久しぶりに映画の話です。先日「メッセージ」(原題 Arrival)と言う映画を見てきました。原作の「あなたの人生の物語」がなかなかの秀作で、どんな風に映画化されたのか、楽しみでもあり、不安でもあり。結論から言うと、不安的中、でもまぁこれはこれでいいか、と言った感じです。

以下ネタバレ

 

原作の方は異星人の宇宙船が突然地球軌道上に現れて、地上にルッキンググラスと呼ばれる一種のコミュニケーションツールを置くんですが、誰も会話ができない。そこで言語学者のルイーズ(主人公)が軍に呼ばれて異星人の言語の解読に挑戦する話です。

この小説の肝は2点。

ひとつは言語の習得で人間の認識の仕方や能力が変わるという点。

これは実際外国語を習得した人は、その言葉で話す時には思考そのものもその言葉に影響されることを経験してると思います。

この異星人の言語は「前後左右」とか「過去現在未来」と言う概念はなく、全ての内容を並列的に同時に表現します。

そしてルイーズは彼らの言語を習得するうちに過去も未来も一度に認識する能力を得ます。そして語られるのは自分の娘の生まれてから死ぬまでの一生で、しかもその娘はまだこの時点では生まれていません。

 

もうひとつは変分原理。

全ての物理現象は何らかの最大値、あるいは最小値を取るようになっているという考え方で、従来の因果律に基づいた物理学とは違い、物理現象の「目的」が最初から織り込まれている点がかなり異質です。作中では異星人の言語構造の説明として、光の屈折を例に光は発射された瞬間にどこへ向かうか、また途中に何があるか知っている必要があると、と説明されています。

しかし一方で、この考え方を押し進めると、人生で起こることには全て意味があり、最終目的に向かって最大値、あるいは最小値を取るようになっている、と言うようにも取れます。むしろ作者の意図はそちらにあったんではないでしょうか?

人は不幸に直面すると「なぜ?」と問いますが、因果律的にその答えを追求すると、ユダヤ・キリスト教的には原罪に行き着いてしまいます。古代イスラエル民族は、戦争に負けたり天災にあったりすると、それは自分たちが神との契約を守っていないからだと考え、律法の遵守を強化しました。それでも災いが続くと、これは自分たちの中にもともと原罪があるからに違いないと考えるようになりました。これが今でもユダヤ・キリスト教のベースになっています。しかしこの考え方では人間の存在そのものが最初からネガティブなものになってしまいます。ところが、変分原理で考えれば、人生には意味があり、その中で起こることにも全て意味があることになります。

小説の方は「三世の書」や人間の自由意志の問題も絡めながら、「人生の意味とは何か?」を問う秀作になっています。

結局この話は作者が娘を亡くした母親に「たとえ不幸な出来事でもこれには意味があるんだよ。娘さんの人生も短かったとはいえ、きっと意味あるものだったに違いない。いや、あなたと過ごした全ての瞬間がお互いにとってかけがえのないものだったんだよ」と言いたいために、異星人やら言語学やら変分原理やらを持ち出してSF小説に仕立てたとも取れます。

 

で、今度は映画の方です。細かい点の違いは置いといて、決定的に違うのは「変分原理」が出てこないこと。ルイーズが言語の習得により未来を見渡す能力を得たことにフォーカスされています。しかも原作にはない中国軍と異星人との一発触発の状態とか、結局最後は「アメリカが世界の危機を救う」といういつものパターンに落ち着いてしまいました。なんだかタイムトラベルもののバリエーションのような感じです。

あの原作の持つ哲学的思考実験はどこへ行ったんだ?変分原理が出てこなければ、ルイーズがなぜ娘の将来を知りながらそれでも生むのか、説明がつかないじゃないか。

まぁ娯楽映画ですからしょうがないです。しかし映画は映画で別物として見れば、それはそれでおもしろかったです。異星人の文字のヴィジュアライズもなるほどそう来たかと納得させるものがありました。どことなく前衛水墨画に見えるのは、アメリカ人から見た異質な文字は、結局東洋的なものになるんでしょう。

 

ちなみに映画の原題はArrivalですが、私は「メッセージ」の方が原作の雰囲気を良く伝えてると思います。まさに異星人からのメッセージでもあり、作者からのメッセージでもあります。日本の配給会社の担当の方、ブラボーです。

DVDが出たらもう一度見たいと思います。

 

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