そうでないのの中間のキスをして、

出て行った。

私は、急な眠気に襲われてドアが閉まる音を聞かなかった。



依存症だと診断されたわけではない。

でも、気になって本やらインターネットやらで見てしまうと、

どうやら自分がそれに当てはまるようだとわかった。

そうでなくてもわかっていたけど。


亮は今日帰らない。

飛行機に乗る。

地下鉄も使う。


考えてはいけないと思いながらも指を噛んでしまう。

たこができた私の指を、

私が眠っているすきに亮が撫でているのを知っている。

狸寝入りだけれど、

それをされると、じわりと涙が出てくる。



必ず無事で帰ってくるように、

死ぬほど願う。


早く、ベッドから出なくてはと思いながら。