第四節 価値形式の発展と一般化

単純な価値形式は発展し得る。A=Bという等式が成立するのであれば、A=C,A=D,A=E,etc.という等式も成立するはずである。これを「拡大された価値形式」と呼ぶ。そしてこれらの等式が存在するという事実は、B=A,C=A,D=A,E=A,etc.という等式が存在することを物語る。これを「一般的な価値形式」と呼ぶ。両者の違いは同じ望遠鏡を対物レンズから覗いた時と接眼レンズから覗いた時の違いにすぎない。Aを一般的な等価形式と呼ぶ。あらゆる商品がAの地位に立ち得るが、その地位に最も適した商品がその地位を独占する。これが貨幣形式である。

 単純な価値形式の内容を理解することは貨幣の本質を理解することである。貨幣は一種の宗教的対象であって、単なる合意の産物ではない。

 貨幣の地位には最初は銅が立ったが、次に銀が立ち、最後に金が立った(23)。すべての商品の価値は金の量によって表現され、金は価値尺度(Wertmaß)になる。貨幣は「諸価値の物差」(Maß der Werte)である。商品の価値が貨幣で測定されるだけではなくて、あらゆるものが貨幣と交換されることによって商品になる(MEGAⅡ6.p.128)。あらゆるものは商品になることによって価格を持ち、価格を持つことによって価値を持つように見えるが、価値を持つとは限らないし、価値通りに交換されるわけでもない。

すべての商品は価格を持つ。この事実から「フォイエルバッハの回り道」を通って商品は労働の生産物であるという事実が見出される。すなわち商品に堆積された労働は商品に対象化されるように見える。更に考察すれば商品Aに堆積された労働は商品Bに対象化されることが分かる。この限りでは堆積された労働の量と対象化された労働の量は等しいように見える。しかし更に考察すれば堆積された労働の量と対象化された労働の量は必ずしも一致しないことが分かる。そして終に商品は労働の生産物に限らないことが分かる。ここにおいてパレートの価値無用論の浅薄さも明らかになる。要するに、価値実体は価値形式の基礎であり、価値形式は価格の基礎である。

青い光を見出すためには観察の対象となった物体そのものが青い光を発する必要は無い。ただ青く見えさえすればよい。そのことによって我々は青い光の存在を知り、その光源に遡ることができる。次にその光源から出発して本来は青くないものが何故青く見えたのかという問題が解決されて現象世界が再構成される。これが「回り道」の理論であり、価格論は現象世界を再構成する。

貨幣は人間生活に一神教的な一貫性を与え、このような一貫性を持つ人間は「経済人」(economic man.Marshall 1890.p.22)と呼ばれる。それはユダヤ人の近代化された姿である。

商品の価値は貨幣によって表現された後に貨幣によって実現される。商品の価値を実現する貨幣は流通手段(Zirkulationsmittel)である。マルクスにおける価値尺度と流通手段の関係はカント(1724-1804)における概念(Begiff)と実存(Existenz)の関係であるが(Kant 3.p.402)、これについては後述する。哲学は必修科目であって選択科目ではないが、現在の経済学に欠けているのが哲学である。流通手段の回流(Umlauf)(24)の量を代表する限りにおいて、銀貨と銅貨のような補助鋳貨(Scheidemünze)や国家紙幣(Staatspapiergeld)は価値標章(Wertzeichen)としての機能を果たす。貨幣の地位が補助鋳貨に奪われないように、補助鋳貨の使用は小額の取引に限定される。補助鋳貨はいかに増発されても金属内容以下には減価しないが、国家紙幣は無制限に減価する。

 物価の変動には二種類の原因がある。価値尺度の相対的な価値の変動によるものと、価値標章の過剰か収縮によるインフレーション(25)かディスインフレーションである。

(1)思想史の文脈が重視されればWertformは「価値形式」と訳されるべきであるが、「形式的」という日本語が含む否定的な意味を避けるためにformell(MEGAⅡ15.p.194)は「形態的」と訳され、それに合わせてWertformも従来は「価値形態」と訳された。Formという犬がformellという尻尾に振り回されて本末が転倒された結果、日本におけるマルクス研究は思想史の文脈から逸脱した閉鎖的な世界を形成した。

(2)ロナルド・L・ミーク(1917-78)は労働価値論の歴史を論じるが、価値形式の説明を回避する。(Meek.p.173)

(3)ウィリアム・ペティ(1623-87)は言う。「労働が富の父であり能動的原理であるのは土地が富の母であるのと同様である。」(Petty.p.68)アラブの産油国の国富の源泉は土地である。

(4) 経済学を生産と分配と消費に分割して論じたのはジャン・バティスト・セイ(1767-1832)であるが、セイは生産と分配を区別する原理については述べていない(Say)

(5)Meek.p.247石器時代は石が無くなったから終わったのではないが、石炭や石油についても同じことが言える。因みに、日本が「黄金の国」でなくなったのは、日本に金が無くなったからではなくて、商品価格が上昇して金の相対的価値が下がったからであるが、これについては後述する。

(6)言葉で表現すれば簡単に解ることを代数式やグラフで表現して解りにくくするのは数学の濫用(abuse)であり最悪の学問であるが、その一例がワルラスの学問である(Walras)。集合論の一時的な流行も類似の現象であった(内井pp.77-86)。哲学の不足を数学で補うことはできない。限界効用価値学説そのものは子供染みた思想であり、高等数学を導入するに値しない。素朴な思想を代数式で表現しても何かを証明したことにはならない。ワルラスを継承したシュンペーターの理論は彼の数学力とは無関係であった(Schumpeter.1908.p.489)。ケインズが数理経済学(mathematical economics)を軽蔑したのは当然である(KeynesⅦp.298)

(7)ヘーゲルを批判したフォイエルバッハが有名な哲学者であり、若いマルクスに深刻な影響を与えたことは周知の事実である。

(8)スミスやリカードにとって労働(labour)とは労苦(the toil and trouble)以外のものではなかった。彼らは「対象化された労働」や「抽象的に一般的な労働」や「抽象的に人間的な労働」という言葉を使わなかったし、そのようなことを考えもしなかった。そのような概念は潜在意識の中にはあったかもしれないが、潜在意識は学問ではない。フォイエルバッハがいなければこれらの概念は成立せず、これらの言葉を意識的に使ったのはフォイエルバッハの影響を受けたマルクスであり、これらは経済学の言葉ではなくて哲学の言葉である。

(9)フランス語のtravailloisirも対立するが、loisirは快楽(plaisir)の概念を含む。これについては後述する。

(10)いかにして神を認識するか、すなわちいかにして信仰に目覚めるかは深刻な問題であり、深井智朗(1964-)の『超越と認識』(2004)はこの問題を扱っている(深井)。但し、ヘブルの神とギリシアの神は異なる。イエスが「人はパンのみで生きるのではない」と述べた時、彼はヘブルの神を見出している。しかし織田信長(1534-1582)が「人間五十年」と歌った時、彼はギリシアの神を見出している。キリスト教徒以外は無神論者であるという独断はキリスト教徒だけでなく俗流マルクス主義者のものでもある。しかしギリシア人は宗教的であった。ギリシア人が彼らの神話を信じたかと問うことは、キリスト教徒がイエス・キリストの奇蹟を信じるかとか、子供がサンタクロースの存在を信じるかと問うのと同様の愚問である。子供はサンタクロースの存在を信じるのではなくて「処世術」を知っている。日本の所謂「皇国史観」も処世術の一種であった。処世術は時代と共に変化する。アテナイの処世術に反したことがソクラテス(469-399B.C)の処刑の原因であった。多くの子供がサンタクロースの存在を信じる振りをするように、多くの大人は俗流マルクス主義の命題を信じる振りをした。俗流マルクス主義は神話であった。俗流マルクス主義が神話であれば、ケインズ(1883-1946)やシュンペーター(1883-1950)の経済学も神話である。誰かが「王様は裸だ」と言えばすべての神話は消滅して深刻な哲学が始まる。もちろん宗教や道徳の定義はあいまいであり、宗教的道徳と道徳的宗教がある。ヘブルとギリシアの対立は宗教と道徳の対立として現れる。信仰に目覚めることは恋愛に目覚めることと同様に人生の一大事であり、死の恐怖を伴う。信仰にせよ恋愛にせよ、死の恐怖を伴わない目覚めは本物ではない。イエスは餓死に直面し、織田信長は戦死に直面し、「マリーエンバートの悲歌」を歌ったゲーテ(1749-1832)の人生も終わろうとしていた。宗教と恋愛は排他的であり、信仰に目覚めた人間にとって一つの宗教以外は宗教でなくなるのは、恋愛に目覚めた男にとって一人の女以外は女でなくなるのと同様である。神を認識することが信仰に目覚めることであれば、科学的真理と実存的真理を区別することはできず、左翼の「転向」とキリシタンの「棄教」を区別することもできない。これは遠藤周作(1923-1996)の課題であった。ヨーロッパ人がヤハウェとイエスを持つように、日本人は天照皇大神と仏陀を持つが、これについては後述する。

(11)Gespenstの用法は曖昧である。(GW.5,pp.-8,p.179)

(12)若いマルクスは言う。「キリスト教的ゲルマン国家において・・・宗教は経済事象(Wirtschaftssache)であり、同様に経済事象は宗教である。」(MEGAⅠ2.p.153)マルクスは宗教と経済を同一視している。若いマルクスの着想に生産様式は宗教形式を規定するというフォイエルバッハの思想が結合する。したがって、対象化された労働としては、宗教が尊重する神と経済が尊重する交換価値は同じものである。

(13)正確に言えばカトリシズムは現世の一部を放棄しプロテスタンティズムは現世のすべてを放棄する。すべてを放棄することは何も放棄しないに等しい。

(14)ミサのためにはパンとブドウ酒が必要である。神の恵みであるマナはキリストの肉に代表されパンとして現れる。犠牲の血はキリストの血に代表されブドウ酒として現れる。パンとブドウ酒の関係そのものが恵みと犠牲の交換関係を表現する。ユダヤ人の債権者であるシャイロックは古代ローマの十二表法(450B.C)に基づいてキリスト教徒の肉を要求したが、血の存在を見落とした。シャイロックに欠けていたのはアントニオが持っていた自己犠牲の精神である。シャイロックとポーシャの論争はユダヤ教とキリスト教の神学論争である。但しプロテスタンティズムはユダヤ教に回帰する。「キリスト教はユダヤ教から発生したものである。それは再びユダヤ教に解消してしまった。」(MEGAⅠ2.p.168)シャイロックは当時のイギリスに存在しなかったユダヤ人ではなくてピューリタンを暗示するという説もある(Milward)。シャイロックとアントニオの対立は高利資本(Wucherkapital)と商人資本(Kaufmannskapital)の対立であるが(MEGAⅡ15.pp.583-584)、ここで強調されているのは冒険商人の英雄主義である。この喜劇の主題は美人を獲得する男が選ぶべき鉛の小箱に書かれた「我を選ぶ者は持てるすべてを与え賭けねばならぬ。」(Who chooseth me must give and hazaed all he hath.二幕七場)という言葉に象徴される。『ロミオとジュリエット』の恋愛は一時的な子供の恋愛にすぎないが、『ヴェニスの商人』の恋愛は財産を掛けた大人の恋愛である。そしてユダヤ人に対する差別は宗教的なものであって人種的なものではない。シャイロックの娘はキリスト教徒の男に愛されシャイロック自身もキリスト教に改宗することによって放免されたが、黒人はその富や高貴な身分にも関わらず嫌われている。高利(Wucher)と利子(Zins)は異なる。高利は貸手の損失に対する保険料であるが、利子は借手の利益からの分配分である。これら二つの要素が現実の個別利子率を決定する。そして融資に対する利子と投資に対する配当は異なる。利益の変動に対して利子は無関係であるが、利益の変動に対して配当は比例する。イスラム教は利子を否定するが配当を肯定する。イスラム世界にシャイロックは存在しないが多くのアントニオは存在する。古来アラブ人は勇敢な商業国民として世界市場を開拓して世界帝国を建設し、気宇壮大な『アラビアン・ナイト』の世界を形成した。イスラム教と近代の資本主義(le capitalisme.MEGAⅡ7.p.692)は矛盾するものではない。パンとブドウ酒が交換関係を形成するだけではない。キリスト教徒は二種類のパンを食べる。したがって二種類のパンも交換関係を形成する。キリスト教徒が食べる二種類のパンという概念に対する皮肉が、『資本論』が3度も言及するロンドンにおける二種類のパンという概念である(MEGAⅡ6.p.190,pp.253-256,pp.510-511)。ロンドンには二種類のパン屋があった。完全価格(fullpriced)のパン屋と安売り(undersellers)のパン屋である。安売りのパンとは分量を増やすために有害な混ぜ物をしたパンであり、労働者向けであった。それは正に有限の生命を与えるだけであった。これは食品公害の始まりであった。もちろんブドウ酒も無事ではいられない。ジャン・アントワーヌ・シャプタル(1756-1832)が原料に砂糖を添加する方法を発見して以来、ブドウ酒は得体の知れない化学薬品になった。『ヴェニスの商人』に関して経済学者が語るべきことは多い。しかし岩井克人(1947-)の『ヴェニスの商人の資本論』(岩井)は内容空疎な本であり、表題を見て購入した人は立腹したはずである。羊頭を懸けて狗肉を売るのは良心的な商人のすることではない。岩井は日本の高度経済成長期における立身出世主義(carieerism)の産物であり、独創性を持たない研究者の代表である。彼らの特徴は経歴を持ち業績を持たないことである。中沢新一(1950-)は言う。「農耕民よりもずっと古い伝統をもつ、狩猟民のものの考え方を探ってみると、交換というもののはじまりは、人と人とのあいだにではなく、人と神のあいだに発生したものだ、と考えられていることがわかる。」(中沢p.96)しかし宗教学者の大部分は『聖書』と哲学を知らず、『資本論』を解読する能力を持たない。

 

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