北海道は「神の国」足り得たのか③ 「日本のピューリタン」目指したキリスト教開拓移民団 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

理想の国作りを求めて米国に移住したピルグリム・ファザーズが、

北海道開拓に向かったキリスト教移民団のモデルだった

 

かつて北海道は「神の国」を夢見て渡った人たちの楽園になるはずだった。ところが彼らの希望は大洪水に押し流され、移住の決意空しく脱落するものが後を絶たなかった。キリスト教を旗印に掲げた開拓の道筋はもろくも潰えたように見えた。しかし、彼らが播いた種は子孫たちによってしぶとく育てられ、信仰のシンボルだった教会を中心とした町の姿をあちこちに色濃く残すことになる。北海道とキリスト教は必然の出会いだったのか。そして北海道はいまだ彼らにとって「神の国」足り得ているのか。

 

現在の伊達市にある「だて歴史文化ミュージアム」には、北海道で苦難の

移住生活を送った旧亘理藩の歴史資料が多く残されている

 

旧伊達士族団の成功を範として

 

「御一新」以後、明治新政府は中央集権化と財源確保を図るため、廃藩置県(明治4年)と地租改正(明治6年)を行い、封建制時代の遺制を撤廃していく。それによって194万人もの旧武士層が禄を失い、各地で不平士族による反乱が沸き起こった。鎮圧された士族たちは自由民権運動に形を変えて再興を期し、新政府に自分たちの意思を反映させるべく国会の開設を請願する、というのがその後の展開だ。ところが、この運動が政府の巧妙な「アメと鞭」政策によって失速していくと、代わりにキリスト教を旗印に北海道開拓に夢を託す人々が現れる。北海道開拓とキリスト教はどこでどのようにつながっていったのか。

 

明治10~30年代は、夢破れ、生活に窮乏する武士たちの救済の名のもとに、就農や起業を促す「士族授産」が大きなテーマとなった。各地の荒蕪地の開拓と移住が奨励され、また新産業起業のための資金貸与も行われた。しかし、渋沢栄一のような商才に恵まれた者は稀で、農業はもちろん商工業の知識も経験もない士族による経営は難しく、いわゆる「武家の商法」の多くがとん挫した。代わって政府が目を付けたのが士族による北海道開拓だった。

 

開拓移民の先駆けとして注目されたのが、戊辰戦争で「朝敵」の烙印を押され、土地と身分を失い、北海道への集団移住を余儀なくされた旧仙台藩の支藩・亘理藩の藩主伊達邦成と家老田村顕允に率いられた士族団だった。屯田兵制度の施行に先んじること5年前の1870(明治3)年に有珠郡紋別地区に入植を開始し、およそ10年間で総勢2651人に及ぶ大移住を敢行する。この予想を大きく上回る成果を見て、新政府はそれまでの開拓方針を大きく転換する。

 

この頃、初期の北海道開拓を仕切った黒田清隆が、莫大な開発予算を投入した官営事業を同郷の旧薩摩人である五代友厚などに格安で払い下げる利益誘導が世論の非難を浴び、汚職と不正にまみれた開拓使が廃止される。その後、1886(明治19)年に北海道庁が設立され、初代長官に黒田と対立していた岩村通俊が着任するや、亘理藩の成功を範として、誰彼問わず手厚く行っていた保護ではなく、財力のある有力な団体の誘致を優先する成果主義の移住政策へと舵を切る。

 

岩村は未踏の原野を調査して約65万町歩に及ぶ入植適地を選定したうえで、「北海道土地払下規則」を交付し、「ひとり当たり10万坪以内を無償で貸し下げ、10年以内に開拓の成果を上げれば1千坪を1円で払い下げる」という好条件で移民団の誘致を図った。ここから旧士族などによる移民団の組織化が始まることになる。

 

現在、開拓の村に移設保存されている赤心社が最初に

建てた教会。当時の彼らの信仰の有り様がしのばれる

 

赤心社が掲げた「キリスト精神による理想郷」

 

『北海道開拓精神とキリスト教』の著者・白井暢明は、明治期の北海道で開拓移民団として成功したのは、①伊達紋別での旧亘理藩や静内の稲田藩(映画『北の零年』のモデル)などの士族集団によるもの、②浦河郡荻伏での「赤心社」などのキリスト教移民団によるもの、そして③静内郡ルペシベでの日蓮宗本門仏立講団体などによるもの、という3つのパターンを挙げている。3つに共通するのは北方の厳しい環境で開拓を続けていくために、封建制的な主従関係(お家意識)や宗教などの「精神的な支柱」が必要だったことと指摘。中でも②のキリスト教移民団が全道各地で開拓を進めたことの成果として、

①    他の開拓団と比較して定住性が高い

②    その後の北海道のコミュニティ形成に果たした役割が大きい

③    地域の教育・文化や倫理の醸成に大きな影響を及ぼした

という3点を挙げている。

 

キリスト教移民団としていち早く北海道開拓に取り組み、また今でも組織が存続しているのが「赤心社」だ。1881(明治14)年に設立され、第一陣50余名が浦河郡西舎に入植した。中心となったのは兵庫の三田(さんだ)藩家臣・鈴木清だ。三田藩は元は伊勢の水軍だった九鬼一族で、徳川時代に兵庫の山間の三田に転封される。神戸の居留地に近かったことから、鈴木は米国人宣教師デビスと出遭い、キリスト教の教えを学んで日本最初の組合派キリスト教会「摂津第一公会」を設立する。

 

鈴木は広島の友人・加藤清徳・橋本一狼と意気投合し、北海道に理想郷を作る夢を抱いた。その後橋本は行方をくらまし、先に入植した加藤は肝心の開拓をなおざりにしていたため、鈴木は三田藩時代の同僚・沢茂吉に第二陣80余名を託し、荻伏で本格的な開拓事業に着手する。そして移住後30年で荻伏村は士族授産事業によって生まれた「模範村」として政府から表彰されるまでに発展する。

 

前述した白井は、「赤心社」の成功はいち早く集会所(後に教会へ)を設けて移住者間のコミュニケーションを重視したこと、また毎日曜の礼拝と飲酒の禁止というたった2つの約束事を決めただけで各自の自主性を尊重し、移住村としての存続を優先した鈴木と沢の経営姿勢の結果だったと指摘する。

 

注目されるのは、赤心社で働いた小川秀一が後にまとめた自伝で、「明治初めの北海道開拓の目的は北辺守備で、屯田兵がたくさん移住したが、元浦河は之と趣を異にし、北米の開拓者ピルグリム・ファーザーズにならい、キリスト精神による理想郷を建設するのが目的だった」と述懐していることだ。

 

彼らが唱えた「米国のピルグリム・ファザーズに倣って理想郷を作る」というスローガンは、実は北海道開拓を国家事業とした開拓使で指導的な役割を果たした渡瀬寅次郎が主張していたもの。渡瀬は札幌農学校の第一期生であり、これは彼が薫陶を受けたクラークの意思を受け継いだものだ。さらに渡瀬の主張を広めたのが、欧米の農業事情を紹介した津田仙(津田梅子の父)が発刊した『北海道開拓雑誌』で、津田は北海道をカリフォルニアに見立て、「米国のピルグリム・ファザーズの精神で北海道の開拓に当たることが国家的急務」と煽った。赤心社の設立は鈴木たちが津田の雑誌を読んで感化されたことがきっかけであり、また赤心社の活動は同誌に掲載され、全国の移民希望者の知るところとなった。

 

政治に失望した武市安哉はキリスト者として北海道開拓に文字通り、

命をかけて聖園農場を設立した。浦臼町には彼の墓が残っている

 

高知ネットワークが広げた信仰の輪

 

キリスト教移民団のもうひとつの大きな源流となったのは高知の自由民権運動メンバーによるもので、中でも武市安哉(武市半平太の親戚)の率いた「聖園農場」が播いた種が全道各地に広がっていくことになる。武市は板垣退助が率いた自由民権運動の主要メンバーであり、国会議員としても活躍するが、農民運動の過激化と政府の弾圧、民権派内部の路線対立などもあって、1882(明治15)年をピークに運動は下火になっていく。さらに1887(明治20)年に「租税軽減、言論集会の自由、外交策の撤回」を掲げた「三大事件建白運動」が始まると、主導した武市や坂本直寛(龍馬の甥)などは投獄され、武市は出獄後に国会議員を辞めてしまう。

 

政治に対する希望を失った武市はキリスト者として高知の窮乏する人々を救済する手段として北海道開拓を選ぶ。1893(明治26)年に樺戸集治監の所有地だった浦臼町に380万坪の土地の払下げを受け、第一次移住者31人とともに入植する。武市のカリスマ性もあり、翌年は200人、その翌年には400人という移民の応募があったが、リーダーである武市は移住後わずか2年目に、北海道に帰る青函連絡船の船中で急死してしまう。

 

しかし、聖園農場は当初から移住者自身による出資金で賄われ、相互・平等の意識が高く、幹部メンバーによる「協議体」で運営される民主的な組織であり、また幹部の多くがキリスト教信者だったためにヨコの結束が強かった。そのため、武市の娘婿である土居勝郎を後継者として武市の「志」は継承されていく。また同じ高知出身の片岡健吉(後に衆議院議長)やキリスト教長老派教会の中心人物だった東北学院院長の押川方義らが1897(明治30)年に立ち上げた「北海道同志教育会」は、武市とともに構想したキリスト者育成を目指した大学建設を目指したもので、押川は同じ年に遠軽町に入植して「学田農場」を設立。さらに武市に刺激を受けた盟友の坂本直寛らも同じ年に北見に「北光社」を設立するなど、聖園農場の与えた影響は大きいものがあった。

 

「北光社」設立に関わった坂本直寛は、1887(明治20)年に獄中で読んだ旧約聖書の中の「神がモーゼをしてヘブライ国建設の偉業を為さしめた事績に倣って」、神による拓殖事業を経営しようと企む。当初は榎本武揚らが進めていたメキシコ移民に参画する予定だったが、日清戦争後の国際情勢から、ロシアに対する北辺防備の必要性を感じ、「国家増強としての北海道開拓」へと方向を転じる。ただしその坂本はわずか数か月後にあっさりと「北光社」を離脱し、武市の死後の聖園農場に移る。

 

「神による拓殖事業の経営」を掲げた坂本は、その後、日清戦争に勝利した高揚感もあってか、彼の唱えるキリスト教信仰はナショナリズムと合体していく。坂本は「日清戦争は”義戦”であり、小国日本が大国清を倒したのは天皇の稜威と軍隊の忠雄、国民の愛国心のほかに”天祐”、つまり神の摂理があったからだ」(『海外移民論』)とまで言い切ってしまう。

 

こうした発想は坂本だけの話ではない。先の白井は、キリスト教信仰と愛国主義との結合は、当時の士族信徒に特徴的な現象であったという。そもそも当時のインテリ層である旧士族がこぞってキリスト教に惹かれていったのはどうしてなのか。

その理由と思われるのは、

①    欧米列強に立ち遅れた日本が近代化(=西洋化)を進めるうえで、封建的な階級社会からの脱却が急務であると考えたこと

②    そのためには、封建思想のアンチテーゼとしての「人間開放」や「自由平等(貧民救済)」などがこれからの社会の精神的基軸となるべきであり、

③    こうした思想の根底にあるキリスト教の理解が必要と判断したこと

④    また禁酒・禁欲などの節制を旨としたキリスト教の倫理性が「武士道」に通じると思ったのかもしれない。

 

この根底には国家神道を基軸として絶対主義的な天皇制国家を構想した新政府への反抗の色合いも伺えるが、その一方で、①を最優先の目的ととらえた瞬間、日本の国力を強くするという発想は新政府の「国家主義」に絡めとられ、キリスト教への信仰は、簡単に「愛国主義」と結びついてしまう危険性をはらんでいた。これは紋別で「伊達村」建設にメドを付けた伊達邦成や田村顕允が、士族団以外の移住者が増加していく中で、新たな「絆」を模索するためにキリスト教に宗旨替えし、「伊達教会」を建設していくことにも通じるものがある。

 

押川方義ほか、当時の有力なキリスト教関係者が立ち上げた「北海道同志

教育会」の意志を受け継ぎ、信徒の手で建てられた「遠軽教会」。札幌の

「北一条教会」を設計した田上義也の設計を模したと思われる

 

伝道の足跡が今も語りかけているものとは?

 

キリスト教移民団の先駆けとなった「赤心社」は、その後、農地開墾から牧畜、鉱山開発、不動産運用などにも手を広げ、今も経営体として存続している。片や1893(明治26)年に今金に入植したインマヌエル移住団は、同志社出身で組合協会派の志方之善と日本聖公会の天沼恒三郎の2人によって開拓事業を開始したが、最初から2つの教派が相乗りしたことで分裂と連帯を繰り返し、また農業経験のない学生が多く、入植4年後には移住団の半数が離脱してしまい、「キリスト教理想村」という当初の目的は実質的に放棄せざるを得なかった。その後、1912(明治45)年に一般の移住者が大量に入植し始めてからようやく町としての発展を見ることができた。

 

坂本が早期に離脱した北光社は、後を継いだ沢木楠弥も1904(明治37)年に前田駒次に後事を託して故郷に帰ってしまう。その前田も後に道議会議員に転出してしまい、1914(大正3)年には経営譲渡することになる。北光社はもともと多くの団員が小作農だったために平等意識が低く、キリスト教信者が少ないこともあり結束力が弱かった。後にピアソン夫妻が伝道に訪れた時の建物が今は記念館として保存されているが、彼らが布教した時でさえやっと31人の信徒を確保できた程度だったという。

 

一方、一大勢力だった聖園農場は、幹部たちが美幌や名寄、佐呂間や士別などに教会を建てて布教活動を進めていく。ただし肝心の聖園農場の方は武市の後継者である土居が1903(明治36)年に道会議員となってから農場の管理が停滞し、1909(明治42)年には北海道拓殖銀行に譲渡される。その後、1962(昭和37)年になって移住者の子孫によってふたたび「聖園農場」の名で復活し、今に至っている。

 

また武市とともに「日本と北海道の将来を担う人材育成のためのキリスト教主義による私立大学の設立」を構想し、押川らが立ち上げた「北海道同志教育会」は明治末には解散してしまう。ただし、当時ここに集まった信者たちにより、現在の「遠軽教会」の前身となる集会所が設立され、今もキリスト教信仰の火を絶やさず燃やし続けている。

 

キリスト教移民団による北海道開拓は、「生活の基盤である土地と労働の上に築かれた生活と内面的な信仰が一体となった共同体の建設」を目指したものだった。それぞれの団体の活動は今や歴史の中に埋もれてしまったところも多いが、その果実は確実に北海道の大地に刻まれているのは間違いない。