映画を観る人の
現実のスクリーンと 選んだ映画のスクリーン
映るのは それぞれ分離した片割れ
「泣ける」映画と
「笑える」映画
どちらも その場で消化が基本
大笑い!)^o^()^o^()^o^(
あースッキリ♪
泣ける~号泣(T ^ T)(T ^ T)(T ^ T)
こちらもスッキリ♪
…但し 観た後に
何もアクション起こせないなら
それは《自慰》
散々っぱらやればいい。どんどんやるべし^_^
「笑える」映画に 興味ない時は
ある意味必要ない
(つまり、現実世界でも充分に笑えてる、満たされてる)
「笑える」映画が 好きすぎる場合
映画のスクリーンで 笑うことで
現実のスクリーンからは 逃げている時もある
(逃げといっても大方の場合、当人の実感は薄い、もしくは無)
現実のスクリーンで
泣きや怒りや恐れが大きいなら
《逃げ》確定。
映画のスクリーンで 笑い続けるか
現実のスクリーンでも笑えるよう
チャレンジするかは ご自由である^_^
また、
泣く映画に 興味ない場合
現実世界で 泣きたい時に 泣きたいだけ泣けているヒト。
但し、今までのオトナ社会は
おおっぴらに泣くことがとても難しく
泣きたい時に 泣きたいだけ 泣けているヒトというのは 皆無といっていい。
「泣ける」映画が 好きすぎる場合
映画のスクリーンで 泣くことで
現実のスクリーンでは 泣かずに頑張っていることが殆ど。
(当人は、頑張ってる感皆無、または薄々気づいていても やめ方を知らない)
現実のスクリーンで 殆ど泣かずに
映画でだけ やたら勢いよく 泣けるなら《頑張りすぎ》確定。
↑過去の私は まさにこのパターン(T ^ T)
映画のスクリーンで 泣くように
現実のスクリーンでも泣けるよう
お試しになるかは こちらもご自由である^_^
↑「泣ける」映画で散々泣き散らした末に 現実のスクリーンでも泣けるようになって バランス取れるようになったのが私(´∀`*)^_^
また、
「怖がる」映画と
「怒る」映画がある
こちらも 「笑える」「泣ける」映画同様
観た後に何も アクションを 起こせないならば
それは《自慰》
散々っぱらやればいい。どんどんやるべし^_^
「怖がる」も「怒る」も
映画のスクリーンから持ち帰り自由なところ
「泣ける」「笑える」よりも
持ち帰りしやすいところが
非常にやっかいである
「怖がる」映画に 興味ない場合は
ある意味必要ない
(つまり、現実世界でやること決まってる)と言える
「怖がる」映画が 好きすぎる場合
映画のスクリーンで ビビることで
現実のスクリーンからは 逃げている
ともいえる
(逃げと書いたが、大方の場合、当人の実感は薄い、もしくは無)
現実のスクリーンで
泣きや怒りや恐れが大きいなら
《逃げ》確定。
映画のスクリーンで 怖がり続け
現実のスクリーンは 観ないことにするか
ビビりつつも 現実の方を 変えようと
チャレンジするかは ご自由である^_^
「怒る」映画に 興味が持てない場合も
ある意味 やること決まってる
やることと、やらないことが 見えている
それでも 手をつけられない 進められない場合
消化不良の怒りを溜めてることが殆ど
その怒りでもって ジブン事すらヒト事にするという それはそれは強力なストッパー
だから
怒りを吐き出させるのが先決
但し その怒りの下には
哀しみや さみしさが 潜んでいることが大半。
それを拾う方が事は早い
「笑う」「泣ける」「怖がる」「怒る」のどれも
現実のスクリーンてばそれを抑え
映画のスクリーンだけ観て
「(だから)スゴイね!」で盛り上がってるのが
一番の逃げパターンだ。
そう、すべてはバランスであり
選ぶ映画とその見方に
ヒトの《分離》が見てとれる。
★注:笑う映画、泣く映画、怖がる映画、怒る映画というのは、作品のジャンルではない。
鑑賞者の感じ方次第。
それも、数の仕合わせ。
★★★☆☆
《かずの葉の庭》主宰
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