第二部 所有と国家
第一章 労働と武力の弁証法
はじめに
呪物崇拝における奇蹟信仰で見たように、意志(Wille)が自然を対象にすれば労働(Arbeit)であり、人間を対象にすれば武力(Gewalt)である。自然と人間の中間が動物であり、動物を対象にする狩り(Jagd)は労働と武力の中間である。大規模な狩りは軍事演習を意味した。平和主義が菜食主義に帰結することは仏教の例に現れる。
労働(エルゴン)から解放された余暇(スコレー)は軍事訓練と武力の源泉である。働くのは食って生きるためであるが、戦うのは殺して殺されるためである。労働がすべてでないとしたら生命はすべてではなく、武力と死は重要な概念である。宗教は生きるために必要であり、道徳は死ぬために必要である。もちろん、宗教と道徳の区別は曖昧であり、ヘブルには宗教的道徳がありギリシアには道徳的宗教がある。「隣人を愛せ」(『レビ記』19:18)はヘブル的原理であり、「敵を愛せ」(『マタイによる福音書』5:44)はギリシア的原理である。イエスは敵を作るなと言っているのではなくて、敵を愛せと言っている。ヘブルの神を発見することとギリシアの神を発見することは、信仰に目覚めることである。
武力(Gewalt)は国家(Staat)を形成するだけでなく、所有(Eigentum)の原因でもある。所有は国家に先行するが、所有を規定する武力は国家の性格を反映する。すなわち、私法(Privatrecht)と公法(offentliches Recht)は相互に規定し合って循環する。したがって悪循環を断つためには歴史的な観点に立って国家の性格から考察しなくてはならない。ヘブルとギリシアにおいて武力の性格が異なり、国家と所有の形式も異なる。
第一節 戦争と国家
1 共同体と国家
人間は一人で生まれるのではなくて家族や部族という共同体(community, Gemeinde)の中で生まれる。この限りでは各人と各人の関係は平和であって戦争ではない。親子兄弟で殺し合う未開民族は存在しない。もちろん嬰児殺しや人身御供は普通のことである。公的な威力(öffentliche Macht『権利の哲学』§219)は個人の暴力(violence)を制御する。すべての個人の合意の上に成り立つ公的な威力は武力・権力(Gewalt)ではない。ヘーゲルは公的な威力と武力・権力を区別する。ヘーゲルがöffentliche MachtとGewaltを区別したのはGewaltというドイツ語の曖昧さによる。öffentliche Machtから区別されたGewaltとは大なり小なりの分派活動によって組織された暴力(violence)のことである。
平和な共同体はおのずから分配と所有の秩序を持ち、共同体の内部での生産手段や生産物の分配は全員の合意に基づいて行われ、武力は行使されない。ヘーゲルは言う。「持続的な人格としての家族にとって、永続する占有(Besitz)の必要が生じる。固定した所有(Eigentum)の創始は結婚の創始と共に現れる。」(§170-172)家族と共に所有が生じるが、私的所有(Privateigentum)が生じるのではない(1)。所有が母系制を成立させ、父系制を排除した。母系制から父系制への転換は生産様式の変化に伴う男女間の生産力の変化により、所有の形式の変化によるのではない。父系制はそれ自体として女の貞操を要求し、所有の相続を確保するためではない。
但し、ここで言う自然発生的な共同体(community,Gemeinde)とアメリカ大陸で植民者が建設した共同体(township,commune)を混同してはならない。アメリカ大陸の共同体は独特の政治的性格を持つものである。「ヨーロッパ大陸のすべての国民の中でそれ(共同体的な自由)を知っているものは一つも無いと言える。」(Tocquville.p.65)これについては後述する。
しかし『創世記』において弟アベルを殺したカインの子孫であるレメクは言う。「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍。」(『創世記』4:23-24)
どこかで聞いた言葉である。そう、これはマフィアの言葉である。七十七倍の復讐は一人でできるものではない。彼は徒党を組んでいる。ここで示唆されているのは暴力団、すなわち軍隊としての部族の成立である。ここから戦争が始まる。『アラビアン・ナイト』に「アリババと40人の盗賊」という物語がある。盗賊は利己的なものであり、40人も団結できるはずはない。団結した人間、すなわち部族が他の部族を襲撃して盗賊と呼ばれたにすぎない。犯罪者が団結するのではなくて団結した人間が犯罪を行うが、人間性を持たない者は団結できない。日本の所謂「暴力団」の構成員が魅力的な人間であるのはそのことを物語る。戦争は、交換と同様に、共同体と共同体の間で始まる。人間は一騎打ちする動物ではなくて集団戦法を採る動物である。「狩りは協業の最初の形式であり、人間狩り(戦争)は狩りの最初の形式の一つである。」(MEGAⅡ6.p.330)流血を厭わずに団結した少数者は臆病な烏合の衆を支配する。戦争捕虜が奴隷の起源である。特殊な社会の特殊な現象が多数者による支配である。Gewaltは孤立すれば暴力(violence)にすぎないが、団結すれば武力(force)になり、支配に成功すれば権力(pouvoir)になる。究極的な本質は変化しないが、形式は段階的に変化して複雑化する。Gewaltを組織するための正当性を確立するのが政治(Politik)である。人間にとって徒党を組むのが如何に困難なことであるかは、現在の日本の政治における混迷を見れば明らかである。
生きるために生産して交換するのは直接的な行為であり、直接的に生きる民衆は即自的(an sich)な社会しか持たないが、戦うために団結するのは反省を必要とする行為であり、反省的に生きる民衆は対自的(für sich)な社会を持つ。自然発生的な共同体(community, Gemeinde)は民族的(national)な性格を持つが、場所(room)を占有して国(Land)を形成し、生産の主体になる。国は戦うために団結した時に人為的な共同社会(commonwealth, Gemeinwesen)である国家(Staat)に成長する。生産の主体としての国に国境を画定するのは戦争の主体としての国家であり、人間の移動を制限すると同時に生産物の移動を制限し、人口を制御して富の流出を防ぐ。ここで「臣民」(subject) と「領土」と「国富」という概念が成立する。直接的に形成される共同体が決して牧歌的な「失われた楽園」ではないことは『旧約聖書』の世界を見れば明らかである。田舎であろうと都会であろうと、現実の共同体を支配しているのは隣近所の悪口であり、公的な威力は愚劣で残酷なものである。だからこそモーセは「隣人を愛せ」(『レビ記』19:18)と言わざるを得なかった。しかし共同体の内部で殺し合うわけではない。共同体に理性と道徳を導入したものが共同社会であり、共同社会の外部で殺し合いが始まる。
人間が団結する理由は多様であり、言語や宗教は必ずしも決定的な理由ではない。しかし人間が団結して国家を形成した時に他国に対する敵意が成立する。もちろん、国(Land)、国民(Nation)、国家(Staat)、臣民(Unrertan)という概念は本来主観的で曖昧なものであり、国家は臣民の決意の上に成り立つ。十五年戦争(1931.9.18-45.8.15)に関して藤原彰(1922-)は言う。「「支那とは地名であって国家や民族の名前ではない」という自称「支那通」の中国蔑視感が依然支配層の大部分を占めていたのである。」(藤原p.294)満州人の独立を支援することが中国に対する侵略と看做されたのは琉球人の独立を支援することが日本に対する侵略と看做されるのと同様である。ウイグルやチベットや台湾が中国に属するか否かも結局は「決意」の問題であり、流血の覚悟の無い所には国家も無い。
領土と国富の争奪は戦争の原因であるが、領土と国富は武力と必ずしも比例せず、大きく豊かで弱い国家と小さく貧しくて強い国家が存在するのはペルシア戦争(492-479B.C)を見れば明らかである(HerodotosⅨ82)。そして領土や国富と武力の不均衡がアレクサンドロス大王(356-323B.C)の東征の原因であった。
国富と武力が直接に結合するのは大工業を持つ近代国家においてである。大工業は武器を生産するだけではない。大工業を持つ国家のみが莫大な戦費に耐えられるのはアダム・スミス(1723-90)が指摘する通りである(WN.p.445)。国防のためには国富が必要であり、貧しい国家は独立と主権を維持できない。ここから「富国強兵」の思想が生じる。戦争は近代国家において産業になった。城壁に穴を開ける大砲は地球に穴を開ける石油掘削機と同様の生産手段である。城壁に穴を開けることは商品を流通させて世界市場を開拓することである。これはアメリカ人のマシュー・ガルブレイス・ペリー(1794-1858)が1853年に日本で行ったことである。国富と武力を蓄積した国家は領土を拡大する。
即自的な共同体と対自的な共同社会は異なり、民衆(people)と臣民(subject)は異なる。もちろん、公的な威力と武力の区別は曖昧であり、共同体と国家の区別も曖昧である。ヘーゲルは言う。「例えば遊牧民衆(ein nomadisches Volk)のように、総じて文化程度の低い民衆(Volk)の場合には、どの程度までこれが国家と看做され得るかという問題さえ生じる。」(『権利の哲学』§331A)遊牧民衆やジプシーは土地に定着しないから国(Land)や国家(Staat)を形成しにくい。遊牧民衆の場合は排他的な活動領域が国家である。
国が法律(Gesetz)と武力(Gewalt)を持った時に国家が成立する。法律は復讐を制限することによって国家の分裂を防ぐ。「もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされねばならない。すなわち、骨折には骨折、目に目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない。」(『レビ記』24:19-20)マフィアは復讐を制限しないことによって国家の中に国家を作り公共の敵になるが、それ自体が国家の本質を体現する。同時テロ(2001.9.11)に対するアメリカの復讐はマフィアの行為であった。アメリカの復讐はアフガニスタンとイラクにおける大量殺人の末に首謀者であるオサマ・ビンラディン(1957-2011)のパキスタンにおける暗殺(2011.5.2)で終わった。そして国家を維持するために武力は外部と内部に向けられる。「イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。そのとき、主はモーセに言われた、『その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない』。そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。」(『民数記』15:32-36)
国家の重要な機能の一つが貨幣の統一である。政治は税金から始まる。国家は税金の形式で金・銀・銅を吸収し、それを鋳造した上で財政支出の形式で放出する。国家は「貨幣鋳造の大権」(prerogative of coinage.Nussbaum.p.86)を持ち、貨幣はつねに「カイザルのもの」(『マタイによる福音書』22:21)である。国家財政は貨幣回流の中心だからカイザルのものはカイザルに返さなくてはならない。国家が民衆から商品を略奪する武力(Gewalt)を持つ限り、国家が発行する貨幣は強制通用力(Zwankskurs)を持ち、貨幣は商品と軍票(military scrip)の二面性を持つ。
国家は貨幣鋳造の大権を持ち、国家財政は貨幣回流の中心だからカイザルのものはカイザルに返さなくてはならないという大原則を忘れた結果が現在のユーロ危機である。金は世界貨幣であるが、金とユーロは異なる。ユーロは信用貨幣にすぎず、政府の財政政策と中央銀行の金融政策の上に成り立つ。国家論を知らないできの悪い経済学者の妄想の産物が共通通貨ユーロであった。ユーロが分割されるか国家が統一される以外に抜本的な解決策は無い(『日本経済新聞』2011.10.30.p.21)。
国家が存在するのは戦争をするためであって、民衆に奉仕するためではないし、ましてや特定の階級に奉仕するためではない。ヘーゲルが「国家は絶対的な自己目的である」(§258)と言うのはそのことを意味する。国家の大きさは平和的な併合と分裂、軍事的な征服と内乱によって変化する。戦争のための国家を再編成することを革命と呼ぶ。戦争が革命の前提であり革命の目的であるのは自明のことである。
宗教は必ずしも国家的ではないが、国家はつねに宗教的である。国家は戦争の産物であり、戦争はカントが言うように崇高なものだからである(『判断力批判』5.A262-263)。国家ではなくて戦争そのものが崇高である。
プラトン(429-347B.C)は野蛮人(バルバロイ)との戦争とギリシア人同士の内乱を区別するが(RES PVBLICA.Ⅴ470)、自然発生的な生産の主体である共同体(コイノーニア)の境界を戦争の主体である国家(ポリス)の境界と看做したのがプラトンやアリストテレス(384-322B.C)の限界であった。彼らは狭隘で好戦的なギリシア的世界観に制約されていた。生産の主体である自然発生的な共同体は商品流通(資本循環)によって無限に拡大され、戦争の主体である人為的な国家は征服によって無限に拡大される。アリストテレスの限界を超えたのが彼の弟子であったアレクサンドロス大王(356-323B.C)の世界制覇の夢であり、それはローマに継承された。人間の移動と商品と貨幣の移動が保障された世界は単一の文明を持つ帝国である。ローマは他の国家を征服して帝国を建設した。自然発生的な地中海市場を基礎にして建設されたのが人為的なローマ帝国であり、ローマ帝国の安定は市民権を属国の民衆の中の選ばれた者にも与えることによって維持された。ローマ市民であることを誇りにしたユダヤ人パウロは体制内の人であった。