10月22日は、写真家のロバート・キャパが生まれた日だが(1913年)、大女優、サラ・ベルナール(1844年)の誕生日でもある。
自分は、サラ・ベルナールの名前を、アルフォンス・ミュシャのポスターで知った。装飾的な画風で知られるミュシャは、ベルナールの公演のポスターを頼まれ、洗練されたデザインで描いた。これがミュシャの出世作となった。

サラ・ベルナールは、1844年、フランスのパリで生まれた。本名は、アンリエット・ロジーヌ・ベルナールで、彼女は未婚の母親が生んだ私生児だった。
寄宿学校をへて、修道院へ入ったアンリエットは、尼僧になるつもりでいたが、彼女が16歳のころ、家に招かれてきた来客のひとりの貴族が、アンリエットは演劇学校に入って、将来女優になったらいいと勧め、それで急に進路が変わった。
修道院をやめ、国立音楽演劇学校の試験に合格した彼女は、優秀な成績で学校を卒業し、すぐにコメディ・フランセーズに採用、と、舞台女優のエリートコースを進み、サラ・ベルナールとして演劇界にデビューした。コメディ・フランセーズは、ルイ14世やナポレオンに庇護され、俳優たちに報酬のほか年金もつく劇団だった。
17歳で初舞台を踏んだベルナールは、19歳のとき、先輩女優とのいざこざから、かっとなって劇団を飛びだした。彼女は、ほかの劇団に入り、また劇団を移りながら、喜劇を演じ、しだいに名声を得ていった。やがて本格的な悲劇も演じ、無声映画に出演するようになったベルナールは、36歳のとき、自分の一座を率いるようになり、自分で俳優を育てながら、自分で劇場や演目を選べるようになった。アメリカ大陸へ公演旅行に出かけ、その名声は世界的なものとなった。
51歳のクリスマスの日、ベルナールは彼女主演の「ジスモンダ」のポスターを、挿絵画家だったアルフォンス・ミュシャに依頼した。できあがった作品は、ミュシャを一夜にして有名にし、彼はアール・ヌーヴォーの代表的作家になった。
ベルナールは意地っ張りで、いたずら好きな女優だった。大当たりしている演目を急に打ち切りにして、以前不入りだった演目をリベンジとばかり舞台にかけたりした。また、劇の最中で、脚本とはちがう脱線をして、共演者たちをよく困らせた。小デュマ作の『椿姫』は、最後のところでヒロインの椿姫が亡くなり、悲恋物語の幕となるのだけれど、ベルナールは椿姫を演じていて、ときどき、
「『あたしは、まだ、死なないよ』
 と呟いてなかなか息を引き取らず、臨終を取巻く俳優たちを狼狽させるようないたずらをやった。」(本庄桂輔『サラ・ベルナールの一生』角川書店)
亡くなる寸前まで女優として演技を続けたベルナールは、1923年3月、腎不全により、パリで没した。78歳だった。パリ市の市葬がとりおこなわれ、空前絶後の人出だった。また、人気の高かった英国ではウェストミンスター寺院で追悼式がおこなわれた。

サラ・ベルナールは、ユゴー、ワイルドなど、時代の最高の作家たちと交際し、かんしゃくもちだけれど、困っている人にはすすんで救いの手を差し伸べる、面倒見がいい姐御肌の大女優だった。女優という枠にはおさまらない、大人物だった。
亡くなる前、彼女の家の前は、彼女の安否をうかがうマスコミ関係者で人だかりがしていた。それを知った彼女は周囲にこう言っていたらしい。
「今まで、さんざん、あたしを悩ました新聞記者を、今度はあたしが苦しめてやる……あたしはなかなか死なないよ」(同前)
粋なせりふを吐く女性だった。
(2025年10月22日)


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