生まれる時点で大枠の運命は決まっていて変更は基本的に不可能というスピリチュアリズムの考えであるが(最近の精神医学者による退行催眠による転生の研究もほぼ同様の結論を出している。)神が人間の運命を定めたということは、人間は神の傀儡、操り人形に過ぎないという意味ではない。神と人間は一体不可分の関係であり、究極において人間の本質は神であるから人間自らが創造したもの(少なくとも人間が了承して)でもあるのだ。
 
 確かに「人間は幸福になるために存在している、幸福であるべきだ、運命は自ら創造するものである」という気がする。それは正しい、ただしそれはあくまでも永遠の観点に立って、究極においての話なのだ。つまりそれこそ「実相」人間ができることであって、家庭環境も自分のスペックも自分では選べず、気付いたらこの世界に存在していた程度の存在である有限な物質人間が運命を創造できるという意味ではないのだ。

人間が行き通しの永遠の存在であるならば、ライプニッツが主張するように、この物質界だけの人生だけをとってみれば幸福とはとても言えなくても、宇宙存在全体、永遠の生命の観点からみればより大なる幸福に至るために不幸、物質的悪(病気、天災等)が、いわば必要悪とでもいった位置付けでこの世界に存在しているのだ。ライプニッツが繰り返し「全体からこの物質世界、人生を考えよ」と言っているのはそのためである。
 
 「辛いのは幸せになる途中だから」という言葉がある。至言だと思う。苦しみや悲しみは迷いの結果、迷妄に過ぎず、本来無いものと悟れば幸福になれるはず、良いことだけを見て、良いことだけを心に描くようにすれば不幸が避けられるといった御利益宗教などに手を出すのではなく(そもそも円満完全な存在なら迷いを生じるはずなどないではないか。「実相人間」はその程度のものなのか?こんな世界しか作れないのか?)、様々な試練は未来のより大きな幸福のために必要なもの、神の大いなる計画の一部なのだと捉えるべきなのだ。
 
 これを家族に喩えると、神である父が子供に辛い思いをさせたくないと完全に庇護しているとする。それはそれで幸福であり、不幸など存在しないだろう。しかしこういう小さな幸福に満足せずもっと幸福になろう、、おいしいものも食べたい、大きな家にも住みたい。そのためには子供にも働いてもらうしない。しばらくは辛い思いもするだろうが、その辛さを乗り越えれば幸せが何倍にもなって返ってくる。 
 
 単純にいえば、神の宇宙創造の目的はこのようなものではないだろうか。その際、無計画であるなどとはとても考えられず、子供にどんな仕事を、どの位の期間、どのようにさせるかといったことを最初に熟考するはずであり、つまり、有限な肉体人間にとっては不幸に思える人生でも、精神を鍛えるために必要であるから経験させよう。でもそんな人生ばかりが続くと辛すぎるから、精神的にはあまり鍛えられないかもしれないが楽しい人生も時々経験させようといったように、人間の運命を永遠の観点からトータルで計画するはずなのだ。不幸な人生はやはり必要だから神は存在させているのだ。宗教をいくら信じたところで物質的悪(災厄)や不幸な人生をどうすることもできないのだ。
 
 人間の本質はやはり神と同質のものであるから、人間自らが運命を創造したというのは究極的には正しい。「人間は幸福になるために存在している、幸福になれるはずだ、運命は自ら創造するものである」という考えが"正しいような気がする”のはそのためなのだ。生長の家の説くように、人間は完全円満、善なる存在であるというのも同じである。あくまでも究極においてはそれは正しい。だから“正しいような気がする”のである。)しかしそれは、あくまでも全体についてであって、個々の人生を人間のような有限な生命体が途中で自分の都合の良いように変更できるなどありえないことなのだ。全体の計画が狂ってしまうからだ。
 
 人間は様々な願いを持っている。それはこの人生において叶えられるという理由で存在しているわけではない。(これも上述のように、究極においては人間の願いはすべて叶えられる、だから“叶えられるはずという気がする”のである。)叶えられる人は叶えられる人生を与えられているのであって、叶えられない人は今回は叶えられない人生を与えられているのだ。しかし人間は願いを叶えようと願わずにはいられない、その奮闘努力によって人間はレベルアップしていくのだ。

 人間は完全な幸福を約束された神の子なのである。与えられた人生を精一杯生き抜けばいずれ誰しも至福が与えられるのである。人間はあくまでもレベルアップするするために存在しているのであって、この有限な儚い人生での願いを成就するために存在しているのではないのだ。

 ただ幸福な状態で存在することが人間の存在目的ならば幸福な霊的世界だけで十分であり、わざわざ別に物質世界を創造する必要はないのだ。創造するからには霊的世界とは別の存在目的があるはずなのだ。「運命は人間自らが創造するものである、願いは叶う」と宗教が説いているのは、不幸から逃れたい、幸福になりたいという多くの人々の切なる願いに付け込む策略なのである。

 生長の家の説くように地上天国建設が創造の目的なら、神は最初から善人ばかりの、不幸や災厄の存在しない理想世界を作っていただろう。









「人の額に書かれた運命の文字はどんな水でも消せない。」(モロッコの諺)




スピリチュアリズムが明らかにした「運命論」

◆因果の法則に基づく「罪と罰」

 “罪”とは

 私たち人間の霊的成長は、神の造られた摂理(法則)にそって達成されるようになっています。ところが地上という物質世界で生活する人間は、しばしばこの法則を踏み外してしまいます。大半の地上人が神の摂理に反した行為(過ち)を犯してしまいます。この神の摂理に反した行為が罪です。“罪”とは具体的には――「物質や本能に支配されてしまうこと(肉主霊従)」と「利己的な行為をすること」を意味しています。

 地上人の中で、一切“罪”を犯さないという人間はいません。霊的真理を知らず、何が正しくて何が間違っているのかを知らない人間が、神の摂理からずれた行為をすることなく地上人生を過ごすことはできません。



 “罰”とは

 因果の法則(原因と結果の法則)という神の摂理に支配されている世界では、自分のなした間違った行為(罪)は、必ず何らかの悪い結果を生み出すようになります。この結果が“罰”なのです。神の摂理に反した行為(罪)に対しては“罰”という結果が生じますが、恐ろしいことに、それは寸分の狂いもなく機械的正確さをもって発生するようになっています。

 こうした「原因と結果の法則」すなわち「罪と罰の法則」から逃れられる人間は、誰1人いません。少々悪いことをしてもごまかしがきく、他人を騙すことができると思う人がいるかもしれませんが、霊的法則をごまかすことは絶対にできないのです。摂理に反した行為(罪)に対しては、“罰”としての苦しみが間違いなく発生するようになるのです。



「罪の償い」と、苦しみに対する感謝

 一般に罪の結果である罰は、“苦しみ”という形でもたらされます。罰としての苦しみは、霊的観点からすると「罪の償い」のための不可欠なプロセスと言えます。人間は罪を償わないかぎり、さらなる霊的成長の道を歩むことはできません。その意味で苦しみは、霊的成長の道をリセットしてくれるチャンスであり、やり直しの機会となるのです。「罪の償い・悪いカルマの清算」は、苦しみの体験を通してなされるようになっています。

 大半の人々は“苦しみ”があることを不幸・不運と考えていますが、「因果の法則」という霊的視野から見るなら、それは霊的成長のために必要なものであり、ありがたいものと言えます。霊的真理を知らない者、また知っていてもついつい地上的視野で物事を眺めてしまう人間は、なかなか苦しみを良いものと考えることはできませんが、本当は感謝すべきものなのです。





◆地上への再生と運命の決定

 死後の世界での後悔と苦しみ

 地上でなした悪事(罪)の結果は、地上生活中にいろいろな苦しみという形で返ってくることもありますが、大きな罪の場合は、霊界に行ってから本格的な償いが始まるようになります。霊界に入ると指導霊によって、生前の悪事の数々を目の前に見せつけられることになります。言い逃れをすることができない証拠を突きつけられる中で、やがて激しい良心の呵責や心の痛み・強い後悔の念を持つようになります。これが死後の世界における“審判”であり“罰”なのです。地上での行為は、このようにして死後、それに見合った結果(罰)を引き起こすことになります。


 
 再生人生を自ら願い出る

 こうしたプロセスを経て、死後の世界では誰もが、自分が地上生活でどのような間違いを犯してきたのかを、はっきりと自覚するようになります。そして自分の魂の成長にとって何が足枷となっているのかを、明確に知るようになります。さらに地上時代につくった「悪いカルマ(罪)」を清算して霊的成長の道をリセットするためには、地上でいかなる苦しみの体験が必要であるのかも理解できるようになります。このようにして自らの意志で、地上への再生を願い出ることになるのです。

 その願いが受け入れられ地上に再生すると、再生人生では「因果の法則」によって前世での罪を償う道が自動的に展開するようになります。




「運命」は生まれつき決定している

 再生人生にはいくつかの目的がありますが、その中で一番重要なものが前世でつくった「罪(悪いカルマ)の償い」です。再生前に本人は、そのための苦しみの体験を希望します。再生人生では、因果の法則に基づいて罪を償うための苦しみが生じるようになります。このプロセスを地上人サイドから見るなら─―「人間は地上に誕生する前から、すでに人生が決まっている」ということになります。「地上人は、生まれつき決められた運命を背負って人生を出発する」ということになるのです。

 地上人の運命は、神の一方的な意志や、先祖の悪業(あくごう)(カルマ)によって決定されるものではありません。それは自分自身がつくった「カルマ(罪)の清算」と、さらなる「霊的成長」を求めて自ら選んだ結果なのです。



「宿命」としての再生人生の大枠と、現実の人生行路

 誕生に先立って自ら選んだ再生人生の運命とは、人生の大きなパターン、人生全体としての枠組みのことです。その枠組み(大きなパターン)の中で、地上のもろもろの条件・状況、また本人の態度が絡み合って具体的な出来事が決まるようになります。苦しみが発生する時期も状況に応じて幅があり、細かい部分まで100パーセント人生の航路(実際の運命)が決まっているわけではありません。

 しかし再生前に選択した必要な苦しみ・試練は、必ず展開するようになっています。そうした意味で―「運命の大枠は生まれる前から決まっている」「変えることのできない宿命がある」ということになるのです。

 人間は再生に際して、あらかじめ1つの人生行路を選び、その人生では大体こうした苦難に遭遇するようになるということを覚悟して誕生してきます。しかし自ら選んだ苦しみが実際にどのような形(人間関係のトラブルや事件・事故など)をとって具体化するのかは、置かれた境遇や社会的背景、また本人の姿勢によって決定されることになります。このような理由によって誕生前に決められた宿命的人生行路と、生まれた後の現実の人生行路との間には、ある程度の開きがあるのです。

 そこで大きな意味を持つのが、人間に与えられた“自由意志”ということになります。





 信念の魔術的考えの間違い

「ノーマンピール」「ブリストル」らの唱導で、一時ブームを巻き起こしたものに“信念の魔術”があります。自分の願うことを強く思い描き、潜在意識の中にそれを印象づければ自分の希望がその通り実現する、というものです。それを人生に当てはめるなら、運が悪いのは自分自身が悪いイメージを描くから、ということになります。そしてプラスのイメージだけを潜在意識に強く印象づければ、運が好転するようになる、ということになります。

 確かにこうしたポジティヴ・シンキングには、人生を好転させるそれなりの効果はありますが、それはどこまでも精神領域の一部に限られます。この主張には様々な問題点があります。まず「強く思い描けば不可能も可能になる。不運も避けられるようになる」と言いますが、これは事実ではありません。そこには神の造られた摂理への考慮が全くありません。神の法則によって支配されている世界では、“人間の意志”で変えることのできる範囲は限られています。

 また信念の魔術的ポジティヴ・シンキングには、肝心な価値観に対する考慮がありません。霊的成長の観点に立てば、決して願ってはならないもの、固執すれば霊的成長にとってマイナスになるものがあります。「人間として何を願うべきなのか?」という価値観への考察が必要なのですが、信念の魔術にはそれがありません。よく「お金・地位・家・財産を手に入れたい!」というようなことが信念の対象とされますが、そうしたものを強く願えば願うほど、魂の成長にはマイナスとなることが多いのです。

 良いイメージを持とうとすることは何の問題もありませんが、それはどこまでも「霊的真理」を踏まえた上ですべきことです。「霊的価値観」にそった良いイメージを思い描き、その実現を念じることは魂の成長にプラスとなります。

 それと同時に何よりも大切なことは、守護霊や背後霊が私たちの霊的成長を願い、常にベストの導きをしてくれているという事実を思い起こすことです。高級霊や守護霊の導きを信じ委ねることなのです。







わずか12歳にして、彼の子ども時代は奪われた。
父親は借金のために投獄され
若きチャールズ・ディケンズはロンドンのテムズ川沿いにある、みすぼらしい靴磨き工場に送り込まれた。

彼の仕事は?
何時間も靴墨の缶にラベルを貼り続けること。

工場は汚れ果て、
労働は過酷、
給料は…命をつなぐのがやっとという程度。

聡明で想像力に富んだ少年にとって、それは心が引き裂かれるような経験だった。
彼は捨てられたと感じ
見えない存在となり、
その痛みは生涯彼につきまとった。
しかし──その深い痛みから、
何か素晴らしいものが生まれた。

それは、貧しい人々、忘れられた人々、声なき人々への深い共感の芽となり
燃え続ける野心の火を灯した。

そしてそれは、やがて
『オリバー・ツイスト』
『デイヴィッド・コパフィールド』
『リトル・ドリット』
といった、彼の名を永遠に刻む小説たちの鼓動となった。
それらの物語の中には、工場で傷ついたあの少年の記憶が確かに息づいている。

やがて父親は釈放され、チャールズは学校へ戻った。
けれども、心の傷は消えなかった。

その傷こそが、彼の天才を養った。
彼はトラウマを、時代を超える物語へと変えた。
苦しみを、社会を変える力へと変えた。
沈黙を、何百万人に語りかける声に変えた。

本当の偉大さとは、裕福さから生まれるのではない。
倒れたあと、どう立ち上がるかにこそ宿るのだ。

チャールズ・ディケンズは立ち上がり、
そして世界に、いまも魂を揺さぶる文学を残してくれた。


Piccole storie.
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