シンカに至るストーリー - Happy Birthday | ​ 観るチカラを、生きる糧に。 ー SCREEN(私設)研究所

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観る映画が、あなたの、わたしの、人生のヒントになる。
ここは、SCREEN(私設)研究所。

潜在数秘術×映画で
「観る」ことと心の関係を
映画を通して読み解いていきます。

1968年2月22日。
 
 
母は前日、破水しそのまま自宅出産
下の写真の右側(おしめが干してある・笑)、ここ、茶の間です。
ここで私は生まれました。



↑ 母と、兄と。自宅前で。

 
 
2000グラムの未熟児
2ヶ月も早く出てきちゃったのでw、保育器のある仙台の病院へ
父が仙石線に乗って連れて行ってくれました
(まぁ、もちろん覚えちゃいないけど)
 
 
2週間後の帰宅はタクシー使ったとか。
・・・あの当時の60kmタクシー移動、
いったいいくらだったんだろう
(そのぐらい、平気でタクシー使える人になりたいわね。電車があれば電車使いますけども。)
 

そして、こうして書き留めてしまうと
意外に?父の良きパパ振りが見える (^_^) 
 
 

2週間後、帰宅した赤ちゃんに
つけられた名前は、早苗。
早生まれ+早産だったからという理由・・・らしい。
 
 
 
鉄工所で溶接工をしていた父と
自宅で洋裁教室を開いていた母
 
 
洋裁教室は、後に私の部屋になる8畳間
ミシン2台と大きなテーブル
赤ちゃんの私は
待ち針や縫い針が散乱している床の上を
器用に針をよけてハイハイしたとかしなかったとか・・・
 

  


↑ 母の実家で。
一緒に映っているのが祖母。
家のオルガン弾いて歌う 陽気なチハルばあちゃん。
砂糖大好物で、トマトに砂糖かけて食べる人だった
  
 
 
私の家は貧乏だったけど
母の実家は歩いて5分ほどのところにあり
昔で言えば地主のような 大きな農家
(だから家にオルガンあった。らしい)
ここに載せた写真も、その実家を継いだ叔父が撮ってくれたもの
 


  
↑ この頃から、顔が変わっていない気がする私・・・(^^;
2歳の頃。幼少期の唯一の写真ね。


この後、保育所、小学校と
集団生活に入っていきます。(つづく)▷▷無邪気な保育所時代