はいどーも!
まみーです\(^o^)/
“道徳”ってご存知でしょうか?
以下、コトバンクより引用
① 人間がそれに従って行為すべき正当な原理(道)と、その原理に従って行為できるように育成された人間の習慣(徳)。はじめ慣習、風習、習俗の中に現われるが、人間の批判的な自覚の高まりとともに、慣習や習俗を批判し反省しながら、慣習から分化した精神的規範や規準として現われる。
※続日本紀‐慶雲三年(706)三月丙辰「道徳仁義、因レ礼、礼乃弘」 〔易経‐説卦〕
② 学道を修めた人の徳。
※蔭凉軒日録‐寛正三年(1462)九月二九日「前夕小雨洒。今晨果日晴。国師道徳所レ致、尤希有之由」
③ 小・中学校の教育課程の一領域。行動の善悪・正邪の基本を養うことを目的とする。
※小学校学習指導要領(昭和三三年)(1958)一「道徳の時間においては」
④ 老子の説いた恬淡虚無(てんたんきょむ)の学。もっぱら道と徳を説くところからいう。〔史記‐老子伝〕
つまり、善と悪の判断基準がキーワードと考えられますね。
では、善と悪の話で有名な“性善説”と“性悪説”は聞いたことがありますか?
性善説=「人は生まれながらにして善である」(孟子)
性悪説=「人は生まれながらにして悪である」(荀子)
なるほど。
生まれたときから善人か、悪人かということですね。
さて、ここで質問です。
あなたは善人ですか?悪人ですか?
謙遜して「悪人です」と答える人が多数を占めるとは思いますが、悪人なのであれば強盗や殺人など社会的規範を犯すようなことをしてますか?
してないですよね?
じゃあ“善人”になるのではないでしょうか?
ということになります。
ごちゃごちゃしてきましたね。
ここからはわたしの考えを自由に述べます。
わたしは“性悪説”推しです。
人は生まれながらにして悪なのです。
なぜ“性悪説”を支持しているのかというと、「善い人」になることを頑張っているからです。
イライラしたら金属バットでそこら中めちゃめちゃにしたいし、銃を持ってたら笑いながら発砲したい。
でもそれをやらないのは、「善い人」であることに努めているからなのです。
「善い人」になるために道徳的に判断し、倫理的に行動しているからということになるのではないでしょうか。
そう考えると、殴りたくなるのを抑えて笑顔で対応したり(してないけど)、意味のわからないことを言って正論だと正義を気取ってるような人たちに何も言い返さずそっとその場を離れるという行為はすべて、自分が「善い人」であることへのわたしなりの努力です。
逆に、“性善説”はどうでしょうか?
生まれながらに“善”であるということは、努力しなくても人は“善”であるのがデフォルトとなります。
この理論でいくと、世の中に“悪”が現れることはないと思います。
性善説はこの“善”をもっと育成していくことで、立派になれるという教えなんです。
“善”であることに努力するんです。
ちょっとまって。
それって“悪”に染まらないために努力しているのと、何が違うんだい?
そうなんです。
“善いことをする”という“努力”は、性善説も性悪説も変わらないです。
でもなんだか性善説って、「わたしって善い人だから、どんな行いをしてもすべてがいい方向に向かうの。だからわたしの言うことを聞きなさい」って言ってるように思えて仕方ないのです。
「悪いことしたかな?」という意識が本人に低い気がするんですよ。
わたしが働きかければ、あなたはきっと変われるよ?
という考えが根底にあるのではないでしょうか。
何を言うとんねん
そもそも、「相手のことを思いやって」という教育自体、わたしは間違えていると考えているのですよ。
相手のことなんてわかるかよ、相手だぞ。
こちとら自分のことを理解するのに必死なんじゃ!
自分の行いで相手を不快にさせてないかな、大丈夫かな、ぐらいしか考えられないんですよ。
と、わたしの中の何かがのたうち回るのです。
さて、話が逸れましたね。
実際、道徳の善と悪の判断基準は、その人の“価値”によるものです。
それをどのように養ってきたか、磨いてきたかによって、十人十色な世界が生まれるのです。
価値を押し付け合うことそのものがナンセンス。
せっかくこの時代に生まれ、多様性が認められつつあるのです。
自分の行動を省みて、尊重し合うほうがお互いのためになるんじゃないかなと思います。
人にはそれぞれ考えがあっていいんですよ。
なので、終わったことや人の行動そのものにその都度何かを言う人がいたら、否定もしませんが肯定もしません。
そう思ったんだね〜だけです。
それがわたしの“道徳”、すなわち“価値”であり“善と悪の判断基準”です。
結論
生きてるだけでえらい
