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蝦夷之風/EZO no KAZE

武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

なぜ蝦夷に「小人島」の言い伝えがあったのか

千島に渡った義経は「小人島」を訪れ、扇の大きさと同じ小人たちに

出合う (御伽草子『御曹司島渡』より)

 

1662(寛文2)年、伊勢松坂の商船がエトロフ島に漂着。船員らはアイヌの手助けにより、エトロフ、クナシリを経て、無事、松前まで戻ることができた。その道中、彼らはアイヌから不思議な「小人伝説」を聞く。その顛末をまとめた『勢州船北海漂着記』によると、「蝦夷人(アイヌ)が語るには、蝦夷より船で百里も離れた『小人島』に住む小人が、土鍋を造るためにたびたび土を盗みにやって来る。彼らは背も小さく、脅すと船もろとも隠れてしまう。小人島にはワシが多く、ワシにさらわれないよう、また大風のときには吹き飛ばされないよう、十人ばかりで手を取り合って行き来する」と。

 

神話に登場する「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」や御伽草子で有名な一寸法師をはじめ、アイヌの「コロポックル」から沖縄の「キジムナー」まで、「小人伝説」は古来、各地に存在する。この漂流者たちが聞いたアイヌの「小人伝説」では、①小人はワシ(時にはツル)に襲われることがあり、②一人では出歩かず、群れを成して行動する、という特徴的な描写がある。その後の伝聞でも慣用表現として度々使われるのは元ネタがあるからだと、鈴木広光(奈良女子大学教授)は指摘している(『小人島考・続貂』2006)。

 

鈴木は、明の学者・王圻がまとめた『三才図会』(1607)に、「東方有小人国、名曰竫、長九寸、海鶴遇而呑之、故出則群行」(意訳:東方に小人国あり、名は「竫(そう)」という。小人の身長はわずか30cmほどで、ツルに出会うと吞み込まれてしまうので、出かける時は群れを成して歩く)の一文があり、これが日本に伝わり、江戸初期に紹介されたアイヌの「小人伝説」に引用されたと主張する。

中国の『三才図会』を元にした『和漢三才図会』には

ツルと小人が一緒に描かれている

 

『三才図会』は当時の世界各地の言い伝えなどをまとめた百科事典で、「小人国」については、古代ローマのプリニウスがまとめた『博物誌』の中で、「インドの山岳地帯に身長が30cmを越えない『小人族(Pygmaei)』がいて、春になると隊列を組んで弓矢を持ち、ヤギに乗って海に行き、ツルの卵やヒナを食べて、自分たちを襲うツルが増えないようにした」とあり、ツルと戦う小人族の話は、この書が15世紀に活版印刷されたことでヨーロッパ人の知るところとなり、宣教師たちによって中国経由でアジア各地にも広まった」(前述論文より)という。

 

また、京都の天文学者・西村遠里が著した『万国夢物語』(1774/安永2)には、「短人国、国人男女三尺に足らず。五才にして子を生じ、八才にして老人となる。常に鶴に取らるるにより穴を掘りて居住す。夏三月は土を出て往来す。羊を以て馬のごとくに乗る」という上記に似た話があり、これも明で布教活動をしていた宣教師マテオ・リッチがまとめた『坤輿万国全図』(1602)の注記が元になっている。

 

さらに鈴木が注目するのは、こうした「小人族」の描写以上に、「小人国」が当初はインドの山岳地帯やナイル川の水源に想定されていたものが、近世になると北欧や極東の辺地に変わるなど、時代によって居場所が転々と移動していったことに、その本質があると指摘する。特に大航海時代以後に書かれた「世界地図」には、「小人国」は通常「巨人国」と一対で現れることが多く、ほぼ対角線上にこの2つの国が描かれる。これは「小人国」と「巨人国」が、現実世界との境界として設定された「地の涯」を意味し、地図に投影された『世界』という概念の輪郭を完結させるものであり、この2つの国は『世界』の内と外を分かつ境界標識であったと、見事な推論を展開している。

 

世界中を探索していた欧米人にとって、世界地図の最期の空白地帯は「蝦夷地およびオホーツク海周辺」だった。太平洋を目指したマゼランが南米大陸の最南端を回り、そこで見つけた足跡を見て、「大足の人の国」=パタゴニアと名付けたように、当時の冒険家たちがその対極にあった未知の地・オホーツク海こそ「地の涯」であり、ゆえに「小人国」が存在するものと考えても不思議ではなかったのだ。ちなみに、小人国や巨人国を探検する『ガリバー旅行記』が出版されたのは1726年である。

 

作り替えられた「義経伝説」と「小人島伝説」

 

しかし、これでは、なぜアイヌの間に「小人伝説」が伝わっていたのかの説明にはならない。それを解くカギの一つは「義経伝説」にある。室町期に人気を博した御伽草子『御曹司島渡(おんぞうし・しまわたり)』は、兵法を究めるために蝦夷の先にある「千島」の都・喜見城(きけんじょう)に向かった源義経が、道中で不思議な島々を巡る冒険物語で、その島の中に「背の高さは一尺二寸ばかり、扇のたけに等しきほどの者、三十人ばかり出で来れり」という「小さ子島」=小人島が登場する(上図)。

 

『御曹司島渡』は、松前経由で中世期から蝦夷地でも広まっていたことが知られており、「義経伝説」や「小人島伝説」のルーツのひとつと見られている。ただし、1669(寛文9)年の「シャクシャインの戦い」を機に、伝説の中身が変容していく。鈴木は「伝説が書き残された」段階で、「ある意図のもとに物語が”接続”された可能性」を指摘する。

 

歴史家の菊池勇夫は、ゲリラ戦に長けたシャクシャインの戦いぶりを見て、彼を「義経のごとし」と英雄視する気運が生じたことを按じた幕府が、アイヌを馴化させることを目的に、義経をアイヌの創生神「オキクルミ」に置き換えて「義経伝説」を作り替えたのではないか(「義経『蝦夷征伐』物語の生誕と機能」より)と見ている。同様に、「小人島伝説」にも、蝦夷地を日本の勢威の及ぶ「境界」として認識させることを目的に、中国の古書などの言い伝えと”接続”して再構成した疑いがある。事実、蝦夷地が初めて日本の地図に載ったのは、「シャクシャインの戦い」後の1678(延宝6)年に刊行された『新撰大日本図鑑』であり、蝦夷地の近くには「小人島」も描かれている。

 

江戸後期に登場する「コロポックル伝説」

松浦武四郎が描いた「コロポックル」

 

アイヌ研究者の瀬川拓郎は、アイヌの「小人伝説」は、勢州船の漂流記より前の1613(慶長18)年に英国東インド会社のジョン・セーリスが書いた『日本渡航記』に、蝦夷に2度行った日本人から聞いた話として、「松前よりさらに北方に、一寸法師のような小人が住んでいること」を紹介したのが最初だとしている。その後も、松宮観山の『蝦夷断筆記』(1710)や菅江真澄の『蝦夷喧辞弁(えみしのさえき)』(1789)などにも記述はあるが、実際に蝦夷地を歩き、アイヌから直接、話を聞いて記録したものとして、近藤重蔵の『辺要分界図考』(1804)や最上徳内の『渡島筆記』(1808)を挙げている。

 

近藤重蔵の記録では、「厚岸酋長イコトイ並イチャンゲムシというクルムセの夷人は、トイチセコツチャカムイの裔なり。老夷伝へ云、古ヘ夷地トイチセコツチャカムイと云ものあり、其身甚短し、皆穴居す。夷地開くるに従い漸々に奥地へ入り、遂に其種族相率ひて筏に乗り東洋のラツコ島へ往きて、其部落をなせり」(『辺要分界図考』)とある。つまり、「クルムセ」=千島アイヌの先祖は、竪穴住居で暮らしていた「トイチセコツチャカムイ」で、身長は低く、蝦夷地が開かれるに従い、北に移動し、ラッコが生息する得撫(ウルップ)島で暮らしたというのだ。

 

瀬川は、アイヌの伝承やこれらの和人の記録から、「小人」の名が、①「竪穴住居に住む人」を意味する「トイチセコッチャカムイ」、②「フキの葉の下の人」を意味する「コロボルグルカモイ」、そして③「千島の人」を意味する「クルムセ」の3種あり、年代的には①が最も古い使用例と思われるため、これが原義ではないかと推論。近藤重蔵の記述のとおり、近代まで竪穴住居で暮らし、土器や石器を使用していた千島アイヌが「小人伝説」の習俗を色濃く伝えており、また道内各地のアイヌが「小人伝説」を知っているのに、千島アイヌ自身は知らなかったことから、「千島アイヌこそ”小人”の正体と思われていた」のではないかと解説している(『コロボックルとはだれか』より)。

 

最上徳内の『渡島筆記』では、「昔、コロボクングル(フキの下でその茎を持つ人)と呼ぶ小人がおり、道東ではトイチセウンクル(竪穴住居に住む人)と呼んだ。彼らはアイヌの漁に先回りしてその魚を採るが、その魚をアイヌの家の窓から差し入れることもある。しかし、声はするが姿が見えないので、ある時、窓から差し入れられた手を引っ張ると小人のきれいな女だった。3日食事を取らなかったので死んでしまった(仲間から引き離されて悲しくて死んだ、の意味か)が、手と唇に刺青をしていたので、その習慣がアイヌの女性の間に広まった。小人はアイヌにいろいろ悪さをするので、ときに戦うこともあったが、小人は甲冑を付けて6~7人が集まってフキの下に隠れたという」(瀬川の抄訳を元にまとめた)

 

松浦武四郎も「フキの葉の下に隠れる小人=コロポックル」の絵図を書き残しており、そのユニークな絵柄は江戸の人々のエキゾチックな興味を掻き立てたと思われる。江戸後期になってから前述②の「フキの葉の下の人」=「コロボルグルカモイ」の呼び名が一般化していくため、「コロポックル」は比較的新しく登場した「伝説」と言えそうだ。ところが、明治になると、「コロポックル」はメルヘンの世界から一気にアカデミックな世界の中心的話題に浮上する。

 

『コロポックル』の正体を解き明かした鳥居龍蔵

 

南方熊楠、牧野富太郎とともに、

「日本の三大碩学」と言われた鳥居龍蔵

 

1877(明治10)年、東京帝国大学に着任したばかりのエドワード・S・モースが大森貝塚を発見。モースは出土した人骨の特徴から、この遺跡はアイヌ以前の先住者によるものとする「プレ・アイヌ説」を提唱する。これを受け、東京大学の人類学教室初代教授の坪井正五郎らが、アイヌの伝説に登場する「コロボックル」こそ、この「プレ・アイヌ」=石器時代人ではないかと主張。これに真っ向反対する同じ東京大学の人類学者・小金井良精たちとの間で、明治の人類学史上に残る大論争が展開される。

 

時代はまさにロシアとの間で締結された「千島樺太交換条約」(1875/明治8)の締結直後であり、9年後の1884(明治17)年には、ロシアとの内通を恐れる明治政府の意向によって、北千島で生活していた千島アイヌ90余名が色丹島に強制移住させられる。「コロポックル論争」はまさにこの頃に起こったもので、新しく日本領となった「千島列島」の管理・監督の一環で、千島アイヌの実態調査が求められたのである。

 

ここで登場するのが、無名の一学徒から東京大学人類学教室の雇員・標本整理係に採用されたばかりの鳥居龍蔵だ。フィールドワークを敬遠する同僚の代わりに台湾の先住民調査を買って出ていた鳥居は、彼を引き立ててくれた恩師・坪井の学説を立証することを期待されて、1899(明治32)年に、一転して千島アイヌの調査に向かう。28日間の滞在期間中に、北千島の占守島からカムチャッカ半島をめぐり、その後の大半を色丹島に移住した千島アイヌの人類学的調査に費やしている。

 

色丹島への移送を担った戦艦武蔵の船上で踊る千島アイヌの女性たち

(C)鳥居龍蔵写真資料研究会・東京大学総合研究博物館

 

鳥居は寸暇を惜しむかのように、彼らに伝わる神話や昔話などの言い伝えや衣食住などの生活習慣、今も遺る土器や石器、遺跡などの調査、さらに彼らの体質記録や言語などまで徹底的に調べ上げる。その結果、占守島や幌筵島などの北千島に住んでいた千島アイヌに石器時代人との文化的連続性を見出し、身体的特徴(身長は低くなかった)や使用していたアイヌ語などから見て、南千島や北海道アイヌと同一種族であることは明らかであることを立証。「コロポックル」が残したと言われる遺跡などは千島アイヌの先祖たちが残したものであり、そもそも「コロボックル」は実在しないと結論付ける。しかしこれは「コロポックル=プレ・アイヌ説」を唱える恩師の説を否定することであり、その後、「官学学者」からのさまざまな圧力(嫌がらせ)を受けるきっかけとなった。

 

とはいえ、鳥居は西欧先進思想の翻訳こそ先端学問だった時代に、徹底的なフィールドワークを元に独自な学問体系を打ち立て、人骨などを頼りに形態人類学へ向かう流れに抗し、白鳥庫吉らの影響を受けて、文化人類学的なアプローチを確立していく。その後、台湾や朝鮮、満洲、シベリア、蒙古などで、積極的な学術調査を行っていくことから、鳥居を日本の海外進出の露払い役と捉えて批判する人々もいるが、鳥居の伝記をまとめた中薗英助は、彼の学問に対する純粋な愛情と意欲は、政府の意に沿う研究に従事した「官学者」とは相いれず、また決して日本軍部の意向を反映した調査研究はしなかったと指摘。そのため、後半生は独力で研究活動を行わざるを得ず、妻のきみ子や子どもたちを助手として調査を続けるしかなかった。その点で、独力で世界的な研究者の名を得た「南方熊楠や牧野富太郎とともに、鳥居は明治の三大碩学の一人」(中薗英助『鳥居龍蔵伝』より)と称えている。

 

滅びゆく民族へのレクイエム

 

話を戻す。鳥居は、若き頃、先輩教師の依頼で北海道アイヌのパラサマレックと同居していたことがある。千島での調査で案内役を買って出てくれた千島アイヌのグレゴリーと意思疎通できたのもその時の経験が生きていたからだ。鳥居は彼らからアイヌ語を習うとともに、彼らアイヌ民族がたどった運命の悲しみと怒りを知る。その後、鳥居がまとめた報告書『千島アイヌ』(1899)の序文には、科学者らしからぬ、激情あふれる文章がつづられていた。

 

色丹島に移住後も竪穴住居で暮らす千島アイヌ(写真の出展は同上)

 

千島アイヌ! 千島アイヌ!

汝は古来波風荒き千島列島に、水草を追ひて、移住往来し、北はよくカムチャダールを圧し、南はよくヤングル(南方のアイヌ)を恐れしめたり。嗚呼何ぞ其剽悍勇猛なる、されど適者生存、優勝劣敗の原則は、汝の手より幸福を奪い去り、今や昔日の勇気已に消滅し、其人口の如き、又減じ減じて、憐れにも僅かに六十有余名を残すのみ。この形勢を以て進み行かば、汝の運命将に知るべきのみ。

この運命を知る者、何ぞ一滴の涙なき能はざらんや。其汝に向ての同情は遂に余をして、本書を世に公にせしむるに至れり。余はこの書に因て不肖なりと云へども、汝の体質、言語、神話、口碑、昔話、風俗、習慣、古物、遺跡等を記載し、以て汝の何物たる、汝の祖先の偉大なりしことを永く世に伝へんとす。聊か思うことを記して序とす。

 

まさに、滅亡の危機に瀕しつつある千島アイヌへの哀切を込めたレクイエムである。そしてこの序文に続いて、調査をともにした良きパートナーである妻・きみ子の短歌も記している。

 

すずらんの花にやどるか島人の

  かほりととどめて露と消え行く                        鳥居 きみ子