この夏休み、有名な文学・哲学を読みたいと思い、
何から読むか考えたのですが、
いかんせん知識が全くないので何から読めばいいかわからない。
ということで、ひとまず高校の一教科である倫理の教科書を通読することにしました。
もういちど読む山川倫理/小寺 聡=編
¥1,575
Amazon.co.jp
僕としては、どの本を読めばいいかのガイドブック感覚で読み始めたのですが、
予想以上に内容が濃かった。
古今東西さまざまな古人の思想の要点がびしっと書かれているのですが、
単なる暗記事項を羅列していくようなものではなく、
その人の考え方を、時には具体例を、時にはその人の文章を引用しながら
わかりやすく説明してくれているので、
人間の長い歴史における様々な考えを。空を飛ぶ鳥の目線から広く理解することができた気がします。
"倫理"っていうより、"古今東西 人間の考え一覧" の方が名前として合っていると思います。(長いけど)
基本的に中で扱ってる思想は、哲学家によるものです。
哲学というと、どうでもいい事柄(私はここに存在するのだろうかとか)を延々小難しく考える学問
というイメージがあったのですが、
ここで書かれているものの大半は
「いかに人生生きるか」「何を大切にして生きるか」
などとても身近なテーマでした。
そして、とても面白かった。
自分が短い人生の中で悩んで考えてきたことは、
昔の古人の誰かが悩み、考えていました。
割と特殊なことを考えているつもりだったので、人間考えることはみな同じかととても安堵感を覚えました。
しかし、哲学者たちはそのような考えを自分よりもっと深く深く考察しています。
そして、何となくのイメージではなく、はっきりと言葉で述べてくれています。
それらを読むと、自分の考えが整理され、何かすっきりした気持ちになりました。
非常にいい本でした。本当にありがとう。
最後に本の中で特に印象に残った個所を。
パスカル -17世紀 フランス
「人間は孤独である。しかし、世間の人々は、そのような孤独で不安に満ちた人生から目をそらし、賭事や娯楽などの気晴らしに走って、自分を忘れようとする。だが、いくら自分から逃避しても、やがては倦怠をおぼえ、よりいっそうの惨めさを味わうだけである。」
自分の大学1・2年→今 の考えにぴったり
キルケゴール -19世紀 デンマーク
キルケゴールは、現代人は大衆の中にまぎれ込み、自分を見失って、顔と名前を失った誰でもないような匿名の人へと平均化・水平化されていると批判した。誰もが新聞や雑誌の流す情報をうのみにして、「みんな」の中に埋没し、大衆へと画一化され、「私」が自分で判断し、発言したり、行動することができない。
キルケゴールは、真実の自分のあり方を実存と呼ぶ。実存とは、真実・現実の自己として存在すること、すなわち、かけがえのない私が、今、ここにいる事実をさす。キルケゴールは実存はいかなる他人とも異なる、ただ一人の例外者であると説いた。そして、他人に埋もれた状態から自分を取り戻し、自分自身と向き合い、本来の実存に目覚めて生きようとした。
キルケゴールは、自己がいかに自己自身の生き方にかかわっていくかが大切であると考えた。彼は「人間は精神である。精神とは何か? 精神とは自己である。自己とは何か? 自己とは自己自身へとかかわる関係である」と述べている。精神として生きる私たちは、つねに自己に向き合い、自己の生き方をみずから選び、決断する主体性をもって生きなければならない。
私たちは自己自身である限り、自己以外のものには成り得ず、その意味では自己は必然的なものである。しかし、その自己自身はみずからがなるべきものである限り、将来の可能性の中にある。私は自己自身にかかわりながら、本来のあるべき自己を、未来の可能性の中から選びとらなければならない。
キルケゴールにとって、人生とは自己を選び損なうリスクをかいくぐりながら、真実の自己を選びとる真剣な決断の場である。
(中略)
私たちは人生において、「あれか、これか」の選択を迫られる中で、自分の意思で決断し、行動する主体的な生き方を通して、真実の自己を見出す。自己をみずから選ぶことによって、「これが私の人生だ」という確信が生まれ、自己の実存はより確かなものへと高められる。ただ他人に流され、現実に妥協し、あいまいに生きていては自分を見失うだけである。
長くなってしまった。まあ一番身を打たれる個所だったので全部引用しました。
流されて適当に過ごすんではなく、自分の人生について真剣にかかわれと。自分に一番足りないところです。
ハイデッガー -20世紀 ドイツ
日常のあいまいさにひたって生きる私たちが、ふと不安に襲われることがある。不安は、自分はこの先どうなるのだろうかという、将来の可能性の未確定さから発生する気分である。ハイデッガーは、とりわけ将来の究極にある死の可能性から、不安が迫ってくると分析した。
死は「まだこない」と思っていても、いつかはわからないが、いつでも、確実に訪れる究極の可能性である。死の可能性と向き合うとき、私たちは誰ともかわることのできない、一回限りの、本来の自己の人生を生きていることに目覚める。死の可能性への不安を通して、私たちは日常生活に埋没したあいまいな「ひと」から、本来の自分自身へと連れ戻される。
人間は、みずからの死を覚悟し、死の可能性と向きあうことによって、一回限りの人生を真剣に生きることの意味を見い出すことができる。死の可能性から目をそらさず、自己の本来の存在に目覚めることを、ハイデッガーは死に臨む存在(死への存在)と呼び、そこに実存の本来のあり方を求めた。
死に臨む存在とは死ぬことではなく、死の可能性に直面しながら、今、ここで、自己の存在に目覚めつつ真剣に生き抜く態度である。それは人生を真剣に、必死に、一生懸命に生きる覚悟といえよう。
今日が最後の一日だと思って生きろ っていうのは何回も聞いたことがありますが、このように自分の存在が死と向き合うことによって自分の人生を意識するというのは初めて聞きましたし、確かにそうだと思います。死だけはいつ来るかわからない。死と隣り合わせに生きている危機感をもって生きたいですね。
サルトル -20世紀 フランス
「人間は自由の刑に処せられている」
人間は、みずからの生き方を自分自身で選ばざるを得ない自由の運命にあり、徹底的に自由であると同時に、みずからが選んだ行為に全面的に責任を負わなくてはならない。
私たちはみずからの選んだ行動によって、裏切り者にも、人びとを救う英雄にもなれる。このように人間がまず実存(存在)し、その後で自分が何であるかという本質をつくりあげていくことを、サルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉で表現した。
サルトルは「私を選ぶことによって、私は人間を選ぶのである」と語っている。人間がみずからの生き方を選ぶことは、人間とは何かという一つの人間像を選ぶことであり、人間とは何かに古都得て、人類のあり方を選ぶことでもある。私たちの人生の選択は、人間が何であるかという人間像を示すことを通して、まわりの人びとに影響をおよぼし、全人類に対しても責任を負う行為である。
自分がどう生きるかは、人間とは何かという一つの人間像を選ぶこと。それは周りに影響し、全人類に対しても責任を負う。
自分の生き方についてもっとしっかりかかわろう、というキルケゴールの考え方にもつながります。大事。
福沢諭吉 1834~1901
新しい時代の人間は、一人ひとりが人間の尊厳をもつことを自覚して、政府や他人に頼らず、古人として独立して生きていかなければならない。福沢諭吉は「独立とは自分で自分の身を支配し、他人に頼る心のないことである」と説き、独立自尊の精神を唱えた。
「独立の気力のない者は、国家を思うことも切実ではに。独立とは自分で自分の身を支配し、他人にたよる心がないことである。自分で物事のよしあしを判断して誤らずに行動する者は、他人の知恵にたよらずに独立している。自分で心身を働かせて個人の生計を立てる者は、他人の財産にたよらずに独立している……独立の気力のない者は、かならず人にたよる。人にたよる者はかならず人を恐れる。人を恐れる者はかならず人にへつらう。つねに人を恐れてへつらうものは、しだいに面の皮が鉄のように厚くなり、恥ずべきことを恥じず、論ずべきことを論じず、人さえみればただ腰をかがめるばかりである……このような人間は立てといえば立ち、舞えといえば舞い、その従順なことは家で飼っている痩せ犬のようである。」(『学問のすすめ』口語訳)
耳が痛いですね。独立。してるかな…?
森鴎外 1862~1922
森鴎外は人間の生きる意味を、その時代や社会の状況の中で、当人にあたえられた任務や使命とのかかわりを通してとらえた。彼は『阿部一族』や『興津彌五右衛門の遺書』などの歴史小説において、運命の中で最後まで自分にあたえられた使命や立場を貫いて生きる人間像を数多く描いた。そして、歴史や運命の中で自己の立場や使命を冷静に引き受ける態度を諦念(諦め)と呼んだ。
諦念とは、ただ消極的に運命に身をまかすことではなく、自分が投げ込まれた運命に身をまかすことではなく、自分が投げ込まれた運命を自分のものとして引き受け、その運命がおのれの立つ場であると覚悟して懸命に生きることである。森鴎外はそのような諦念に、人間の生きる道を求めた。
その一方で『妄想』では人生の舞台で演じる役割を降りて、赤く、黒く塗られた役者の顔を洗い、素顔の自分をみつめ直したいとも語っている。
「生まれてから今日まで、自分は何をしているのか。終始何物かに策(むち)うたれ駆られているように学問ということにあくせくしている……自分のしている事は、役者が舞台へ出てある役を勤めているに過ぎないように感ぜられる……勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいくつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後の何物かの面目(かおかたち)をのぞいて見たいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役がすなわち生だとは考えられない。背後にあるあるものが真の生ではあるまいかと思われる。ただしそのある物は目を醒まそう醒まそうと思いながら、またしてはうとうとして眠ってしまう。」(『妄想』)
自分の社会的な役割は果たさねばならないのだから、それを全うするのが理想だとしながらも、思い悩んだ森鴎外の苦悩は共感できます。
もっと短くまとめろよって感じですね。
それぞれの著書を読んだあと、もう一回考えてみたいと思います。
何から読むか考えたのですが、
いかんせん知識が全くないので何から読めばいいかわからない。
ということで、ひとまず高校の一教科である倫理の教科書を通読することにしました。
もういちど読む山川倫理/小寺 聡=編
¥1,575
Amazon.co.jp
僕としては、どの本を読めばいいかのガイドブック感覚で読み始めたのですが、
予想以上に内容が濃かった。
古今東西さまざまな古人の思想の要点がびしっと書かれているのですが、
単なる暗記事項を羅列していくようなものではなく、
その人の考え方を、時には具体例を、時にはその人の文章を引用しながら
わかりやすく説明してくれているので、
人間の長い歴史における様々な考えを。空を飛ぶ鳥の目線から広く理解することができた気がします。
"倫理"っていうより、"古今東西 人間の考え一覧" の方が名前として合っていると思います。(長いけど)
基本的に中で扱ってる思想は、哲学家によるものです。
哲学というと、どうでもいい事柄(私はここに存在するのだろうかとか)を延々小難しく考える学問
というイメージがあったのですが、
ここで書かれているものの大半は
「いかに人生生きるか」「何を大切にして生きるか」
などとても身近なテーマでした。
そして、とても面白かった。
自分が短い人生の中で悩んで考えてきたことは、
昔の古人の誰かが悩み、考えていました。
割と特殊なことを考えているつもりだったので、人間考えることはみな同じかととても安堵感を覚えました。
しかし、哲学者たちはそのような考えを自分よりもっと深く深く考察しています。
そして、何となくのイメージではなく、はっきりと言葉で述べてくれています。
それらを読むと、自分の考えが整理され、何かすっきりした気持ちになりました。
非常にいい本でした。本当にありがとう。
最後に本の中で特に印象に残った個所を。
パスカル -17世紀 フランス
「人間は孤独である。しかし、世間の人々は、そのような孤独で不安に満ちた人生から目をそらし、賭事や娯楽などの気晴らしに走って、自分を忘れようとする。だが、いくら自分から逃避しても、やがては倦怠をおぼえ、よりいっそうの惨めさを味わうだけである。」
自分の大学1・2年→今 の考えにぴったり
キルケゴール -19世紀 デンマーク
キルケゴールは、現代人は大衆の中にまぎれ込み、自分を見失って、顔と名前を失った誰でもないような匿名の人へと平均化・水平化されていると批判した。誰もが新聞や雑誌の流す情報をうのみにして、「みんな」の中に埋没し、大衆へと画一化され、「私」が自分で判断し、発言したり、行動することができない。
キルケゴールは、真実の自分のあり方を実存と呼ぶ。実存とは、真実・現実の自己として存在すること、すなわち、かけがえのない私が、今、ここにいる事実をさす。キルケゴールは実存はいかなる他人とも異なる、ただ一人の例外者であると説いた。そして、他人に埋もれた状態から自分を取り戻し、自分自身と向き合い、本来の実存に目覚めて生きようとした。
キルケゴールは、自己がいかに自己自身の生き方にかかわっていくかが大切であると考えた。彼は「人間は精神である。精神とは何か? 精神とは自己である。自己とは何か? 自己とは自己自身へとかかわる関係である」と述べている。精神として生きる私たちは、つねに自己に向き合い、自己の生き方をみずから選び、決断する主体性をもって生きなければならない。
私たちは自己自身である限り、自己以外のものには成り得ず、その意味では自己は必然的なものである。しかし、その自己自身はみずからがなるべきものである限り、将来の可能性の中にある。私は自己自身にかかわりながら、本来のあるべき自己を、未来の可能性の中から選びとらなければならない。
キルケゴールにとって、人生とは自己を選び損なうリスクをかいくぐりながら、真実の自己を選びとる真剣な決断の場である。
(中略)
私たちは人生において、「あれか、これか」の選択を迫られる中で、自分の意思で決断し、行動する主体的な生き方を通して、真実の自己を見出す。自己をみずから選ぶことによって、「これが私の人生だ」という確信が生まれ、自己の実存はより確かなものへと高められる。ただ他人に流され、現実に妥協し、あいまいに生きていては自分を見失うだけである。
長くなってしまった。まあ一番身を打たれる個所だったので全部引用しました。
流されて適当に過ごすんではなく、自分の人生について真剣にかかわれと。自分に一番足りないところです。
ハイデッガー -20世紀 ドイツ
日常のあいまいさにひたって生きる私たちが、ふと不安に襲われることがある。不安は、自分はこの先どうなるのだろうかという、将来の可能性の未確定さから発生する気分である。ハイデッガーは、とりわけ将来の究極にある死の可能性から、不安が迫ってくると分析した。
死は「まだこない」と思っていても、いつかはわからないが、いつでも、確実に訪れる究極の可能性である。死の可能性と向き合うとき、私たちは誰ともかわることのできない、一回限りの、本来の自己の人生を生きていることに目覚める。死の可能性への不安を通して、私たちは日常生活に埋没したあいまいな「ひと」から、本来の自分自身へと連れ戻される。
人間は、みずからの死を覚悟し、死の可能性と向きあうことによって、一回限りの人生を真剣に生きることの意味を見い出すことができる。死の可能性から目をそらさず、自己の本来の存在に目覚めることを、ハイデッガーは死に臨む存在(死への存在)と呼び、そこに実存の本来のあり方を求めた。
死に臨む存在とは死ぬことではなく、死の可能性に直面しながら、今、ここで、自己の存在に目覚めつつ真剣に生き抜く態度である。それは人生を真剣に、必死に、一生懸命に生きる覚悟といえよう。
今日が最後の一日だと思って生きろ っていうのは何回も聞いたことがありますが、このように自分の存在が死と向き合うことによって自分の人生を意識するというのは初めて聞きましたし、確かにそうだと思います。死だけはいつ来るかわからない。死と隣り合わせに生きている危機感をもって生きたいですね。
サルトル -20世紀 フランス
「人間は自由の刑に処せられている」
人間は、みずからの生き方を自分自身で選ばざるを得ない自由の運命にあり、徹底的に自由であると同時に、みずからが選んだ行為に全面的に責任を負わなくてはならない。
私たちはみずからの選んだ行動によって、裏切り者にも、人びとを救う英雄にもなれる。このように人間がまず実存(存在)し、その後で自分が何であるかという本質をつくりあげていくことを、サルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉で表現した。
サルトルは「私を選ぶことによって、私は人間を選ぶのである」と語っている。人間がみずからの生き方を選ぶことは、人間とは何かという一つの人間像を選ぶことであり、人間とは何かに古都得て、人類のあり方を選ぶことでもある。私たちの人生の選択は、人間が何であるかという人間像を示すことを通して、まわりの人びとに影響をおよぼし、全人類に対しても責任を負う行為である。
自分がどう生きるかは、人間とは何かという一つの人間像を選ぶこと。それは周りに影響し、全人類に対しても責任を負う。
自分の生き方についてもっとしっかりかかわろう、というキルケゴールの考え方にもつながります。大事。
福沢諭吉 1834~1901
新しい時代の人間は、一人ひとりが人間の尊厳をもつことを自覚して、政府や他人に頼らず、古人として独立して生きていかなければならない。福沢諭吉は「独立とは自分で自分の身を支配し、他人に頼る心のないことである」と説き、独立自尊の精神を唱えた。
「独立の気力のない者は、国家を思うことも切実ではに。独立とは自分で自分の身を支配し、他人にたよる心がないことである。自分で物事のよしあしを判断して誤らずに行動する者は、他人の知恵にたよらずに独立している。自分で心身を働かせて個人の生計を立てる者は、他人の財産にたよらずに独立している……独立の気力のない者は、かならず人にたよる。人にたよる者はかならず人を恐れる。人を恐れる者はかならず人にへつらう。つねに人を恐れてへつらうものは、しだいに面の皮が鉄のように厚くなり、恥ずべきことを恥じず、論ずべきことを論じず、人さえみればただ腰をかがめるばかりである……このような人間は立てといえば立ち、舞えといえば舞い、その従順なことは家で飼っている痩せ犬のようである。」(『学問のすすめ』口語訳)
耳が痛いですね。独立。してるかな…?
森鴎外 1862~1922
森鴎外は人間の生きる意味を、その時代や社会の状況の中で、当人にあたえられた任務や使命とのかかわりを通してとらえた。彼は『阿部一族』や『興津彌五右衛門の遺書』などの歴史小説において、運命の中で最後まで自分にあたえられた使命や立場を貫いて生きる人間像を数多く描いた。そして、歴史や運命の中で自己の立場や使命を冷静に引き受ける態度を諦念(諦め)と呼んだ。
諦念とは、ただ消極的に運命に身をまかすことではなく、自分が投げ込まれた運命に身をまかすことではなく、自分が投げ込まれた運命を自分のものとして引き受け、その運命がおのれの立つ場であると覚悟して懸命に生きることである。森鴎外はそのような諦念に、人間の生きる道を求めた。
その一方で『妄想』では人生の舞台で演じる役割を降りて、赤く、黒く塗られた役者の顔を洗い、素顔の自分をみつめ直したいとも語っている。
「生まれてから今日まで、自分は何をしているのか。終始何物かに策(むち)うたれ駆られているように学問ということにあくせくしている……自分のしている事は、役者が舞台へ出てある役を勤めているに過ぎないように感ぜられる……勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいくつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後の何物かの面目(かおかたち)をのぞいて見たいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役がすなわち生だとは考えられない。背後にあるあるものが真の生ではあるまいかと思われる。ただしそのある物は目を醒まそう醒まそうと思いながら、またしてはうとうとして眠ってしまう。」(『妄想』)
自分の社会的な役割は果たさねばならないのだから、それを全うするのが理想だとしながらも、思い悩んだ森鴎外の苦悩は共感できます。
もっと短くまとめろよって感じですね。
それぞれの著書を読んだあと、もう一回考えてみたいと思います。