商品語とは啓示の「回り道」のことである。「労働が人間的な労働の抽象的な属性において亜麻布自身の価値を形成すると言うために、亜麻布は、上着が亜麻布に等しく、したがって価値である限り、上着は亜麻布と同じ労働から成り立つと言う。亜麻布の崇高な価値対象性はその武骨な肉体と別であると言うために、亜麻布は、価値は上着のように見え、したがって亜麻布は価値物としては上着と瓜二つであると言う。」(ibid.p.85)

 ユダヤ教が代表するアジア的生産様式の発展形式の一つが近代町人的生産様式だから、商品語は本来的にヘブル語である。しかし『資本論』は言う。「ついでに言うと、商品語は、ヘブル語の他に、多くの多かれ少なかれ正確な方言を持つ。例えばドイツ語のWertseinはロマンス語の動詞valere,valer,valoir ほど商品Bの商品Aとの等置が商品Aの固有の価値表現であることを表現しない。」(ibid.p.85)内陸的な封建社会の言語であるドイツ語と地中海市場の言語であるロマンス語のニュアンスが異なるのは当然である。しかし両者は本質的に同じ関係を表わし、封建社会のミサの関係が商品の交換関係の基礎であることはすでに見た通りである。これを示すために『資本論』はフランス国王アンリ四世(1553-1610) がプロテスタンティズムからカトリシズムに改宗した時のフランス語valoirの用例を引用する。Paris vaut bien une messe!( パリは確かにミサに値する! )(ibid.p.85)

  『キリスト教の本質』においては神が人間の鏡(Spiegel.GW.5.p.127)であった。『資本論』は言う。「かくて価値関係に仲介されて商品Bの自然形式は商品Aの価値形式になる、あるいは商品Bの肉体は商品Aの価値鏡(Wertspiegel)になる。(MEGAⅡ6.p.85)

 キリスト教に対するフォイエルバッハの分析がマルクスの労働価値論の第二の源泉であることはすでに論証された。パンと神の関係は普通のパンと晩餐のパンの関係であり商品Aと商品Bの関係であるとマルクスが考えたことは確かである。ここに一つ疑問が残る。神は無限であるが商品の交換価値は有限である。しかし晩餐のパンは手で分けられ(『マタイによる福音書』26:26)、聖霊は分与された(『使徒行伝』2:3-4)。ここで考慮されるべきは宗教と商品交換のどちらが先に成立したかという問題である。宗教は歴史と共に古いが商品交換も歴史と共に古い。宗教に基づいて商品交換が行われるのではなくて、商品交換に基づいて宗教が成立する。ミサの思想は明らかに商品交換の投影である。宗教と商品交換との違いは抽象的な理想と具体的な現実との違いである。

マルクスが1883年に死んで以来、マルクスの労働価値論は謎のままであった。この謎が今ここで初めて解明された。所謂「限界革命」が不必要であったことも明らかになった。しかしマルクスは孤高の天才であった。マルクスの労働価値論の哲学的内容を理解せずにリカード派社会主義の延長線上にマルクスを置いたのがマーシャルであるが(Marshall 1919.pp.657-658)、これが経済学者の一般的な見解であり、エンゲルス以来の俗流マルクス主義の基本的な立場でもあった。俗流マルクス主義の盛衰の原因はその浅薄さにあった。しかし経済学史における価値形式論の出現は「マルクス革命」(1867)と呼ばれるべき重要な事件であり、「限界革命」(1871)と「ケインズ革命」(1936)に先行し、それらに優る。

ここで将来の理論展開のための注意をしておかなくてはならない。商品の分析においては、「フォイエルバッハの回り道」を通ることによって、「価値の実体」が「堆積された労働」であるという事実が見出されたために、その量的規定は労働時間であると推論される(MEGAⅡ6.p.72)。しかし個々の商品が生産に要した労働時間に基づいて交換されると述べられたわけではないし、そのような事実は実証不可能である。個々の商品は価値を持つが、価値の絶対量を知ることはできないし、価値通りに交換されるわけでもない。

パンと神の関係においては、神が対象化された労働であるという事実から、「フォイエルバッハの回り道」を通って、パンは労働の生産物であるという事実が見出された。この事実から一定量のパンには一定量の労働が堆積されているという事実が推論される。すなわち堆積された労働は量的に規定される。しかし一定量のパンだけでなくあらゆる生産物に堆積された労働が神に対象化される。神は無限であるから、対象化された労働を量的に規定することはできない。すなわち、量的に規定されない労働が回り道を通ることによって量的に規定される。

普通のパンと晩餐のパンの関係においては、晩餐のパンは量的に規定されている。したがって一定量の普通のパンに堆積された労働の量は晩餐のパンの量によって表現されるように見える。しかしこの場合においても、異なった量の普通のパンに堆積された労働の量は異なるが晩餐のパンの量は一定である。したがって普通のパンに堆積された労働の量は晩餐のパンに対象化された労働の量と一致しない。

商品Aと商品Bの関係においては、商品Aに堆積された労働は商品Bに対象化される。したがって商品Aに堆積された労働の量は商品Bに対象化された労働の量に等しいように見える。しかしこの場合でも、両者が等しいとは限らない。すなわち、堆積された労働の量と対象化された労働の量、あるいは価値と価格の量的相違が想定される。商品交換の本質は不等価交換であり、等価交換は特殊な例にすぎない(21)。「真理であり、かつ自明でない社会科学の定理」(『日本経済新聞』2017.1.15.p.1)の一つが不等価交換の定理である。売買に損得は付き物であり、人間は平等ではあり得ない。

経済学史における価値形式論の画期的な意義は、「堆積された労働」である価値と「対象化された労働」である価格の量的な相違の必然性、すなわち「不等価交換の原理」を発見したことである。この発見は国際価値論と世界市場の発見に通じる(22)

エネルギーは自然科学的で客体的(objektiv)な概念であるが、価値は社会科学的で主体的(subjektiv)な概念である。価値は「社会的な実体」(gesellschaftliche Substanz.MEGAⅡ6.p.72)である。したがって「エネルギー保存の法則」は存在するが「価値保存の法則」は存在しない。総エネルギーは不変であるが総価値は絶えず変動する。価値は幽霊(Gespenst.ibid.p.72)のように発生して消滅する。すなわち、価値は社会的認識の中にのみ存在する。人間の頭の中で起きることは主体的(subjektiv)であるが、多くの人間の頭の中で起きることは客体的(objektiv)である。主体的なものは社会的な活動によって対象化(vergegenständlichen)されて客体的になる。神や価値形式(価格)や国家はそのような概念である。そして客体的なものを通して主体的なものを発見するのが「フォイエルバッハの回り道」である。

価値を生産する活動を労働と呼び、労働が価値を生産するのではない。社会的生産有機体においては誰が生産者であるか分からないのは、生産(production)のためには消費(consumption)が必要だからである。後に見るように、ネクタイを締めて料理店に入ることも農業労働の一部であると看做すことができる。すなわち、社会全体の活力が労働として現れる。所謂「労働者階級」の汗を過大評価するのは俗流マルクス主義の偽善であり、「骨折り損のくたびれ儲け」(Great pains but all in vain.)という諺もある。しかしすでに見たフォイエルバッハの定義によれば生産とは利己主義(Egoismus.GW.5.p.208)のことである。この点において生産(production)と消費(consumption)、労働(labour)と余暇(leisure)は区別される。したがって余暇の産物と手段が利己主義の対象になった時に余暇産業(the leisure business)が成立する。余暇産業の規模は学問と芸術が商品化されることによって拡大し、余暇産業の代表が出版と放送であるが、余暇産業の中に労働と余暇の矛盾が現れる。すなわちアカデミズムとジャーナリズムの間に馴れ合い関係が成立して革命的な学説を封殺する力も作用する。

そして総価値と総価格の量的相違は国際的相違と時期的相違を含む。しかし後に見るように、社会的認識における総価値と総価格は、変動期には相違し、安定期には一致すると想定される。総価値は総価格を経由する「回り道」を通ってのみ認識されるからである。価値論は経済学の難問である。

「フォイエルバッハの回り道」は、単なる哲学的な屁理屈ではなくて、経済学における難問を解く魔法の杖である。この理論によって、希少価値、物価上昇、特別剰余価値、平均利潤、外国貿易、デフレーション等々の問題が解決される。したがって、スミスとリカードを継承する生産と分配の理論において、マルクスの経済哲学(economic philosophy)とマーシャルやケインズの経済数学(economic mathematics)はほぼ並行する。

 
第四節に続く・・・