2 ヘブルとギリシア
ヘブル的労働とギリシア的労働を区別するためには『旧約聖書』とヘシオドスを比較する必要があるが、ヘブル的武力とギリシア的武力を区別するためには『旧約聖書』とヘロドトス(484-430B.C)を比較する必要がある。ヘブルの精神はユダヤ人とペルシア人に代表され、ギリシアの精神はスパルタ人とアテナイ人に代表される。
ユダヤ教の神の意志は奇蹟として現れ、その法則が摂理であり、自然法則を蹂躙する。神は全人類を滅ぼした洪水の後に、生き残ったノアに保護を約束するが、これをベリート(Bund 信約『創世記』9:9)と呼ぶ。神はノアの子孫の中から特にアブラハムを選んで信約を結ぶ。さらに神はアブラハムの子孫をエジプトから救出した後に指導者のモーセと信約を結ぶが、その信約の条項がトーラー(Gesetz律法『出エジプト記』12:49)である。これは摂理の具体化に他ならない。これは神を信じる人間が従うべき法則であり、刑法と民法の体系を含む。このトーラーは人間生活のすべてをがんじがらめに規定する強制の原理である。この強制の原理に従うことによってのみ、ユダヤ人は信仰に基づく社会生活を維持できた。このような『旧約聖書』の記述を基礎にして、ヘーゲルはオリエントの家父長的神政政治を構想した(『権利の哲学』 §355)。
ヘブルにおいて創造神は「万軍の主」(『サムエル記』1:3)として武力の源泉になり、自然法則を蹂躙する奇蹟の法則であるトーラーが軍隊を組織し、専制君主の統帥権として現れる。ヘブルでは労働の原理が戦争を支配した。神に対する信仰がユダヤ人の服従の原因である。ユダヤ人が従順であったのは自分より上のものを崇拝したからである。アジア的徴兵制度の残虐性はヘロドトスが述べる通りである。ペルシア王クセルクセス一世(在位486-465B.C)は徴兵を免れようとした男の胴体を二つに切って道の両側に置き、その間を軍隊に行進させた(HerodotosⅦ39-40)。
そして専制君主の武力が生産手段と生産物を分配する。サムエルは言う。「あなたがたを治める王(メレク)のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせるであろう。また、あなたがたの娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、あなたがたの穀物と、ぶどう畑の十分の一を取って、その役人と家来に与え、また、あなたがたの男女の奴隷および、あなたがたの最も良い牛とろばを取って、自分のために働かせ、また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。」(『サムエル記上』8:11-17)万軍の主の武力の支配下で成立するのがヘブル的所有である。万軍の主の代理人である専制君主が唯一の所有者であり、専制君主の財産を諸個人は一時的に占有するにすぎず、彼らは所有権を持たない。これは所有(Eigentum)ではなくて疎外(Entfremdung)である。『資本論』においては「自分のものにする」(aneignen)の反対語が「他人のものにする」(entfremden)であり(MEGAⅡ6.p.133)、「所有」(Eigentum)の反対語が「疎外」(Entfremdung)である(ibid.p.417)。
ヘロドトスは「ペルシア王クセルクセスとスパルタ人デマラトスの対話」(HerodotosⅦ101-104)においてアジアの専制(デスポスネー)とギリシアの自由(エレウテリアー)の対立を論じ、ペルシア戦争はアジアの専制にギリシアの自由が抵抗する過程であったと主張する。ペルシア王クセルクセスに対してスパルタからの亡命者であるデマラトスは言う。「スパルタ人は一人一人の戦いにおいても何人にも後れをとりませんが、さらに団結した場合には世界最強の軍隊でございます。それと申すのも、彼らは自由であるとはいえ、いかなる点においても自由であると申すのではございません。彼らはノモスという主君を戴いておりまして、彼らがこれを怖れることは、殿の御家来が殿を怖れるどころではないのでございます。いずれにせよ彼らはこの主君の命ずるままに行動いたしますが、この主君の命じますことはつねに一つ、すなわちいかなる大軍を迎えても決して敵に後を見せることを許さず、あくまで己の部署にふみとどまって敵を制するか自ら討たれるかせよ、ということでございます。」(HerodotosⅦ104)。したがってテルモピュライを死守するレオニダス指揮下のスパルタ兵300人を団結させたのはノモスだということになる(ibid.Ⅶ175-238)。ユダヤ人がトーラーに支配されたのに対し、ギリシア人はノモスに支配された。トーラーは働くための法則であるが、ノモスは戦うための法則である。ギリシア人の自尊心の表現がノモスである。したがってトーラーが自然法則を蹂躙して人間の自由を抑圧する法則であるのに対して、ノモスは自然法則と調和して人間の自由を擁護する法則である。すなわち、ギリシアにおいては自由な市民がみずから武力の源泉になる。奴隷制度に立脚するギリシアでは武力の原理が生産を支配した。ヘロドトスは語らないが、ギリシア人の徳(アレテー)は奴隷を踏み台にして成り立ち、奴隷は卑屈なアイソーポスの精神を持った。ギリシア人が誇り高かったのは自分より下のものを軽蔑したからである。そしてプラトンにおいては理想的なポリスを作るためにノモスは人間によって制定されるべきものであった。「私たちは、人間として、同じく人間の種子から生まれた者たちに立法(ノモテテオー)しようとしている。」(LEGES.853)(2)
アジア的生産様式は大規模な灌漑工事に依存したために強大な権力を生み出した。アジア的生産様式がギリシア世界にも存在したことはミケナイ文明の発見によって実証された(太田)。しかしアジア的生産様式は、灌漑工事を必要としないギリシア世界では崩壊し、小国が分立した。アジアの特徴は専制であり、ギリシアの特徴は自由である。
ヘブルにおける労働の原理とギリシアにおける余暇の原理は対立する。したがって労働の原理であるトーラーに基づく武力と余暇の原理であるノモスに基づく武力は対立する。武力は所有の源泉だから、ヘブル的所有とギリシア的所有は対立する。
自由な、すなわち独立した市民の武力が生産手段と生産物を分配する。アリストテレスは言う。「法律は財産を売ることを禁じ、・・・昔の割当地を保存すべしという法律もある。」(POLITICA.1266b18-21.)伊藤貞夫(1933-)は言う。「アテネがポリスとして法制的に完成された紀元前五世紀に、市民の持分地をめぐって売買ないし抵当権設定が行われたという事実は殆んど認められない。共同体成員の生活を支え、同時にそのことによって共同体全体の存立の基盤ともなっている個々の持分地を、その所有者たる成員が勝手に処分することは、土地を占有し且つ分配した主体であり、すべての成員の生存上の拠りどころである共同体そのものの存立を危うくするものであって、許されるべきでないとする移動時代からの伝統的観念が、ポリスの法制的完成の時期に再び力を得、市民の間に強く根を張るに至ったものと考えられる。」(伊藤.p.96)団結した個人の武力の支配下で成立するのがギリシア的所有である。
個人は共同体の中で所有権を主張する。桜井万里子(1943-)は言う。「アテナイ法において所有権の問題は最も難解な分野の一つである。我々は今日的な所有権の概念で、あるいはローマ法におけるそれで、アテナイの所有の問題を扱うことは慎まねばならない。アテナイでは、所有権は抽象的、絶対的権利ではなく、具体的事実関係に基く、相対的な権利であった。従って、アテナイ人はある物件への権利を主張する時、他者よりもよりすぐれた権利を有すると主張する方法をとらざるを得なかったらしい。一物件が、二人以上の人間に属することもあり得たのである。」(桜井p.194)すなわち個人の所有は個人の武力に基づくが、個人の武力は共同社会(ポリス)の団結を前提とするからである。
3 スパルタとアテナイ
スパルタは重装歩兵に依存する陸軍国であり、軍隊の指揮官としての王(バシレウス)を必要とした。奴隷的民衆の上に君臨するアジアの専制君主(メレク)と自由人の上に君臨するギリシアの君主(バシレウス)は性格が異なる。しかしアテナイは軍艦の漕ぎ手に依存する海軍国であり、平等な民主政(デモクラティアー)を生み出した。ギリシアの中でアテナイを際立たせるのは政治的平等(イセーゴリアー)である(Herodotos.Ⅴ78)。基礎である生産様式がヘブル的であるかギリシア的であるかという問題と、上部構造である国家体制が君主政であるか民主政であるかという問題は別であり、自由と民主政は論理的次元において異なる。ギリシア人は自由であるが必ずしも民主政の形式を持たず、現代人は民主政の形式を持つが必ずしも自由ではない。海軍国であるアテナイの特殊事情が民主政を生み出したのであり(3)、ギリシア精神はアテナイの民主政のみによって代表されるのではない。テルモピュライで死んだのはスパルタ王レオニダス指揮下の300人であった。
スパルタが支持する寡頭政(オリガルキアー)とアテナイが支持する民主政(デモクラティアー)の階級闘争(RES PVBLICA.Ⅷ555B-557)はペロポンネソス戦争(431-404B.C)において表面化し、ケルキューラの凄惨な内乱に典型的に現れる(ThucydidesⅢ70-85,Ⅳ46-48)。ペロポンネソス戦争はスパルタの勝利に終わった。
アジアの専制に抵抗したギリシア人同士が戦ったペロポンネソス戦争は深刻な問題を提起した。スパルタ人は戦闘において勇敢であり敗者に対して寛大であったが、アテナイ人は戦闘において臆病であり敗者に対して残酷であった。アテナイ人は学問と芸術を誇りにしたが、人間としてはスパルタ人の方が優れていた。スパルタの徳はアテナイの知識人を魅了し、ソクラテス(469-399B.C)は民主政に対する疑念を公言して処刑された。ペロポンネソス戦争(431-404B.C)のストレスによってソクラテスは統合失調症を発症し、「ダイモーンの声」という幻聴を聞き多弁になっていたために、アテナイの神話に抵触する言動があった。その根底にはアテナイの民主政に対する批判があった。勇敢な兵隊であったソクラテスが戦闘において得たのはスパルタ人に対する尊敬とアテナイ人に対する軽蔑であったと考えられる。アテナイ人も国家体制に関しては寛容ではなかった。ソクラテスの存在そのものの中にアテナイの民衆は民主政に対する脅威を見出した。敗戦の幻滅と反省の中から倫理学と政治学が生まれる。
スパルタとアテナイの対立はプラトンにとっては陸軍国と海軍国の対立であったが、アリストテレスにとっては寡頭政と民主政の対立、すなわち富(プルウトス)と自由(エレウテリアー)の対立であった。しかしスパルタにも自由があり、自由はアテナイの政治的平等(イセーゴリアー)によってのみ保障されたのではない。この対立はむしろ人間社会が本質的に含む矛盾、すなわち自由と政治的平等の矛盾の表現であった。個人は自由であるが政治的に平等ではない。自由は平等の投票という手段によっても保障される。しかし目的と手段を混同してはならない。自由を保障することが重要であり、民主政は形式的な手段にすぎない。ペリクレス(495-429B.C)という優れた指導者がいてこそアテナイの民主政は成り立った。政治的平等そのものを追求する社会が専制に陥ることはアテナイの歴史が物語る。人間は自由人の不平等より奴隷の平等を選ぶからである。
すでに見た通り、マルクスの「価値形式論」は不等価交換を合理的に説明する。この理論が示すことは、人間は自由であり得るが平等ではあり得ないという反民主的な事実である。自由と平等の対立は資産家と無産者の階級対立である。
プラトンは存在しない理想の国制である貴族政(アリストクラティアー)の堕落形式として名誉政(ティーモクラティアー)、寡頭政(オリガルキアー)、民主政(デモクラティアー)、僭主政(テュラニス)を挙げる(RES PVBLICA.Ⅷ)。貴族政を除けばスパルタの名誉政が最善であり、シュラクサイの僭主政が最悪である。民主政は下から二番目にすぎない。スパルタとアテナイの戦争の経験に基づいて、プラトンは重装歩兵の海兵に対する優位を論じ(LEGES.706-707)、国家はペルシアの君主政(モナルキアー)とアテナイの民主政の両方の性格を持つべきであると主張する(ibid.693)。アリストテレスは民主政を自由(エレウテリアー)で寡頭政を富(プルウトス)で貴族政を徳(アレテー)で特徴づけ(ETHICA NICOMACHEA.Ⅴ3)、最善の政体は王政(バシレイアー)であると主張する(ibid.Ⅷ10)。アダム・ファーガソン(1723-1816)は言う。「ペリクレスはアテナイにおいて一種の王のような権威を持った。」(Pericles possessed a species of princely authority at Athens;Ferguson.p.187)しかしアリストテレスは民主政は悪いものの中では最も善いものであると述べる(POLITICA.1289b)。
結局のところ、アリストテレスの弟子であり自由を標榜するアレクサンドロス大王がギリシアの盟主としてペルシアに挑戦する。しかしアジアの専制君主を模倣しようとして失敗したことがアレクサンドロスの限界である。アレクサンドロスやローマの支配によってアテナイの民主政は失われたがギリシアの自由の精神が失われたのではない。ヘレニズム世界とローマ世界は未だエロティックな世界であり、『新約聖書』の陰鬱な精神が支配するのは後のことである。
ヘブルにはトーラーに基づく専制(デスポスネー)と疎外(Entfremdung)があり、ギリシアにはノモスに基づく自由(エレウテリアー)と所有(Eigentum)があった。ヘブルとギリシアの統一が中世と近代である。