更なる成長の為に攻めるべきか?堅実線を採るべきか?そのために、トップは何をすべきか?


1.トップは、高い目標設定が、いったい何の為であるのかについて以下の視点から明確にしきちんと伝達するべきである。


・社会的な意義

・会社的な意義

・社員に何をもたらすか


また、目標設定の中で金額や金銭的なものを中心に設定しがちだが、金銭的な欲求以外の喜びや楽しさなどの感情面での明確な意義設定が必要である。

売上高や給与面など金要素だけでは、天井知らずで切がなく欲求レベルが低いため崩壊しやすい。


もし、全社員・経営陣・社会的な感情的欲求面での意義が明確化できないようであれば、直ちに中止するべきである。

たとえ成功しても、長期的にあまり良い結果を生まない。


2.かかわる全人員の能力の開発と把握を徹底的に行う。


前回申し上げたように、トップとトップ以下の職位層では切迫感や責任感にどうしてもずれが生じる。

個々人は自分の能力の限界を感じやすく、出来るだけ楽をしたいという潜在的な意識を持ちやすい。

少数精鋭の意識レベルの高い集団でも、成功しているうちはいいが失敗が続くと精神的・感情的な部分からモチベーションに個人差が生じることもある。


そのため、人材の能力のをどのくらい引き出せているかということが前提となるが、拡大目標値の設定はトップ以外の能力の100%が限界というところで予測している。

さらに目標を高く持ちたければ、トップの目標達成に投じられる行動の成果を+αするくらいが限界となる。


つまり、消極的な目標設定をせよということではなく、高い目標設定には人材の能力と伸びしろが密接に関わっているため、拡大の前に人材開発と伸びしろのある優秀な人材が整っているかということを第一の取り組みとし、冷静に分析したうえで拡大策の基盤とすることが重要となる。


若手ベンチャー家は若さゆえの行け行けムードに傾倒しズレが生じやすい。



もちろん上記2点以外にも、損益的なことなど様々な構想は必要であるが、見失いがちで特にあげるべき2点にふれた。


トップは自己の能力と社員の能力をしっかりと把握し、能力の拡大と業績の拡大をしっかりと結びつける必要がある。

それに拡大がもたらす意義を加えたうえで初めて目標設定の下地が作られることとなる。




ベンチャー企業家で成功した方々の華々しい成功体験のなかで、大きく成長させるきっかけとして、予想外な目標設定をし徹底的に攻める方策をとり上場企業まで発展させたケースをよく耳にする。


なにも、責めずに慎重に行くことを勧めるわけではないが、マネジメントの中で多く判断に迷うのは、ここは攻めるべきか否か?に小さなことから大きなことまで決断を迫られる時であろう。


1つのケースにすぎないが私の失敗した体験から例にあげると、


会社が成長軌道に乗ってきて、拡大のための資金を追加投入するケースを取り上げたい。


起業したての創業期は資金にも限りがあり、公的機関からの借り入れも少額な為、もちろん経営者はできる限り設備などの固定費を最小限にとどめる。ここで計画性のない計画を立てれば立ち行かないのは明白なため、判断に迷うことない。ある程度の妥協ができず設備にばかりお金をかければ、数か月で倒産するのは当たり前だ。よほど自己資金があれば別だが。


問題は現在以上の生産・販売など業績の拡大を目指すにあたって、起業当初のものでは限界があるといった場合、資金の投入をどのくらいにするか?悩むところである。


業種により様々であるが、我々は多くの資金調達を可能とする方策をとり運転資金・設備投資を増大し、高い売り上げ目標を立て邁進したが、結果失敗した。


なぜか?


繰り返すようだが、拡大のための驚くような高い目標を打ち立て、その為の先行投資を行うことを間違っているとは思わない。

問題なのは、それに見合う人間の力と設定のズレである。

よく言われる「ヒト、モノ、カネ、情報」の順序がヒトから始まっている事からもうかがえるように、物と金と情報を用意しても、最も重要な人がそれに追いついていなければ本末転倒となる。


当り前の結論を申し上げると、さまざまな視点から可能性をよく吟味し、かかわる人間の能力を基準に目標設定を行い投資額を決めるということになる。

しかし、これが難しいので迷い、悩むのだよという批判はあるだろう。



では、人とはこの場合どの部分を指すのか?


一つ目はトップの達成能力・意識である、

二つ目はそれに伴う経営陣・管理職の達成能力・意識、

三つ目は高水準に設定した目標に従業員が追い付けるような仕組み作り

が正しく行われているかという点である。


1~3に分けている理由はこの三つの層の能力云々ではなく、目標達成に伴う心構えがあるかどうかという点である。

立ち上げたばかりの会社の場合は多くの場合トップダウンの体質が多いため、各層で目標達成に対する意識は違うのは当たり前で、目標を決めたのはトップという場合、当然トップは達成に強い気持ちをもって臨んでいるしその為の様々な施策を打つ。


問題は、その他の経営陣と管理職である各々のリーダーがどのような意識で目標達成に臨んでいるか?

もちろん、会社の方針や拡大するために必要な投資を検討したうえで計画を実行しようと合意し進めている目標設定なため、達成する意欲はもって望んでいるが、決定的に足りない要素がある。


それは、目標の達成に対する喜びや夢の実現に対するベクトルと役職が低くなればなるほど少なくなるリスクが時間と共に問題となって浮上してくる。


これは、ベンチャーの場合の資金調達はほとんどの場合トップが行うケースが多い。

つまり、借金というリスクが背水の陣となるのは実質借入の連帯保証となっているか否か?がかなり多くの意識を締め、リスクのない人間には現実の数字で意識の中ではリスクをとらえているが、無意識化では切迫感を感じていないケースが多く、これが時間とともに「ダメかもしれない」という負の意識に浸食されて浮上してくる。


これは、当たり前のことだと感じられるだろうが、拡大のために行う施策が効果が出る可能性のほうが圧倒的に少ないなかで、達成意識をどのくらいキープし続けられるのかは個人の性質的問題や設定している目標が個々の夢につながっているかどうかがカギとなる。


感情面をクローズアップした合理的な考え方ではないかもしれないが、私は決して鉄の塊でできていない人類とともに作り上げていくモノに感情を抜いて構築するべきではないと考えている。


それなら、トップは何をするべきか?NO.2以下の経営陣は何をすべきか?従業員に対して何をすべきか?




おそらくダメだろう。


という予測をもって事に臨む場合が人生の中で多々ある。

今回の場合も98%撃沈の予測される、打ち合わせという名の負け戦であった。


この場合の「撃沈」は終わりを意味している。


が、終わりは始まりであり、始まりは終わりの始まりである。

メビウスの輪のように明快かつ業(カルマ)的に絡み合う物事の終始は、宇宙的絶対な流れを感じさせ人類を絶望と希望の天秤に掛けながら嘲笑う。


今回も結果は、撃沈。


これで我社は、究極のピンチを外部の力と資本を入れることで解決するという方法を失った・・・。


ただし、絶望ではない終わりは始まりであり、絶望は希望の始まりである。


即座にプランDに切り替え、再建の方策を練り実行に移すことを決断することとなった。

ただし、プランDは事実上最後の策であり、失敗すれば全てが無に帰す。


即座に新しい始まりを用意し、それを実行し希望とすることで我々は生き長らえている。



ある人が言った。

「私は人生で二度絶望した。」という人は、本当の絶望を知らない。


この言葉の意味深さは私では計り知れないが、「絶望」とは二度もできるような生易しいものでなく、本当の絶望はもっと壮絶であり、正気で生きれるようなものでは無いのであろう。


だから、我々が日々感じる「絶望」は「チョイ絶」程度のものなのであろうが、それでも我々弱き人間らは気を伏したり、心を患ったりする。


もし、チョイ絶している人があればそれは日常の茶飯事であり、すぐに始まりが訪れるか、少し時間がかかってしまうかは、あなたの心の伏せ具合によるところが大きい。


ゆっくり後ろを振り向いて、左右斜めに目を向けて、もしあなたの隣に誰かがいたら、笑顔で前を向いて進んで頂きたい。小石に躓いても、なんてことはない。



生きていると浮き沈みがある。



ある日、たまには空を見上げてみた。

真っ青な冬から春になりかけて、まだまだコートが手放せない季節の青い空に、飛行船が飛んでいた。


近頃めったに見かけなくなった飛行船に少し希少的な嬉しさを感じていると、

そのまた高い空の上に飛行機が、先ほどの飛行船と交差する軌道で飛んでいた。


私は、占いなのか、願掛けなのかよくわからない習慣を思いつき、


「もし、この飛行船と飛行機が重なるように交差したら、今起こっている問題のすべてがうまくいくっ!」

と、訳のわからない勝手なことを心に思い、もう数秒で交差しそうな二つの飛行物体をみつめた。


ゆっくり低空をまっすぐに飛び続ける飛行船に、上空の飛行機が高速で近づいていく。

飛行機の速度しだいで交差は実現し、すべてがうまくいく願いは通じる。


・・・。



人生を数十年生きてきた者であれば、当然感じているであろうが、うまくいく時うまくいかない時が交互にやってくる。

これは逆らいようのない「何か」である。

古来の人類も、占いや風水を国家の方向性の中心部分で深くかかわらせてきた。

科学的な実証主義に染まった我々でも、ふと流れのような、運命といわれるモノのような、絶対的な何かを感じる時がある。


それは、グローバル環境的なものであったり、身内や周りの知人による影響であったり、もっとわけのわからない宇宙の摂理による影響が個々人まで及んでいるのではないかと、を感じる時もある。


今までも大きな流れの中で浮き沈みがあったし、これからも何度も翻弄されるのであろう。


嘆くことなく、悔やむでもなく、投げ出すのでもなく、挑戦しつづけるという、これまた運命の中でもがき、苦しみ、喜ぶことを幸せと感じつつも、やはり1人では太刀打ちできない。


人が居て、人が居て、人が居て。なんとかかんとか励まされ、共に想い合い、苦しみながら暮らしてきた。


それでもたまに、神様に頼りたくなる時もある。我々は、そうそう些細なことで人に弱みを見せるわけにもいかない。




さて、冒頭の飛行機だが、愚鈍な飛行船のお尻をかするかかすらないか肉眼では判断できない微妙な交差をし彼方へ消えていった。


さて、これは交差したのであろうか?交差しなかったのであろうか?

ハイスペックカメラなど誰も設置してくれるわけなのい、勝手な出場選手一名のみの空中交差願懸け大会は神のみが結果を知っており、


願懸けの結果に頼ることなく、自分で何とかしろという粋な洗礼を受けた私は、あと1時間後に控えた自分の会社の浮沈をかけた打ち合わせに臨むことにした。