フォイエルバッハと同様にマルクスもギリシアの神々に対して寛容である。それらは自然と人間の本質の対象化であり、学問と芸術に還元されるべきものである。そして多神教の問題は解決済みである。しかし宗教が人間の自己意識であることを人間が直接に意識しても、依然として残るのがヘブルの一神教の神である。それは商品呪物の形式を持って人間を支配し続ける。神の「見えない手」を排除するのは不可能である。

多神教と一神教の対立はローマ帝国に現れる。ローマの帝政とキリスト教は同時に始まったが、ローマ市民は王(rex)の概念を嫌うと同時に一神教を嫌った。したがってローマ皇帝の権威が制限されてprincepsと呼ばれた時代はキリスト教徒が迫害された時代と重なり合う。ローマの多神教に基づく伝統的な文化を否定したためにキリスト教徒は市民に嫌われた。ユダヤ人やキリスト教徒は無神論者や人間嫌いと看做された(弓削pp.130-131)。すなわちローマ市民は一神教における人間性の疎外を感じ取っていたのであり、キリスト教に対する一般的な嫌悪が迫害の原因であったと考えられる。ローマ市民であることを誇りにしたパウロは体制内の人としてローマの権力を肯定し、キリスト教はローマの皇帝礼拝と必ずしも矛盾しなかった。ローマ皇帝の権威が絶対化されてdominusと呼ばれ、キリスト教と結合した時、古代は終わり中世が始まる。

キリスト教は神の存在(Sein)と当為(Sollen)を肯定し、フォイエルバッハは神の存在と当為を否定し、マルクスは神の存在を肯定して当為を否定する。マルクスは神の受肉が商品として実在することを認めざるを得なかったが、神を信じたのではない。マルクスは神の存在を肯定する限りにおいて無神論者ではない。マルクスは無神論者ではなくて反キリスト(Antichrist)である。ヘブルの神の影は幽霊や価値として残り、神学は経済学として現れる。マルクスはスミスの「見えない手」が含むヘブルの神の威力を認識した上で、メフィストフェレスのように人類をギリシア世界に導こうとした。人間の自由は不断の闘争によってのみ維持されるからである。マルクスは強い階級意識を持ち、ギリシア的貴族の立場に立ち、民衆と民衆の宗教であるキリスト教をsubcultureとして軽蔑したが、排斥しなかった。ヘブルの神が存在しない理想世界がギリシアから導き出された「自由な人間の連合」である。それはギリシアの多神教が学問と芸術に解消した後にヘブルの一神教の幽霊も克服された空想的な社会である。呪物崇拝を抜きにした近代ヨーロッパ文明はあり得ず、呪物崇拝を批判することは近代ヨーロッパ文明そのものを批判することである。マルクスは近代ヨーロッパ文明を克服して古代ギリシア文明に回帰しようとした。

宗教の客体的本質と宗教の主体的本質は別である。すなわち、神が社会的に存在することと神を個人的に信じることは別である。神の存在を認めながら神を信じないことは可能である。神を信じるか否かは個人の自由意志の問題である。神が社会的に存在しながら誰にも信じられない場合もある。誰もが他人は信じていると考えながら自分は信じない場合である。ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-75)の童話『皇帝の新しい着物』は宗教の本質を示唆する。皇帝の着物が存在しないことはすべての民衆が認識していることであるが、皇帝が立派な着物を着ているかのように民衆は振舞わざるを得ない。他人を恐れるからである。神が存在しないことは誰もが知っていることであるが、神が存在するかのように人間は行動する。宗教の一種が商品呪物崇拝であり、それの表現が拝金主義(Mammonismus)である。豊かな社会において本当の拝金主義者(Mammonsdiener)はほとんど存在しないが、誰もが他人は拝金主義者であると思い込んで他人を恐れている。貨幣も裸の皇帝にすぎないかもしれない。ここに呪物崇拝を克服する可能性がある。

学問と芸術は労苦(toil and trouble)ではないから学者や芸術家に休暇は無い。学者や芸術家は365日、24時間、自分の課題を考え続け、真夜中に着想を得た時には飛び起きて作業にかかる。証券投資も同様であるが、証券投資に情熱を傾注できる人は少ない。金儲けはそれ自体としてはやりがいの無い仕事だからである。「金を追えば人が逃げる。人が逃げれば金も逃げる。」というのは古今東西の商人の鉄則である。貨幣それ自体が意味を持つのではなくて、貨幣の稼ぎ方と使い方の中に人間性が現れる。

 貨幣そのものを対象にする金融業である保険会社や証券会社や銀行の従業員には人間性を失う傾向がある。彼らにはアルコール依存症や脳梗塞に陥ったり辞職したり犯罪者になったり、殺意の対象になる場合もある。伊藤素子(1948-)が三和銀行を裏切ったのは(1981.3.25)当然であり、日本の封建社会の身分差別である士農工商において商人が最下位に置かれたのも当然である(9)

フォイエルバッハが言うように、キリスト教的な宗教はその本質においては文化や教養の如何なる原理もその中に持っていない(GW.5.p.364)。そしてド・ブロスが言うように、呪物崇拝の迷信は開化(police)によって克服されない(Brosses.p.116)。古代エジプトの呪物崇拝は物を崇拝して文明(civilization)を発展させたが、古代ギリシアの偶像崇拝は人間を崇拝して文化(culture)を発展させた。ヘブルとギリシアの統一であるキリスト教は学問と芸術を宗教化し、キリスト教の一形式である商品の呪物崇拝は学問と芸術を商品化した。

商品の呪物崇拝は自然科学で武装し、無神論を標榜する排他的一神教である。それは伝統的な宗教によって基礎づけられた一切の教義と習慣を払拭し、悟性の平野を生み出す。しかしそれ自体が宗教であることに変わりは無い。呪物崇拝の白いスクリーン(深井pp.136-137)の上に、各民族は自分の姿を投影する。呪物崇拝の破壊力は原理主義に基盤を提供する。すなわちglobalizationによる文明の共通化こそが原理主義の原因である。拝金主義(mammonism)は文化を持たない賤民(paria,Pöbel)を生み、賤民はイデオロギーを必要とする。賤民の概念については後述する。