第二節 パンと神

1 ヘブル的労働とギリシア的労働の対象化

『キリスト教の本質』において、フォイエルバッハは人間の本質である理性(Vernunft)と意志(Wille)と心(Herz)が対象化されたものが神であると主張する。そして彼はキリスト教を分析してユダヤ教に遡った後にユダヤ教を基礎にしてキリスト教を再構成し、ヘブル的本質とギリシア的形式の統一としてキリスト教を把握する。

キリスト教の神の基礎はユダヤ教の創造神である。では創造とは何か。「特徴的な意義における創造説(Kreatikonslehre)は次のような立場においてのみ生じるが、その立場とは人間が実践的(praktisch)に自然を自分の意志(Wille)と欲望(Bedürfnis)にのみ従属させ、したがって自分の表象力の中でも純然たる作りもの(Machwerk)、意志の産物(Produkt des Willens)に引き下げるような立場である(GW.5.pp.205-206)。」「功利主義(Utilismus)、効用(Nutzen)はユダヤ教の最高原理である。・・・奇蹟に対する信仰が存在するのは自然が恣意(Willkür)の、すなわち正に自然を恣意的な目的にのみ利用する利己主義(Egoismus)の客体としてのみ直観されるところにおいてである。(ibid.p.208)」「イスラエルは・・・自然に対して胃の感官(gastrische Sinne)を開いたのみである(ibid.p.209)。」「食うこと(Essen)の中でイスラエルは創造行為(Kreationsakt)を讃え、新たにする(ibid.p.209)。」これを経済学のイギリス語では「富の生産」(production of wealth)と呼ぶ。そしてこの場合の実践(Praxis)とは労働(labour)のことである。

 このようなユダヤ人の実践的な立場(praktischer Standpunkt)はギリシア人の理論的な立場(theoretischer Standpunkt)と対立する。ではユダヤ人と対立するギリシア人の立場とは何か。「自然が美しい本質であるような人にとっては、自然はそれ自体の目的として現れる(ibid.p.206)。」「理論の立場は世界との調和(Harmonie)の立場である。人間がそれによって自分を満足させ、自分に自由な活動余地(Spielraum)を与える主体的活動(subjektive Tätigkeit)は、ここでは感性的想像力(sinnliche Einbildungskraft)のみである。(ibid.p.207)」「ギリシア人は自然を理論的感官(theoretische Sinne)で考察した(ibid.pp.208-209)。」ユダヤ人を際立たせるものが生産と労働の原理であるとしたら、ギリシア人を際立たせるものは自然と余暇( スコレー、leisure)の原理である。

しかしフォイエルバッハは経済学者ではなかった。彼は自分が語っていることの真の意味に気付いていない。フォイエルバッハの業績の真価に気付いたのは哲学と経済学の両世界に通じていたマルクスである。宗教のヘブル語はフォイエルバッハによって哲学のドイツ語に翻訳されたが、フォイエルバッハのドイツ語はマルクスによって経済学のイギリス語に翻訳された。哲学者は考えたことではなくて語ったことによって評価される。

ところで自然と余暇(leisure)のみの上に成り立つ社会はあり得ず、ギリシアにも生産と労働があったはずである。ではヘブルの労働とギリシアの労働はどこが異なるのか。ここでフォイエルバッハから離れてヘブルとギリシアの文献を比較しなくてはならない。

 ヘブル的労働は原罪の結果としてアダムに負わされた宿命的な労苦(アーマール『伝道の書』1:3)である。『創世記』は言う。「地はお前のために呪われ、お前は一生苦しんで地から食物を取る。地はお前のためにいばらとあざみとを生じ、お前は野の草を食べるだろう。お前は顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。お前は土から取られたのだから、お前はちりだから、ちりに帰る。」(3:17-19)これは自然の脅威に翻弄される予測不可能な労働であり、努力に必ずしも報いず、人間の全生活を圧迫するものとして意識された。そして安息日は死刑によって強制された(『出エジプト記』31:14)。自然と敵対するこの労働が対象化されたものが創造神である。

ギリシア的労働はヘシオドス(750-680B.C)の仕事(エルゴン)である。『仕事と日』は言う。「人間は労働(エルゴン)によって家畜もふえ、裕福にもなる。また働(エルガゾマイ)くことでいっそう不死のものたちに愛されもする。」(Hesiodos.308-309.p.62)これは自然法則と農事暦に従う予測可能な労働であり、努力に比例する成果をもたらし、必然的に余暇(スコレー)を伴うものとして意識された。自然と調和するこの労働と余暇が対象化されたものが多神教の神々である。

自然環境の相違が自然に対するユダヤ人とギリシア人の態度の相違をもたらしたと考えられる。生産様式が宗教形式を規定した。ユダヤ人は自然の外に神を見出し、ギリシア人は自然の中に神々を見出す。

フォイエルバッハによればヘブル的本質とギリシア的形式の統一がキリスト教だから、キリスト教の三位一体はヘブル的労働(アーマール)とギリシア的労働(エルゴン)と余暇(スコレー)の統一が対象化されたものであると考えられる。フォイエルバッハは言う。「活動(Tätigkeit)や作製(Machen)や創造(Schaffen)の概念はそれ自体として神的な概念であり、したがってそれはためらわずに神に適用(anwenden)される。行動(Tun)においては人間は自分が自由で、無制約で、幸福であると感じ、苦悩(Leiden)においては制約され、抑圧され、不幸であると感じる。活動は肯定的な自己感情である。人間において喜びに伴われるものは一般に肯定的であり―神はしたがって、我々が上述したように、純粋で無制約の喜びの概念である。我々が喜んですることだけが成功する。喜びがすべてを克服する。喜ばしい活動とはしかし我々の本質と一致し、我々が制限としてしたがって強制と感じない活動である。しかし最も幸福で浄福な活動は生産的(produzierend)な活動である。読むことは楽しく、読むことは受動的な活動であるが、読むに値するものを創造するのはもっと楽しい。与えることは奪うことより浄福であるのはここでも言える。こうして産出活動(hervorbringende Tätigkeit)という類概念は神に適用される、すなわち真実には神的活動や本質性として直観され対象化(vergegenständlichen)される。しかし活動のあらゆる特別な規定(besondere Bestimmung)、あらゆる種(Art)は除かれ、本質的に人間的な基本規定、自分の外部への産出という基本規定のみが残る。神は、人間のように、何か、これやあれや、特別のものを産出したのではなくて、すべてを産出したのであり、その活動はまったく普遍的で無制約である。(GW.5.p.365)

ここでlabourArbeitの関係について注意しておかなくてはならない。labourは生活手段を得る活動であり、leisureにおける文化的活動と対立する。ソースタイン・ブンデ・ヴェブレン(1857-1929)は言う。「すでに言ったことであるが、ここで使われているleisureという言葉は怠惰(indolence)や無為(quiescence)を意味するのではない。それが意味するのは時間の非生産的な消費である。」(Veblen.p.43)しかしArbeitは生活手段を得る活動と文化的活動を含み、無為を意味するMuße(MEGAⅡ6.p.484)と対立する(9)。ヘーゲル(1770-1831)は「教養の労働」(Arbeit der Bildung『権利の哲学』Hegel.§187A)という言葉を使い、マルクスも「芸術家的な労働」(künstlerische Arbeit.MEGAⅡ15.p.736)という言葉を使う。『資本論』が労働日(Arbeitstag)を短縮する必要性を強調しながらMußeという言葉を肯定的で積極的な意味で使わないのは文化的活動を重視するからである。マーシャルがleisure(Marshall 1890.p.599)を持ちマルクスがMuße論を持たないのは、両者の思想の相違によるのではなくて、イギリス語とドイツ語の言語体系の相違による。

このように、著作活動を含む産出活動一般を労働(Arbeit)と呼べば、フォイエルバッハがここで提示する神は「対象化された労働」(vergegenständlichte Arbeit)であると考えられる。しかし一神教の神の中に対象化されている労働は、フォイエルバッハの叙述に従えば類概念としての労働、すなわち特別の形式(Form)の消え去った労働である。

この労働から先ず余暇(leisure)における精神的生産が排除されて物質的生産だけが残される。「個人としての人間はいつでも同じようにではなくて、特別の外部からの要求と内部からの興奮の瞬間にのみ自分の能力を展開する。だから天才の作品が発生するのは、つねにまったく特別な、一度だけそのように一致する内的及び外的な条件の下においてのみである。(GW.5,p.356)」それに反して富を生産する労働は本質的に恣意的(willkürlich)であり、自然から人間を区別するという意味において人間的(menschlich)である。「神は人間と同様に自分の外部に何かを作る。作ることは純粋に、基本的に人間的な概念である。自然は産み、もたらし、人間は作る。・・・精神的作品(geistige Werke)は作られるのではなくて、・・・我々の中に発生(entstehn)する。しかし作ることは無関心(indifferent)で、そのために自由な、すなわち恣意的な活動である。神は作るという限りにおいては、神は人間と完全に一致し、人間から区別されない。(ibid.pp.368-369)

ところで類概念としての労働は類概念としての自然の存在を否定するものではない。生産物の種差(Artunterschied)と共に労働の種差も払拭されるが、生産物一般の概念と共に労働の客体としての自然一般の概念は依然として残るはずである。この限りでは労働は自然の中における人間の活動である。これは自然法則に従うギリシア人の合理的なエルゴンが抽象化されたものである。

しかし自然の種差が否定されるだけではなくて自然の概念そのものが完全に否定された時、労働は人間の活動であることを止め、無から世界を作る創造神の活動に転化する。「しかし今や突然に調和は不調和に解消する。今までは自分自身と一致していた人間は自分自身と分裂する。神は無から作る(machen aus Nichts)。神は創造する。無から作ることが創造である。これが区別である。(ibid.pp.369-370)」これは自然法則に敵対するユダヤ人の不合理なアーマールが対象化されたものである。

したがって神の内容は人間的であるが、二重の意味において人間的である。「宗教の内容と対象はまったく人間的であるが、何か肯定的なもの(Positive)を否定的なもの(Negative)と同様に意味するこの言葉の二重の意味において人間的である。宗教は人間的本質の強さ(Mächte)だけではなくて弱さ(Schwachheiten)をも示しているが、この弱さは、人間の心の主体的願望を、例えば奇蹟の中で、無条件に肯定する。(ibid.p.443)

創造神の中に対象化されているのは、自然の中における現実の労働から種差を捨象しただけの労働ではなくて、自然の存在そのものを完全に捨象することによって神の中にのみ見出される労働である。

キリスト教においては個人の限界が類の限界と看做されることによって類としての類が否定され、人間と対立する神の実存が肯定される。「個人が自分の制限を類の制限にするなら、それは個人が自分を類と直接に同一視するという欺瞞に基づく。」(GW.5.p.37)したがって労働に関しても、人間の労働が否定されて神の奇蹟(Wunder)が肯定されるはずである。

  神が対象化された労働であることは、神に奇蹟を要求する祈りが人間の労働と対立することで証明される。「世界の表象、すなわちここではすべて仲介されたものだけであり、あらゆる作用がその自然的な原因を持ち、あらゆる願望はそれが目的にされて適当な手段が採られた時にのみ達成されるのだという表象を念頭から追い払わない人間、そのような人間は祈(beten)らない、彼は労働(arbeiten)するのみである。(ibid.p.222)」神は全能であるが人間の労働は自然に制約されている。したがって奇蹟は心情的(gemütlich)であり、労働は非心情的である。「しかし奇蹟が心情的であるのは、すでに述べたように、それが労働(Arbeit)や緊張なしに人間の願望を満たすからである。労働(Arbeit)は非心情的で不信仰で合理主義的である、というのはここでは人間は自分の実在(Dasein)を目的活動に依存させ、その目的活動はまた対象的世界の直観によって仲介されているからである。(ibid.p.236)

  もちろん、神は人間を現実の労働から解放するわけではないし、人間は祈ってさえいれば労働しなくても済むわけではない。神はすべての原因であり、自然や自然の中における人間の労働は神の手段である。そして神の奇蹟は手段なしでも作用するが、手段を通しても作用する。「神は確かに我々を、アダムとエバのように、自分自身から、父と母なしで、人間に創造することもできたであろうが、それは神が確かに王侯なしで支配でき、太陽や星なしで光を、鋤くことや耕すことや他の労働(Arbeit)なしでパンを我々に与えることができたであろうことと同様である。しかし神はそうすることを望まない。(SW.Ⅵ.p.368)」生産における現実的労働の作用は、それ自体の作用ではなくて、背後に存在する神の作用である。

  ギリシア人は人間を宇宙の一部として把握することによって個人を類の一部として把握した(GW.5.p.264)。自然が否定されることによってではなくて肯定されることによってのみ、類概念としての労働が現実に成立する。確かに個人の労働は制約された不完全なものである。しかし個人は相互に補完し合うことによって完全な類の概念を形成する。「個別的には人間の力は制約されているが統一されれば無限の力である(ibid.p.166)。」そして個人の労働は、完全な全体の構成部分として意識された時、それ自体として最高の意義を持つものとなる。「全体の直観の中に生きるからこそ、人間は部分本質にすぎないものとしての自分の直観の中で生きるのであり、その部分本質が部分本質であるのはそれを全体の部分にする規定性によってのみである。したがって各人は正当にも自分の仕事、身分、技術、学問を最高のものと看做す。(ibid.p.294)

 キリスト教はヘブル的本質とギリシア的形式の統一であり、一神教と多神教の矛盾である(ibid.p.388)。ヘブル的本質はギリシア的形式を通して啓示されるが、啓示の目的は創造者として対象化された労働を人間に示し、それによって人間を支配することである。そして神の全能と対立する人間の労働は、それ自体としては、無益で無意味な労苦にすぎない。

しかし啓示を仲介するギリシア的形式は、自然や自然との調和の中における人間的本質を表わしている。したがって晩餐のパンとブドウ酒は自然の中における人間の労働を表わしている。「しかしまた我々人間は自分を動物世界や植物世界・・・から区別し、自分を自然から区別する。したがって我々は自分の優位(Distinktion)、自分の本質的区別を讃えなくてはならない。我々のこの区別の象徴がブドウ酒とパンである。ブドウ酒とパンは、その物質(Materie) によれば自然の産物であり、その形式(Form)によれば人間の産物である。・・・ブドウ酒とパンは、理性と自然に矛盾しない唯一の妥当で真の意味における、超自然的産物である。・・・我々はここで自然に対する精神の真の関係を讃えるのであり、自然は素材(Stoff)を与え、精神は形式(Form)を与える。(ibid.pp.452-453)」そして「労働することは奉仕すること」(Arbeiten ist Dienen.ibid.p.295)であり、類概念としての労働はそれ自体として有益で有意義なものである。「君を飢えの苦しみから救う一片のパンごとに、君の心を喜ばせる一口のブドウ酒ごとに、君にこれらの有益な賜物を与える神、すなわち人間のことを考えよ(ibid.p.454)。」しかし類概念としての労働は自然の中における労働であり、自然を無視する過度に「人間的な」労働ではない。「しかし人間に対する感謝に心を奪われて自然に対する感謝を忘れるな(ibid.p.454)。」

ユダヤ人が自然を否定する労働を唯一の神に対象化したのに対し、ギリシア人は自然と調和する労働を多数の神々に対象化した。したがってユダヤ人のアーマールとギリシア人のエルゴンが統一されたものがキリスト教の労働(エルゴン『コリント人への第一の手紙』15 :58)である

 
第二節の「2 回り道」に続く・・・