植民開拓と先住民② アメリカ・インディアンは、なぜカジノ事業を始めたのか | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

(『アメリカ・インディアン』(創元社)より)

 

現在、全米で約240もの先住民部族が500件以上の「インディアン・カジノ」を経営し、2016年にはラスベガスなどの商業カジノの収益を上回り、急成長ビジネスとして注目されています。しかし、先住民問題に関心を持ち、インディアンに好意的だった人々の中からも、「カジノで金に目がくらんだインディアン」といった批判があるようです。

 

北米先住民研究のスペシャリスト・野口久美子さんの好著『インディアンとカジノ』(ちくま新書)では、インディアンたちがカジノ事業を始めるに至った歴史的背景と、そこで得た財源を使い、彼らが何を目指しているのかについて、詳細な調査と研究から明らかにしています。そこには、アメリカ独立戦争以後、保留地に隔離され、貧困のどん底にあったインディアンが、自活の道と自らの誇りを取り戻していく過程が描かれていました。

 

「部族の自治」を認めた独立後のアメリカだが・・・

 

独立機運で盛り上がるアメリカに多くの移民がやって来ると、彼らに与える土地が必要となりました。となれば、インディアンたちの領土を奪っていくことになるのは明らかです。とはいえ、「民主国家」を標ぼうして独立したアメリカは、「インディアンから土地を譲り受ける条件として、部族自治の保護とそのための補償、保留地の設置などを約束する」という条約を締結していくことになります。野口さんはこれを「アメリカの良心」と呼び、1768年から約1世紀に渡り、各部族と交わした237に及ぶ「インディアン条約」が、新生アメリカの「建前」となり、またひとつの制約になったことを指摘します。

 

ただし、実際には条約内容は相談もなしに大幅に修正されたり、一方的に破棄されるなど、「インディアンの土地を不当に奪った点において、非常に暴力的に強いられた不平等条約だった」(野口)ことも確かでした。1803年にフランスからルイジアナを購入し、国土が倍増すると、1830年に「インディアン強制移住法」を成立させてこの地のインディアンを追い出します。さらに1848年からのカリフォルニアのゴールドラッシュで西部への移住者が急増すると、インディアンには「保留地」と言う名の隔離政策が取られていきます。

 

保留地から出てバファローを追いかけただけで、監視のために築かれた砦に配属された兵士に攻撃される様は、まさに第二次世界大戦後に盛んに製作された「西部劇」そのもの。最も抵抗したスー族やシャイアン族、コマンチ族などは、格好の「悪役」に仕立て上げられました。1876年の「リトルビッグホーンの戦い」でスー族がカスター将軍を撃退したのが最後の勝利で、1886年にジェロニモ率いるアパッチ族340名が保留地に送られると、インディアンの抵抗はなくなり、1890年代には人口が24万人に激減して、以後、「消えゆく人種」とみなされていきます。

 

「保留地」を逆手に取った免税ビジネス

 

19世紀末から20世紀初頭にかけ、戦争や虐殺、強制移住などの武力による統制の必要がなくなった代わりに、「救済」の名の下でインディアンをアメリカ人にするための同化政策が進められていきます。これはまさに明治期になってからのアイヌの同化政策と同じです。結果、何が起きたかと言えば、先住民の「生活と文化の破壊」だったことは明らかです。そして若者たちを寄宿学校に「収容」させたことで、アメリカ化への洗脳と担い手不足による部族の貧困化が進みました。

 

こうした状況を改善しようと立ち上がったのが、社会福祉家のジョン・コリアです。彼はアメリカ・インディアン擁護協会などの福祉団体を組織し、貧困にあえぐインディアンの自立を促す活動を始めます。そして彼の活動理念はフランクリン・D・ルーズベルト大統領が打ち出した「ニューディール政策」に採用され、コリアは政府のインディアン対策を担うインディアン局長に抜擢され、「部族憲法」をもとに「部族政府」が自治を行えるシステムを作り上げるといった先進的な改革を進めていきます。後に急進的と批判され、政府を追われることになりますが、コリアの活動と実績はもっと知られていいものです。

 

その後、コリアの理念は第二次世界大戦に従軍したインディアンたちに受け継がれていきます。この大戦から復員したインディアン諸部族のリーダーたちは「全国アメリカ・インディアン議会(NCAI)」を組織し、彼らが主催した「アメリカ・インディアン・シカゴ会議」がインディアン復権を旗印とした「レッドパワー運動」の起点となって全米に広がっていきます。

 

その一方、ジョンソン政権で上院インディアン問題委員会議長だったロバート・ケネディがまとめた「ケネディ・レポート」(ロバート暗殺後、弟のエドワードが引き継ぎ、1969年に発表)で、インディアン社会の深刻な貧困が明らかになります。彼らの平均収入は国内平均より7割も低く、失業率も40%と10倍の高率であり、全米の最底辺層で生き続けていた実態が分かったのです。

 

やむに已まれず、貧困から抜け出す手段として最初に生まれた保留地事業が、1964年にワシントン州のコルビル保留地で部族のタナスケットが始めた「タバコ店」でした。タナスケットは「保留地であれば州の税制度は適用されない」と主張し、タバコを非課税で販売。店には客が押し寄せ、大成功します。もちろん、州政府は販売を取り締まり、営業停止状態に追い込みますが、タナスケットは州を提訴し、州の最高裁まで争うものの敗訴。しかしそれでもめげず、今度は連邦政府に訴えたことで「アメリカの良心」が作動し、終に連邦地裁で勝訴します。この勝訴が呼び水となり、各地の保留地で、タバコからアルコール、ガソリンなどの非課税販売が広がっていきます。

 

保留地に隔離されたインディアン部族は、自由に狩猟に出ることもできず、

また痩せた土地は農地にもならず、生活は貧しくなるばかりだった

(『アメリカ・インディアン』(創元社)より)

 

カジノはインディアンに残された「逆襲の一手」

 

そもそもインディアンは「賭け事」好きで、ギャンブルは遊びの一つとして日常生活の中で定着していたようです。そして都市部から離れた場所にある保留地という立地は、「カジノ」にとって幸いしました。

 

1977年にフロリダのセミノール族がビンゴ場を開き、やはり連邦地裁で1980年に勝訴すると、これを盾にとって、1980年にカリフォルニア州南部の部族カバゾンが保留地にカジノを開きます。しかし市警察が関係者を逮捕し、カジノはあっと言う間に閉鎖。すぐに連邦地裁に提訴するも、今回はもつれにもつれ、ついに連邦最高裁まで上がり、7年後の1987年にようやく保留地でのカジノが合法との判断が下ります。

 

こうして1987年に始まった「インディアン・カジノ」は、「保留地には州の税制や法制度の適用が制限されるという経済活動上のメリットを最大限に生かし、個々のインディアン部族が保留地で独占的に展開する保留地ビジネスのひとつ」(野口)として急拡大していきます。カジノ産業に進出したインディアン緒部族は、その収益を保留地内の医療、教育、インフラ整備のほか、自治体や政党への寄付などにより、自分たちの生活環境や社会的地位、政治的発言力を高めてきました。

 

「インディアン・カジノ産業は、目の前の貧困をいかに生き抜くか、部族自身に残された数少ない選択肢の一つだった。多くのリスクを引き受けて橋を渡った彼らを前に、自然主義者たちの感情論は常に保留地の外側の安全な場所から投げかけられている」と野口さんはカジノ批判にこう答えます。そして、「カジノ産業から真に利益を得ているのは、部族支援から解放された連邦政府やその収益の一部を得ることができる州である。それに目を向けずに、インディアン・カジノ産業の是非を語ることはできない」と指摘しています。

 

実際、「ケネディ・レポート」から40年たった2010年の調査でも、依然として保留地の平均貧困率は全米平均の3倍の28.4%であり、教育、医療、住宅のほかインフラ整備も立ち遅れていて、これはインディアンに対する国家予算の削減が貧困に輪をかけていることを示しています。その意味でも、カジノはインディアンの経済的自立のための「逆襲の一手」だったことは否定できません。

 

アイヌとの協働を模索するインディアン・カジノ

インディアン・カジノを手掛ける「ハードロック社」は、苫小牧でIR事業の構想

を発表。アイヌとの協働を提案に入れている(観光経済新聞の記事から転載)

 

ここで、日本の「先住民族」と認定されたアイヌに話を転じてみます。

明治政府が蝦夷島を「北海道」と改称して本格的な植民開拓を進めるに際し、「先住民族」のはずだったアイヌの生活の場は「無主の地」とみなされ、多くの土地が取り上げられ、漁業権や狩猟権などの生活権を奪われました。アメリカが建国時にインディアンの先住権を認め、彼らの土地を譲り受ける代償に、部族の自治の保護と補償、保留地の設置などを約束したのとは大きな違いです。

 

時を経て、2007年に「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、翌年、日本の国会でも「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が満場一致で可決されます。ところが、その後、具体的な施策として決まったのは、「アイヌ文化の深い理解と経験を得ることができる民族共生象徴空間」、つまりあのウポポイの建設でした。

 

「アイヌ民族の先住権に関する新たな政策採用のために始まった一連のプロセスが、政府の支配による文化観光計画に変わってしまった」(『アイヌの権利とは何か』第一章・テッサ・モーリス=スズキ著より)といった批判があるのは当然です。アイヌの人々が求めていたのは、「文化振興」だけでなく、かつて生活していた場所での活動の自由や差別なく暮らせるための社会的立場の法的な認定などだったはずでした。

 

2018年11月27日の北海道新聞に興味深い記事が出ました。苫小牧市が誘致を計画している「統合型リゾート施設(IR)」に対し、開発構想を公表した6社のうちの米国3社が「インディアン・カジノ」だと報じ、この3社がみなアイヌとの協働を検討していると口にしたと言います。このうちの1社「ハードロック社」は、日本でも有名な「ハードロックカフェ」を買収したインディアンのセミノール族系列です。同じ先住民である立場から、カジノを中心としたIR事業での優先的な雇用やノウハウの共有などを提案したものかと思われます。

 

この記事が出た後、「アイヌもカジノに手を染めるのか」と揶揄する声が出ました。もちろん、「アメリカの良心」に基づいて保留地内での自治が認められているインディアンと、先住権や自治が認められていないアイヌでは事情が違います。むしろ日本でカジノ事業が始まった場合、この国は「アイヌ」の名だけを利用してしまう危険性があります。

 

1997年に国会で「アイヌ文化振興法」が成立した時、アイヌの活動家の多原良子さんは、こんなコメントを残したそうです。

「私たちアイヌ民族は、奪われた権利を返してほしいといろいろ要望していました。結局は文化振興のみの法律になりましたが、それでもアイヌ民族を認めた新しい法律の第一歩として大変意義があります。(中略)しかし、できた法律はアイヌ文化法と言われる法律です。この法律はアイヌだけが利用できる法律ではありません。むしろ和人の方にメリットがあります。例えば助成事業はアイヌの研究、文化活動をする団体や個人は誰でも申請できます。アイヌ文化の理解を深めるための展示会を開いたり、アイヌ語のラジオ放送を聞いたりすることもできます。また助成事業を申請すれば無料で古式舞踊の鑑賞ができます。私たちアイヌは、見て理解していただくために一生懸命踊らなくてはなりません」(『アイヌの権利とは何か』より)。

 

カジノという画期的な手段で民族の自立を手にしたインディアンを見て、未だ困難にあえぐアイヌはどう未来を描いていくのでしょう。そして私たちは。