民主主義社会とは、何事も自分で決められる社会と同時に、他人が決めることを妨げない社会、これらが追求する権利を認められた社会である。そして民主主義とはそのような社会のことをいう。
民主主義とは、他人に押し付けられるのでもなく、他人の言いなりになるのでもなく、自分のことは、自分で判断し、決定し、その結果に自分で責任をもつ社会である。言い換えれば、「生きる力」をもった人々の社会である。
自分も図書館と民主主義との関係性については疑問を持っている図書館が民主主義の砦というのなら専制君主制下の図書館の存在をどう位置づけたらいいのであろうか。それが図書館を民主主義と結びつける考え方自体は割りと一般的だろうか、図書館学を勉強していると「どこで聞いたかは忘れたがどこかでは聞いた」程度で自然に刷り込まれているものではなかろうか。
「図書館の自由の状況は、一国の民主主義の進展を図る重要な指標」という部分が直接的に「民主主義」という言葉を出しているところだが、そもそもが「知る自由」を保障するのが図書館である、という考え方自体が民主主義に基づいてるため「民主主義の砦としての図書館」のようなな言い回しが出てくるのではないだろうか。
そもそもが「民主主義下において、主権者である市民が政治行動において適切な判断を下すためには判断材料となる情報へのアクセスが保障されていなければならない」というような考え方の上にたって米国などの公共図書館は発展してきたわけであるから、図書館と民主主義を結びつける考え方自体は図書館員にとっては割りと真っ当なのであろう。
先程も記述したが、「図書館=民主主義の砦」ということになると、専制君主制下やその他の政治体制下における図書館の立場はどうなるのか。
「民主主義の芽を守るための施設である」とかってことになると為政者からは目の敵にされるだろうし、職員はレジスタンスのようなものにならないとは限らない。あるいは民主主義がしかれている現在の日本において、「民主主義の○○としての図書館」のようなところから図書館について語り始めると、どうしたって最後は政治性の問題になってくる。
  「民主主義の根本精神とはなんであろうか、それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。人間が人間として自分自身を尊重し、互いに他人を尊重しあうということは、政治上の問題や投票よりも、はるかにたいせつな民主主義の心構えである。どこでも、いつでも、この精神が人間の関係を貫いている場合には、そこに民主主義がある。民主主義は、家庭の中にもあるし、学校にもあるし、工場にもある。社会生活にもあるし、経済生活にもあるし、政治生活にもある。ほんとうの民主主義は、議会の建物の中でつくられるものではない。もしもそれがつくられるものであるとするならば、民主主義は人々の心の中で作られる。それを求め、それを愛し、それを生活のなかに実現してゆこうとする人々の胸の中こそ、民主主義のほんとうのすみかである。」

 上の文は、戦後まもないころに文部省がつくった教科書「民主主義」からの抜粋だが、「人びとの心のなかこそをほんとうのすみかとする民主主義」は人びとの心だけでなく、どこにでもあり、たとえば、「図書館」が自らもまた「民主主義のすみか」である、と宣言した文章を思い出したので、紹介しておく。
人間は、社会生活の中で自分で物事を決めなければならない場面が必ずある。そのとき、判断、選択、決定が正しい基礎になされなければ、その行為自体が正しいものではなくなり、無意味になってしまう。
私たちは誰もが幸せになりたいと願っている。残念なことに、人類の長い歴史のなかで幸せでありたいと願ってそのとおりに過ごせた人はごくわずかしかいないだろう。この問題が難しいのは、幸せである状態が人によって違うことである。ある人にとって、使い切れないほどの財産をもつことが幸せかもしれないし、別な人にとっては、愛する家族と健康に過ごせることかもしれない。人にとって、それぞれ幸せな状態が異なるので、「誰もが幸せな社会」というのはありえないというほかはない。
ならば、「誰もが幸せになる権利がある社会」ならつくることができるかもしれない。図書館には、市民の生活を豊かにし、生活の質を上げる手助けをすべき施設ではないだろうか。
図書館は、出来るだけ多くの知識や情報を集め、必要な人に素早く的確に提供する社会的なものは、何の制約も、何の規制も受けずに、自らの判断、選択、決定のための情報を収集することができる。図書館の社会的存在意義はここにあるのではなかろうか。
図書館は、民主主義社会を下支えする機関であることが理解されたように思う。他人に依存せず、他人に迎合せず、自らの意志で物事を決めようとする人々が図書館へやってくる。この自己判断、自己選択、自己決定、自己責任を実践するのが、市民でなのかもしれない。